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第三話 走る

「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ!」


 走る。走る。ただひたすら走る。


 舗装もされていない山道の中を、ただひたすら走っている。


「っぐぁっ!」


 背中に衝撃が走った。

 脚を滑らせ、体が地面に激突した。


「とすぃゆき!」


 前を走っていたソヨが、俺の方に駆け寄ってくる。

 差し伸べられた彼女の手を取り、俺は立ち上がった。


「ありがとう」


 そして、再び走り始める。


 体中が、痛い。

 さっき転んだ奴だけじゃない。あの時拷問された時の傷だ。

 今になってひどく腫れて、ずきずきと痛みを生んでいる。


 意外なことにソヨは体力があった。

 昔の人だからだろうか。俺と比べてはるかに山道に慣れていた。

 ソヨも俺も裸足のはずなのだが、彼女のほうが明らかにこの世界に慣れている。


 俺の耳に音が届いた。

 そして声を張り上げる。


「ソヨ、すぐそこまで来てる!」

「おふぃてきたるや!?」


 ソヨが顔だけ振り返って何かを言う。

 もう言葉を理解するだけの余裕がない。


 聞こえたのは馬の走る音だった。

 山地を走る馬の足音。


 逃げたのはとっくにばれていたらしい。いつからか追いかけられていた。

 一体どんな索敵能力だろう。こっちは山道を走っているはずなのに、足音もどこにもないはずなのに、馬の足音が聞こえるくらいに近づいてきている。


 途端、ソヨは脚を止め、俺に近づいてきた。


「なっ、何をぐっ」


 組み伏せられた。

 ドッ、と体が一本の木のそばに倒れこむ。


 そして、彼女の手で口をふさがれる。

 その直後、ほんのすぐ近くを、馬の足音が通り過ぎて行った。

 身震いした。木の向こうだった。ほんの数メートル先の、道でもないどこかを一頭の馬の足音が。そこまで近づいてきていたとは。


 そして、血の匂いがした。

 ソヨの手はまだ血だらけだった。

 肺中に血の匂いが充満して、むせかえりそうだった。しかし、それを必死でこらえる。


「ゆかむ」


 ソヨの手が口から離れた。

 行こう、という意味なのだろう。


 俺がうなずくと、彼女はまた再び走り始める。


 どこへ向かっているのだろう。


 逃げようと俺は言ったが、今はソヨが俺の先導をしていた。


 彼女には目的地があるのだろうか。

 しかし、俺には全くわからない。

 それどころか、方向感覚すらもう存在しなかった。


 現代人は脆弱すぎるらしい。俺は今、自分がどこから来たかも全く分からなかった。


 しかしソヨは全く迷いなく、前を走っていく。


 鬱蒼と茂る木々の間を、全く不安定さを感じさせずに走っていく。


「はあっ、はあっ、はあっ」


 体力がない。

 切れかけてきた。

 ソヨを追いかけるだけで精いっぱいだ。

 対するソヨは何ともない。そもそも三日間閉じ込められていたことが嘘かのようだった。


「そ、ソヨっ、どこへ……」


 このままいっても伝わらない。頭の中で、先ほど習った言葉を思い出す。


何処へ行く(いんどぅくへいく)?」


 あっているかはわからない。

 しかしソヨは顔だけをこちらに向けた。


「ふぃとんがうぃるところふぇ」

「え、ふぃとんが……?」

「そこんがふぉかをすぃらんず」


 結局、何を言っているのかよくわからない。

 もう、ただついていくしかなさそうだ。少なくとも、彼女にしかわからない道があるらしい。


 しばらく走ると、獣道があった。


「とんべ!」


 ソヨがそういいながら、獣道を飛び越る。


 跳べ、と言ったのか。


 直前でそれに気が付き、同じように飛び越える。


 そうか、足跡を残さないようにしたのか――――


「ソコニヤ!!」


 直後、遠くからの声が心臓を貫いた。


 ――――ばれた!?


