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第二話 錠


 カタカタと音がする。

 なんだろう。体も少し揺れている。

 地震か。ちょっと弱いから、いつもよくある震度いくつかの地震だろう。怖がるほどのものじゃない。

 でも目が覚めてしまった。

 時間は……まだ夜か。

「いッ……!」

 痛い……傷がものすごく痛い。

 本格的に腫れてきたのか? 動くだけで体中が全部痛い……。

 うわっ、首筋も痛い。地味によく動くところだから割ときつい。

 腕……上がる。脚……動く。少なくとも、折れてはいないらしい。ヒビのひとつやふたつは入ってそうだけど。

「う……」

 喉がかわいた。すっからかんだ。唾液の一つも残ってない。

 水、無いか……。そういえば、水なんて一回も出されたことがない。味の薄い野菜スープで水分を補給していたようなものだった。

 とりあえず、地面から起きよう。

「ッがっ!」

 痛ッ……!

 これ、肋骨か……!?

 肋骨がヒビが入ったみたいに痛い。

 力が入らない……起きれない。

 あれ、なんだこれ……あ、御椀か。

 腕で御椀を倒してしまったようだ。箸が地面に散らばってしまっている……さっきカタカタしてたのはこれだったのか。

 というか、この世界地震あるんだな……。大昔の日本だと仮定していたから、もちろんあるんだろうけど。実際に体験してみると、現代日本にいるようで、少し混乱してしまう。

 そりゃまぁ、地震なんて百年前にも二百年前にもあるだろう。地球がある限りずっとあるんだから。

 倒してしまった空の椀を戻しておく。体は起こせないので横になったままで腕だけ動かす。うーん、だいぶ不格好。

 お箸、土がついちゃったな……ズボンで拭いとくか。

 あれ、そう言えば、俺は今何を履いているんだろう。

 多分ジーンズか、これは……? スタイリッシュでかっこいいけど、この時代にしては随分と場違いだ。

 このジーンズを多少なりともかっこいいって感じるってことは……もしかしたら、俺の所有物なのかもしれない。記憶はないが、誰かに着させられたってわけでもなさそうだ。

 しかしなぜ上裸なのかは疑問が残る。ていうか裸足だし。それかなぜか下着は履いている。記憶がないうちに女神様に与えられた服って可能性もあるが、女神様がそこまで気を回すのかって感じもある。

 まあ考えたって意味ないか……。少し肌寒いけども。昼はまあまあ暖かかったから、今は春か秋なのだろうか。

 今は……いつなんだろうか。西暦いつ頃の、何時代なんだろうか。

 何百年前なんだろうか。千年前なんだろうか。それとも……二千年以上前なんだろうか。

 仮に今がいつか、なんて聞いても、西暦なんてないだろうから分かるわけがない。よほど歴史を熱心に勉強した人か学者でもなければ分かるはずはないだろう。

 日本人って、昔の日本のこと何もわからないんだな……。歴史を真面目にやった人を除いて。もしかしたら、今が歴史の教科書にすら乗らないほどの全く無関係な年代である可能性もあるだろう。

 片腕を地面について、肋骨を痛ませない角度で体を起こす。

 そして木の格子に手をかけてみた。

 ……できるはずもないか。力を入れてみても、全くびくともしない。せいぜいギシリと小さな擦れる音がなるだけ。ノコギリでも無ければムリだろう。

 脚は……動く。立ち上がれる。

 はめ込まれている扉の方に近づいてみた。

 見慣れない錠前がかけられている。南京錠でもない、見たことのない鍵の形。

 一部が太い長方形の輪のような形をしている。全く見たことのない鍵の形式だ。錆びれた金属製で、内側から触ってみたところ、ひんやりと冷たく、ゴツゴツとした感触が感じられた。多分普通に鉄だろう。この時代だから多分ステンレスとかチタンとかはないはずだ。

 さて、どうしたものか。脱出は不可能だ。家と言ってこのまま逃げなければ未来は目に見えている。このまま拷問されて死ぬかだ。もしくは普通に処刑されるかもしれない。拷問を当たり前のようにする輩だ。人の首を切るのに躊躇はしないだろう。

