行け! 白雪かける!
清純派アイドルというのは、なにかと制約があるものだ。
「好きな食べ物はなんですか?」という問いに、私──白雪かけるは「ホルモンとビールです!」と答えたいところをぐっとこらえて「焼肉です」とちょっとだけ正直に答えている。
以前は「イチゴです」とか言わなくちゃいけなかった時代があったらしいから、いつか「ホルモンとビールです!」と満面の笑顔で答えられる日も来るのかな。
私は頭にかぶったキャスケットのひさしを、そっと下げた。サングラスとマスクで、変装も完璧だ。長い髪の毛はキャスケットの中に押し込んで短く見えるようにしているし、服もいつものようなフリルのついたミニスカートではなくて、ありふれたパーカーとデニムだから、わからないはずだ。
──今、私が来ているのは競馬場だったりする。
るんるんと足取りも軽く、パドックに行って、馬体を見つめる。競走馬はいつ見ても美しい。尻尾をぶんぶん振ってやる気十分な子、落ち着いている子、たづなに繋がるハミに慣れなくて口元をもぐもぐさせている子、腰のあたりにおしゃれをしている子……いろんな子がいる。アイドルグループみたいだ。
「馬体重の増減は……」
聞こえてきた競馬ファンの声に、よっぽど増えたとか減ったとかでなきゃ、気にすることはないんじゃない? と内心ぼやいた。
私は競馬新聞とパドックの間で視線を何度も往復させながら、赤鉛筆でぐるぐると目当ての馬の名前を囲む。自然と笑みが浮かんでくる。きっと仕事中の笑顔の比じゃないだろう。
清純派女性アイドルが競馬場で馬券を握りしめて叫んでいるなんて知られたら、「イメージを考えろ」と事務所に怒られてしまう。
私は片耳で競馬中継を聞きながら、正体がバレないようにそそくさと馬券を買い、ゴール前に陣取った。やっぱりゴール前は一番迫力がある。全速力の馬の風圧まで感じられるような気がして好きだ。他の競馬ファンたちも気持ちは同じなのか、ゴール前はぎゅうぎゅうと混雑している。
高らかにファンファーレが鳴って、一斉に馬が走り出す。三連単と単勝の馬券を買った私は、文字通り手に汗を握りながら馬の足音を聞いている。中央モニタの中で脚を大きく前に伸ばす馬たちは、どの子も懸命だ。追い込みで一気に加速する子もいれば、先行逃げ切り型の子もいる。
私が応援しているのは、最後のコーナーから一気に加速して他の馬をごぼう抜きしていく「ケンタウロス」だ。
ギリシャ神話に出てくる伝説の生き物から名前をとったらしい。上半身が人間で、下半身が馬……人馬一体ってことなのかもしれないけど、かっこいいのか、ふざけてるのかよくわからない。名前を聞いたときは思わず吹き出してしまった。
最後のコーナーに差し掛かって、どの馬も速度を上げる。馬群の中盤につけていたケンタウロスがぐんぐん伸びてくる。
「行けー!! ケンタウロスー!」
絶叫した私の目の前で、ケンタウロスは軽やかにゴールを駆け抜けていった。ゴールを切った競走馬たちは、だんだんとスピードを落としていく。ケンタウロスのジョッキーが拳を高らかに掲げているのが見えた。電子掲示板に目をやる。点滅していた数字の横に「確」の字が出て、私は「よし!」とガッツポーズをした。
「いやったー! いい走りだったぞ! ケンタウロス!」
地面にハズレ馬券がばら撒かれている中で、私はぴょんぴょんと飛び跳ねて、競馬新聞を握りしめた手を高く掲げた。思わずくるっとターンを決めたところで、声をかけられた。
「えっ? 白雪かけるちゃん?」
「ヒッ!」
こんなに完璧な変装なのにバレちゃうなんて、私のターンがあまりにもアイドル過ぎたのかもしれない。
「意外ー! かけるちゃん、競馬とかするんだ?」
「あっ、あっ、あの、今日は私、その、プライベートなんで……ごめんね」
SNSで「白雪かけるちゃんが競馬場にいた!」とか書き込まれたらどうしよう。事務所に「アイドルとしての自覚を持て」ってこっぴどく怒られてしまう。
私はキャスケットを目深にかぶり、小さく手を振ると、そそくさと競馬場を後にした。
それにしても見事な走りだったぞ、ケンタウロス。
***
「今日は競馬大好きアイドル、白雪かけるちゃんに来ていただきました!」
「白雪かけるでーす! よろしくお願いします!」
「かけるちゃんはお気に入りの馬がいるらしいですね?」
「はい! ケンタウロスが好きです!」
競馬場の実況席で、私はテレビカメラに向かって満面の笑みを浮かべた。
清純派アイドル白雪かけるが競馬場にいたという噂は、あっという間に広がった。事務所の社長には「そういうことなら、もっと早く言いなさいよ」と心底呆れられた。メディアで何度か競馬ネタをふられて、馬の魅力を語っていたら、今ではときどき競馬番組に呼んでもらえるようになった。
──人間万事、塞翁が馬。何が起こるかわからない。
【おわり】