第13話 妹の傍に居たい
結局、私は自分の出した声に驚いて、逃げるように部室から飛び出した。
そのまま、トイレまで走って個室に飛び込んで、荒れた息をどうにか抑える。
漏れる息が熱い、心臓が割れそうなくらいに痛い、身体はずっと微かに震えてる。
頭の中では、さっきのくろえの声が、止め処なくリフレインし続ける。
『――――はる』
唇が触れてしまいそうなほどに近かった。
触れる息で耳が溶けそうなほどに熱かった。
鼓膜を通り越して、脳を揺らされているような錯覚さえしてしまった。
挙句、あんな、あんな声――――。
『――――ぁ―――――っん!』
あんな声、まるで―――。
必死に止めようとしてるのに、記憶は氾濫し続ける。
くろえの唇。声。指。繋がれる手。触れる身体。重なる肌。
まるで―――――。
思わず火照る身体をぎゅっと抱きしめた。
思考の拒絶反応とは裏腹に、身体は熱くて震えるばかりだ。
いけないのに、こんな感覚を抱いてはいけないのに。
身体に縋る手に力を籠めて、痛いほどに自分の指を食い込ませる。
痛みがあれば、少し正気でいられる気がしたから。
そのまま個室の壁に、倒れるように身体を預ける。
冬場のトイレの壁は酷く冷たくて、でもそんな冷たさが、私を少しだけ正気でいさせてくれた。
漏れる息が少しずつだけど、静かになっていく。
そんな呼吸のおさまりに合わせて、独り、静かに個室の中で目を閉じた。
もう少ししたら、落ち着くかな。
そしたら、また部室に戻って、いつも通り過ごせるだろうか。
ぼやけた思考で、そんなことを考えながら、肌が冷えていく感覚だけをただ感じてた。
そういえば、こんな冷たさを、昔はずっと感じていたんだなってことを、どうしてか想い出す。
あれは、確か、そう。
くろえがまだ、私の妹じゃなかった頃。
まだ、私が独りぼっちだった頃。
※
私のお母さんは、しゃしんかです。
それもただのしゃしんかじゃありません。世界でもゆうめいなしゃしんかです。たく山の人がお母さんの作品をほめます。たく山の人がお母さんのしゃしんでなみだを流します。
たく山しょうも取って、色んな所でこてんをしています。
だれよりも、『とくべつ』なお母さんです。
だれにも負けない、じまんのお母さんです。
私はそれを心から、ほこらしく思います。
―――だから、あまりお家に帰ってこなくても、しかたがないよね?
※
幼少期に、私がお母さんと会えた時間は、他の子どもの何分の一くらいだったんだろう。
実のお父さんは私が産まれる前に、どこかに消えてしまった。
だから小学校に上がるまで、いつもベビーシッターの柳さんと、家政婦の田川さんが、私のお世話をしてくれていた。
二人からは、いつもお母さんの話をたくさん聞いたっけ。
こんな凄い人なんだよ。こんな沢山の人がお母さんを見ているんだよ。だから、寂しくてもちょっとだけ我慢しててね? って、何度も何度も。
実際、お母さんは凄い人だった。高校生になった今だからこそよくわかる。具体的にどれだけの人に見られて、どれだけのお金が動いて、どれだけの人を支えているのか。お母さんの仕事がなくなれば、一体どれだけの人が路頭に迷うかわからないくらいだ。
だから、仕方なかったんだと思う。だって子どもに構えば、それだけ特別な人の時間が失われてしまう。まして、私なんかみたいに、幼稚園で友達の独りもできない、普通にもなれない子どもの世話なんてしていたら、一体どれだけの人が困るだろう。
田川さんに何度か連れて行ってもらったお母さんの個展で、作品を見上げながら、子どもながらにそう想った。
綺麗だった。お母さんの撮る写真はどれも。
鮮明で、ただそこにあるものを映しているだけのはずなのに、まるで心を抉られていくようで。
こんな綺麗なものを撮るためなのだから、きっと娘になど構っていられないのだと。そう、幼心に納得してしまえるほどに。
だから、仕方ないと思った。
どうせ、|いつも独りだったし《独りでなんていたくなかった》。
ただ、田川さんたちが帰って、夜に独りで眠るベッドの中は。
いつも、少しだけ冷たかった。
…………だから、新しく家族が出来るって聞いた時、跳びあがりそうなくらいに嬉しかったっけ。
だってこれからは、ただいまって言ったら、おかえりって返ってくるの。
おはようって言ったら、おはよって返ってくるの。
美味しいねって言ったら、そうだねって返ってくるの。
独りだったころは、夜がずっと怖かったけど。
誰もいない大きな部屋の中で、独りぼっちで。
名前を呼んでも、泣きじゃくっても、誰も声なんて返してくれなくて。
冷たくて、寂しくて、悲しくて。
でもあの日から。くろえが私の妹になってくれたあの日から、そんな想いも、いつの間にか忘れてしまっていた。
あんなに冷たくて冷たくて仕方がなかったはずのベッドの中が、泣きそうなくらいに暖かくって。
必死にお姉ちゃんのふりをしていたのも、どうにかくろえの隣にいるための、いい訳みたいなものだった。初めて家族になった女の子との仲良くなりかたが、私全然わからなかったから。
そんな私を、くろえはいつも黙って受け容れてくれていた。
寂しくないよって君の手を握る私が、他の誰より寂しがりだった。君はきっと気づいていたけど。
それでも私を隣に居させてくれた。それでも私の手を握り返してくれた。
それがどれだけ私にとって救いだったか、きっとくろえは知らないけれど。
そんな君に報いるために、ちっぽけな私は、いつかの夜に誓ったんだ。
ずっとくろえの隣に居るって。ずっと傍で守り続けるって。
たとえ誰があなたの敵に回っても、私だけはあなたの味方でいることを。
独りぼっちだった、私を救ってくれた大切なあなたに。
ずっとあなたの『お姉ちゃん』でいることを、誓ったはず、だったんだ。
誰よりも、最愛の妹を、守るために。
だから。
だから――――。
こんな想いを、きっと抱いてはいけない、はずなんだ。
…………そうだよね?