 このままの脱出は無理だ。道具も準備も何もかもない。

 ならば少しでも未来に希望をかけよう。漫画で一つ、読んだことがある。

 まずは、朝まで待とう。


「アサンギェニアリ」

 朝ごはん、いやたぶん朝餉あさげが運ばれてきた。一晩寝て記憶が補強されたせいかまあまあ聞き取りやすくなっている。

「…………」

 ソヨは静かだった。食事に手はつけているが、彼女の明るくかわいいところが何もなくなっていた。それもそうだ。アレだけぶん殴られていつも通りに過ごせる人間はいないだろう。少なくとも一般人は。

 それを傍目に、俺は誰も(ソヨ除く)見ていないことを確認して、野菜そのままスープの入った御椀を手にして立ち上がった。

 ソヨが首を傾げて見てきたが、気にしない。

 俺はそれをそのまま、牢屋の扉を閉じていたあのよくわからない形の錠の上で傾けた。

 何をしているのかは分かると思う。劣化させようとしているのだ。何日かかるかはわからないが、風と酸素に任せるよりかは数倍うまくいくだろう。

「いかにそんぎぇなことをすぃきぇむ?」

「シーッ」

 唇に人差し指を当てるこのジェスチャーが古代人に伝わるかはわからないが、ソヨはハッとして口を塞いだ。

 さっきまで暗い顔をしていたが根は明るいようだった。リアクションがいちいちかわいい。今は顔は酷いことになっているが……。

 治療はしないのだろうか。流石にこのまま放って置くと大事につながりかねない。それは俺もそうだ。体中がヒリヒリしていて気持ちの良いものではない。

 そんな感じで朝ごはんを食べ終わった。物足りない。怪我をしたのもあるだろうが、そもそも量があまり少ない。

 口の中も切ったらしい。口内炎ができている。食事があまり美味しく感じられなかった。この状況ではやはり憔悴していくだけだ。いつかは逃げなければいけない。

「ソヨ」

「いかにかせむ?」

 お腹が膨れて少しは気分が戻ったのか、ソヨはすぐに答えてくれた。

「言葉教えて」

「ことば……ことんばにありぃ?」

「そう。ことんば……やまとことんば」

 なんか変な感じだ。ものすごくなまっているような感覚がする。

 いや、俺達が方言と認識しているものは、もしかしたらいくらか昔の日本語の性質を引き継いだものなのかもしれない。

 さっそく、まずはお箸を指さしてみる。

「これは?」

「ファスィ、なりぃ」

「ファスィ」

 するとソヨはうなずく。

 聞いた名前をの地面にカタカナで書いてメモをする。ずっと残るものではないが、書かないよりかはまじだろう。紙やペンがあれば良いのだが、今の時代では収容所に入っている捕虜には望むべくもないもののはずだ。

 ファスィ……ハ行がファ行になり、さしすせそがサスィススィェソになることを踏まえれば、『ファスィ』はそのまんま『ハシ』だ。面白いくらいにそのまんまだ。

「これは?」

「そふぁ、ふぁてぃ、なりぃ」

「ふぁてぃ……」

「すぃかりぃ」

 ふぁてぃ……おわんじゃないのか。

「椀、じゃないの?」

「わん……すぃかりぃ。わん、にありてもよすぃ」

 お、行けるらしい。たぶん音読み訓読みの問題だろう。

 ふぁてぃ、これはたぶん『はち』だ。小鉢とかそういうやつとして現代にも残っているのだろう。

「じゃあ、これは?」

 俺は立ち上がって、扉にあるあのよくわからない形をした錠を指さした。

 南京錠でもない、ただの四角い輪っかみたいな形をした鍵。

 ソヨも立ち上がり、そちらに目を向けてくれる。

「こふぁ……じゃうにありぃ」

「じゃう……」

 じゃう……なんだ? じゃうって……。

「か、かぎ、とかは?」

「かんぎ……」

 ソヨは首を横に振る。

「こふぁかんぎにあらずぃ。かんぎふぁじゃうをふぃらくものにありぃ」

「えっと……?」

「じゃうふぁ、かんぎを、ふぃらくもの、なりぃ」

 ゆっくり言ってくれた。

 たぶん、「じゃうは鍵を開くものなり」って言ったのかな?