 思わずソヨを見る。


 見える彼女の顔の半分は見るからに焦っていた。


 そして馬の走る音がした。規則的に地面をたたくあの音だ。


 もう馬の足音を聞いたら眠れなくなるだろうな――――変な冗談が頭をかすめた。


 途端、顔のすぐそばを何かがかすめた。


 それは俺を通り過ぎて、目の前のソヨの肩のすぐそばを掠めていった。


 血の気が引いた。


 矢だ。


 思わず後ろを振り返る。

 あの獣道に、馬に乗った武士のような人がいた。

 そして、矢をこちらに向けて構えていた。

 もう、二発目を装填していた――――


 キリ、と矢がつがえられる。そして、強く引き絞る。

 日本式の長い矢が大きくしなって、当たれば人を十分に殺せる威力を持った運動エネルギーを装填しているのが視覚で嫌というほどにわかる。


 思わず体が動いた。


 火事場の馬鹿力だったかもしれない。


 体が加速して、目の前のソヨに覆いかぶさった。


 その一瞬あと、頭の上を矢が通り過ぎて行った。


 全身を針で刺すかのような焦燥。

 死がほんの数寸上を通り過ぎて行った恐怖。


 頭の上を通り過ぎた風圧に体が硬直し、地面に転がったまま動けなくなった。


 そして、近づく音がした。


 馬の足音が。


 もうこれを聞くたびに、俺は恐怖を抱くことになる――――冗談は確信に変わった。


 馬は見たことのあるものよりかは小さかった。

 しかし、速かった。地面に転がった人間を数秒で追い詰めるくらいは余裕でやってのけた。


「ボンニンメ!!」


 侍が何かを叫んで、馬から降りた。

 ほんの数歩の距離。


 ズラリ、と音がして、引き抜かれたのは刀だった。


 なんでこうも、人を殺すのに躊躇しないんだ――――? 当然のように、人斬り包丁を抜くのか、この世界の人間は。


 頭のどこかの変に冷静な部分がそう言うが、体は動いてくれなかった。

 俺はソヨを抱く腕に強く力を入れた。

 今思うと、それは恐怖におびえる赤子が親に抱き着くのと同じ、男として何とも情けない行動だった。


 最後に男が何かを叫ぶ。

 予備動作なんてせずに、すぐに殺してしまえばまだ楽に死ねるのに――――


「なっ!?」


 男の吃驚が響いた。

 そして、後ろを振り向いた。


「えっ!?」


 俺も声を上げていた。


 急に男のそばにいた馬がいきなり立ち上がった。


 何かと思ったら、途端にソヨに抱き着いていた腕がひっぺがされ、そして引っ張られた。


 視界の端で男が馬の後ろ脚に蹴り飛ばされたのを捉えてから、ようやく気が付いた。

 ソヨは適当につかんだ石を馬に向けて投げたのだ。それで興奮した馬が暴れた。


 そしてその隙をついて逃げたのだ。


 一瞬の判断だ。ソヨの判断力が尋常じゃない。


 そしてそれはうまくいったらしい。


 馬をどうにかしてしまえば、相手はもう追ってはこれなかった。


×


「はっ、はっ、はっ、はっ……」


 逃げ、切れたのか。


 どこかの、洞穴のようなところか、ここは。


 目の前にちょっとした崖があった。

 その側面がすこしえぐれたような形をしていて、天然の日よけができていた。


 そして、すぐ傍に、こんこんと音を立てて流れる小さな川がある。


 今、ソヨはそこにかがみこんで、自分の手を洗っていた。


 それが終わると、こっちに何かを言ってくる。


「そもすますんがよきぃ」


 なんとなく意味は分かる。俺も洗え、というのだろう。何せ口はソヨがつけた血でべたべたなのだから。


「わかった」


 立ち上がって、小さな川にかがみこむ。

 両手で水をすくった。


 ものすごく冷たかった。林間学校で体験したのを思い出す。川の水はめちゃくちゃ冷たかった。

 それを、顔にぱしゃりと浴びる。


 めっちゃ気持ちいい。天然の冷水だ。

 火照った顔がほどけていく。


 顔の血を洗い終わった後、俺はすぐにまた水をすくい、今度は飲んだ。


 冷たい水が喉を駆け巡り、体が勝手に震えた。

 一瞬衛生状態のことが頭をよぎったが、喉は勝手に水を飲み込んでいく。


「はあっ」


 五回くらい飲んで、ようやく体が落ち着いた。

 そもそもここ三日間、まともに水分補給もしてなかったっけ。


 ああ、生き返る。

 体中に今飲んだ水が染み渡っていく感覚がする。

 思った以上に、体は疲れていたらしい。


 ソヨを振り返ると、彼女は岩陰に座り込んでいた。

 さすがにソヨも疲れたか。


 でも俺よりは少しは楽そうだ。俺はまだ息が切れているが、彼女はもう平静に戻っている。

 すごい体力だ。


「ソヨ」

「ん」


 近づいて尋ねると、彼女は首を上げる。

 ……どうやら、人を殺した時の衝撃はもう残っていないらしい。

 よかった。

 少し胸をなでおろす。

 この時代の刀の抜きやすさを見ると、ソヨにしても、殺人に現代日本ほどの重さは感じていないのかもしれない。


「やすみぇたりや?」


 すっとソヨが立ち上がる。


 何を言ってるんだろう……。まだ頭がよく動かない……。


 頭の中で検索をかけていると、ソヨが不意に動き出す。

 そして背を向け、走りだした。


「えっ!?」


 も、もう出発……!?


「あっ」


 そこで気付いた。


 あ、さっきの、『休めたか?』って聞いてたの……!?


 た、体力の違いが激しすぎる。

 でももう仕方ない。追いかけるしかない。


 このまま休憩していでも、敵に見つかってしまうだろう。

 にしても、ソヨ、細そうなのにこんなに走るのか……。強靭な体力だ。


 追いかけながら、ソヨの細い体を観察する。


 細いというより、アスリート体型なのかこれは。

 簡素なワンピース型の衣服――たぶんこの時代の囚人服――からは長い脚がのぞいている。

 山を走ってきたためにかなり汚れているが、しかしかなり張りがあった。

 いや、変な意味とかじゃなく。

 いつも運動している人間の体に見える。

 今までは見る機会もなかったが、走る姿勢もかなりいい。体に芯がとっている走り方だ。

 元の世界にいたとすれば、顔だけでなく身体も整っている部類かもしれない。


「はあっ、はあっ、はあっ……」


 それで、たぶん、これでも俺のために速度を落としてくれているに違いない。

 ソヨは全く息が切れていないのだ。そして時たま俺をちらりと見る余裕すらある。

 考えてみれば、現代人はたったの十分、走り続ける体力すらない。普段運動している人でもなければ、歩いているだけで息が切れる。


 時代が違えばこれだけ差が出るものなのか……。


「はっ、はあっ、はあっ……」


 ていうか、これ、いつまで走るんだろうか……?


 そう考えながら、なんとか俺はソヨの後ろについていった。

今回は諸事情あって短めです。

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― 新着の感想 ―
すっごく面白くて、続きが読みたいです! しかし‥ これ一話書くのも大変そうですね。言葉が。
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