※
眼を、開いた。
息を吐く、気持ちは少し落ち着いたかな。
眼元を冷たい雫が、すっと静かに伝っていく。昔のことを想い出していたからか、すこしだけ零れてしまったみたいだ。
ふぅと息を吐きながら伸びをして、感情の落としどころをゆっくり探る。
大丈夫、ここから外に出たら、いつもの私。
胸はまだ少し痛い。呼吸もあんまり落ち着いてはいないけど、少し波は過ぎ去ったような気がする。
どんな激情も、不思議と時間さえたてば落ち着いてくる。ゆっくりと深呼吸しながら、その事実を少しずつ確かめる。
さて、戻ったら、なんて言い訳しよっか。
琥白ちゃんにも盛大に見られちゃったし、その……変な声も出しちゃったし。
ていうか、くろえ、まだ怒ってるかな。機嫌直すために謝らないと、今日のご飯、ドリアにしたら許してくれないかな。
なんて思考をしながら、ぼんやりと自分の気持ちを確かめる。
痛い、寂しい、怖い、不安だ。どうしようもないほどに。
でも、それと同時に、心の中でするべきことははっきりしてる。
また妹と仲直り。お姉ちゃんだもの、自分から動かなくっちゃ。
琥白ちゃんとも、ぎこちなくなったら嫌だから、ちゃんと出来る限り説明しよっと。こっちは……部長としてかな。
そんな言い訳がないと、誰かと話す勇気も出ない私だけれど。
それでも、そんな言い訳のおかげで、少しだけましな私でいられる。
何もない私より、きっとそんな私の方がずっといい。
やれやれお姉ちゃんは苦労が耐えませんね、なんて軽く苦笑して立ちあがる。
よし、復活。
そう想いながら、そっと腰を上げた時だった。
「灰琉先輩-------!!!! 何処ですかーーーー!!??!」
響き渡った。
爆音が。
トイレは狭いから、よく響くね。いやマジで。
どたどたと外で琥白ちゃんが暴れる、そんな音を聞きながら、私は個室のドアをそっと開いた。
案の定、すぐに血相を変えた琥白ちゃんと目が合って、私は思わず苦笑いを浮かべてしまう。
「あ!! いた!! えと、その、大丈夫ですか、先輩!」
「あはは……大丈夫だよ、琥白ちゃん。うん、ちょっとトイレ行ってただけだし……」
といういい訳だったはずだが、琥白ちゃんはうーっと、少し何か言いたそうに顔をしかめる。まあ、今回、琥白ちゃんが一番理不尽に巻き込まれたポジションだから、色々言いたいのは自然だよねえ。
「でも、えと、そのさっきのこととか……」
「あー、びっくりさせちゃったよね。最近、くろえとああいう遊びにハマっててさ。ごめんね、私も止めればよかったね」
くろえの名誉を適度に守りつつ、無難な落としどころをどうにか探す。
「え……? 遊び?」
「うん、そう、迫って照れさせた方が勝ち……みたいな。愛してるゲームとも、ちょっと違うけど、そんな感じかな……」
少し視線を逸らしながら、さっきまでの情事をどうにか説明できないかと言葉を探す。うう、ちょっと無理があるかな……。
しばらく、視線を泳がせながら様子を窺うけど、琥白ちゃんはすっと肩の力を抜くと、ふぅと軽く息を吐いていた。あれ、なんか納得してくれた……?
「なるほど、あれは―――『遊び』だったんですね」
「そ、そうだよ! こ、今回は私の負けかな、照れちゃったからね!」
声の震えをどうにか抑えながら、後でくろえと口裏と合わせないとなって考える。うう、後輩に嘘を吐くのは心苦しいけど仕方ないよね……?
そんな私を琥白ちゃんは、大きな目でじっと見つめていた。まるで何かを見透かそうとするみたいに。
…………? なんかいつもの元気な琥白ちゃんの様子と違うような……。
静かで、どことなく鋭くて。
まるで。
「じゃあ先輩は『遊び』なら―――」
「私が黒江と『そういうこと』してもいいんですか?」
「え」
失った。
言葉を。
「―――無理ですよね、わかってるんですから」
「灰琉先輩のことは大好きですけど」
「今のは、ダメです。酷い嘘にもほどがあります」
「ねえ、灰琉先輩」
「いつまで、その気持ちに蓋するんですか?」
琥白ちゃんは、そう言いながら、じっと私を見つめていた。
真っすぐと揺らぐことなく。
そんな彼女の瞳の中に。
表情の一つも取り繕えてない。
ただ呆然とした私だけが映ってた。