「あ、じょうか」

 急にピンときた。

 行はあっているのに段が違ったから全然分からなかった。

「じょう……そんがことんばんがいふぃかたにありぃ?」

 全然何言ってるかわからない。

「もう一回良い?」

「…………」

 ……じとっ、と見られた。

 一回で聞けよ! という目だ。まあ気持ちはわかるが……こっちからしたら殆ど異言語なのだ。ネイティブの発音についていけるはずもない。

「えっと、じゃあ……これは?」

 話題を反らして、今度は木の格子を指さす。

「ふぃとや」

「ふぃとや……」

 現代発音風にすると、『ひとや』……『人屋』、か?

 牢獄を指す言葉としては少し軽い気もするが……まあいいか。

 とりあえずこんなものか。と言うかこれ以上聞くものがない。

 ふう……。

 地面に横になって、天井を見上げた。

 こう聴くと、意外と日本語っぽくもある。コツがあれば聞き分けれる。

 確か、スペイン語とフランス語は親戚関係にあるから、話せば割と単語や文脈は拾えるというのを聞いたことがあった。一方通行ならばほとんど完璧に分かる言語もあるという。

 今はそんな感じだ。なんとかコツを掴んで、何百年、もしくは何千年もの距離にある言葉を理解しようとしている。

 天井……きたなっ。クモの巣張ってるじゃん。気持ち悪っ……どの時代でもボロ屋ってクモ出るんだな……セアカゴケグモとかじゃなきゃいいけど。いや、セアカゴケグモって外来種だっけ確か。この時代にいるのか?

 う〜ん。わからないことが多すぎる……。

「ねえ、ソヨ」

「ん?」

「いまっていつなの?」

「……?」

「あぁ……えっと……」

 言葉に気をつければソヨは大概の言葉は不思議と拾ってくれる。だがこういう事もある。

 地面に文字にして書いてみる。

『今は何時にある?』

 ちょっと古語っぽく書いてみた。

 あれ、『ある』の終止形ってなんだっけ?

 と思ったらソヨが爆速で『る』を消して『り』にして来た。加えて『に』と『あ』の隙間に『や』を無理やり追加してきた。

 やっぱ間違ってたか……。

「いまんがよのことにありぃ?』

「多分……?」

 一応頷いておく。

「いまんがよふぁ、ゴトンバのきみんがよにありぃ」

「ゴトンバ……?」

 ちょっと聞き慣れない言葉だ。

「ゴトンバ」

 と、彼女は地面に書き始めた。

 達筆な彼女の筆跡から見極める……。

「後鳥羽…………」

 後鳥羽天皇、ってことか?

 聞き覚えがある。確かめっちゃ有名な天皇だ。

 ……何時だ? これ。全然歴史が分からん……。

「あるいふぁ」

 と、ソヨが書き始める。

「じゅえい、にありぃ」

 書かれたのは、『寿永』という字だった。

 これ……元号、かな?

 駄目だ。全く分からん。

 西暦……せめて西暦があれば……。まあ西暦があったらあったで何時何が起きたとかは知らないんだけど……。

 あ、そうだ。幕府はどれだろう。

 幕府ならわかる。鎌倉とか江戸とか戦国とか。

「あの、じゃあ、幕府とかわかる?」

「ばく、ふ……」

 あれ?

 ソヨの顔が一気に曇った。

「だ、大丈夫?」

「…………いまふぁ……」

 重々しい口調だった。

 なにかまずいことを聞いたか。

 それとも、うまく伝わらなかったか。

「あ、あの、ソヨ……」

「いまんがばくふふぁ……」

 きゅっ、とソヨの唇が結ばれた。

「……いんどぅくにも、なきぃ」

「えっ……ないってこと?」

「…………」

「ご、ごめん……」

 もうこれ以上は詮索しないほうが良いか。

 何かしらの彼女の琴線に触れてしまったらしい。

 もう尋ねないほうが良いだろう。

 ……この空間にはこの一人の相手しかいないというのに、その一人を不快にさせてしまった。

 そもそもソヨと話すのはこの狂ってしまいそうなくらい狭い空間では一番の楽しみだ。一人なら半日も耐えられなかっただろう。

 黙ってしまったソヨがいなければもうやることはない。

 ……マジでやることがない。天井にあるクモの巣しか見るものがない。外の景色もマジで何も変わらない。少し……数十メートルくらい向こうに建物が見えるだけ。

 時たまそこを人が通る。しかしよく見えない。なんせ現代人だ。視力は終わってる。

 動かない自然に比べればマシなくらいだ。

 他は何もなかった。それに静かすぎた。耳をすませば、風の音しか聞こえない。そして幾ばくかの木の葉が揺れる音だけだ。あとは人間二人の呼吸音。本当にそれしかない。

 車の音もない。人々の喧騒もない。無限の時間を溶かせるスマホもこの手元にはない。

 静かな自然に心を安らがせるというのは、やることのある忙しい人間が言えることなのだと思えてしまう。

 今は一刻も早くなにかをしたい……でも何も無い。禁錮というのはこれほど辛いのか。それに、いつ拷問が来るかもわからない。

 そうだ、脈の音でも数えよう……って末期すぎるな流石に。でもマジでそれしかやることがない。

 心臓の音って大体一秒に近いんだったっけ。まあ何も数えないよりかはマシか……。

 とは言うものの、本当に何も無いと恐ろしいもので。

「よや」

 なんと昼食の時間が来るまでマジでずっと数えていた。

 やることないのかほんとに。ほんとにないわ。

「あ、どうも……」

 それにしても毎回毎回『よや』って言ってくるな。挨拶みたいなものなのだろうか。

 古い御椀を回収していき、新しいものをお出ししてくれる。

 献立は全く変わらない。そろそろ他のメニューとかないのか?

「……イマンダイフィアラワサンザルニヤ」

 何を行っているのかわからない。

 ソヨよりも分からない。ボソボソと、呟くような言い方だった。

 どうやらソヨに話しかけているようだった。

「トクイフェンバ、ユリモアラマスィ。サナンメリトオモファンザリケルニヤ?」

「…………」

 聞かれた方のソヨは、ただ牢屋の端で足を抱えて座っているばかりだった。

「…………わんがいふぇんば、そらふぁとくころすぃぬんべすぃ」

「ソファアラマンズィ。カンズィファランドノファサルモノニファアランズィ」

「そらんがぬすぃふぁわんがきみもころすぃき。こにも、わふぁえあらんずぃ。」

「…………」

 これが現地人同士の会話か……全然分からん。

 「ころす」とかなんとか物騒な言葉が聞こえた気がするが気の所為であって欲しい。特にソヨがそういうこと言う人間には見えないんだけど……。

「ふぁらをころさんざらますぃかんば、さるかんずぃふぁあらんざらますぃ」

 すこし早口でソヨがいう。

 また「ころす」、とか聞こえたような気がする。

 何を話しているんだろう、本当に。

 耳を澄まして聞いてみる。

「そぬ ふぃとぅふぁ(人は) ことんば(言葉) すぃらんざりしものにあれんども、そらん(あなたたち)が きみふぁ さるあたりを すぃぇり、さるありや、いふもおろかなり」

「モンダセ、ワン(おれ)ガ キミファ――――」


 だいたい、聞き取れるのはこれくらいだ。言葉の区切りも少しわかる。

 俺のことについて話しているのだろうか。言葉の通じない人、とかなんとか言っている風に聞こえる。

 さっきから言っている『キミ』と聞こえるのは二人称? それとも、『主君』の意味なのだろうか。


ワン(おれ)キミ(主君?)ファ タンダスィキ(正しき)ヲ セル フィト()ナリィ。イファリェヌコトファ センザリィ」


 牢屋番がそう言った途端、怒号が響いた。


ふぃとん()いふぇ()ふぉろんぼすぃてぃぇ(滅ぼして)、なんぞ いふぁりぇぬこと せんざる ふぃとにやある!?」


 突然ソヨが声を荒らげた。


 牢屋番は動きを止めた。まるで不意を打たれたかのように。


「ソンガ コトファ イクサンゴトニ アリィ。ワンガ キミンガ スィケルコト トファ ワクンベスィ。ワンガ キミファ ノコレル タヴィラヌ モノヲ」

「せんずるところふぁ みなもとん()いぬ()に ありぃ! みなもとん()が わろものに ありぃ! よんが ふぁうすぃに むふぉん(謀反)ありてぃぇ、いふぇ()もろとも(もろとも) ほろんぼさりぇんが きてぃなりぃ!」


 その途端、ガツンと牢屋番が格子をたたきつけた。


「うわっ」


 思わずのけぞってしまった。

 なんだ、ソヨはいったい何を言ったんだ。

 何もわからないうちに物事が進んでいってしまっている。


「モンダセ! イヤナスィンガ ヲウナ! ナンゾ ソヌ ミガ マンダ イルト ココロウ!? ワン(おれ)キミン(主君)ズィフィ(慈悲)アレンバ ナリィ!」


 何かの抗議の話か。ソヨに向けて強くまくしたてる。


 しかしソヨは全くひかなかった。


「もんだすふぁ (おまえ)にありぃ! こんが すぃうてぃ(仕打ち)に ありぃて いんどぅく(いずく)にや ずぃふぃ(慈悲)ありぃ!? こんが ずぃふぃ(慈悲)に ありぃえんば いぬ()にも やれんば よきぃ(良き)! さもあらんずんば わをころせんば(殺せば) よきぃ(良き)!」

「ナンゾイフィキヤ!?」


 その時、金属音が鳴った。


「――――っ!?」


 目を疑った。

 それは、確かに刀――――男が下げていたそれを抜き放った。

 そしてバキン、と音がした。

 錠が切れた――――男が刀で切ったのだ。

 マジか、嘘だろ。金属製だぞ、あれ。刀で切れるものなのか?


 ガンッ!


 男が牢屋の扉を強くけった。

 そして、刀を片手に牢屋に入ってくる。


ソン(それ)ヨク(良く)アレンバ、タンダティ(直ちにも) ニモ ソヲ(お前を) コロセンバ(殺せば)!」

「きゃあっ!」


 ソヨ――――男に胸倉をつかまれる。

 そして、その右手の刀が振り上げられた。


「やめろっ!」


 俺はとっさにすぐそばの椀を男に向けて投げた。

 ガツンと音がして男の頭がいくらかぶれる。


 その目がぎろりと俺をにらんだ。


「ッ!」


 男の殺意がこちらに向いた。誰に言われなくとも理解できた。


「アンドゥマンビトゥ、ソンガ サキニ スィニ マフォスィキ!」


 男が何かをわめいて、こちらへと歩み寄ってくる。


 その右手が刀を逆手に、大きく振り上げられた。


 ドッ


 鈍い音がした。

 俺は何とかその場から地面を転がってよけた。


 すぐそばに刀の先が刺さっている。

 一瞬時間が稼げるかと思った。しかし、刀の先はすぐに抜けた。


シネ(死ね)――――」


 ああ、くそっ、なんで最後に理解できる言葉がそれなんだ!

 なんで千年前でもその文句は同じなんだよ!

 せめてそれは分からずにいたかった。


「クソッ――――!」


 防御本能で俺は両手を前に出した。


 瞬間、びしゃっと音がした。


 顔に水しぶきがかかる。

 それが血だとすぐにわかった。


 先に手を切られた。なぜか痛みはやってこない。

 怪我が大きすぎて、脳が麻痺をしているのだろうと俺は思った。


「ぐっ……!」


 のどの奥から声が出る。

 人生で一番苦しい音と確信できる声だった。喉の奥から搾り出たような声。

 そして、狭い喉に息を吸い込むような音がした。

 ソヨだろうか。俺の切られた様子に息をのんだのかもしれない。


 それが心配で、俺は目を開けた。


「え?」


 見えた光景に俺は呆けた声を出した。

 傍から見たら本当にバカっぽかったのだと思う。


 目の前で血が滴っていた。

 それは俺のモノじゃない。俺の腕じゃない。俺の腕は、切れていなかった。かすり傷一つなかった。


 ただ、目の前で、男が喉から血を噴き出している光景があった。


「はっ――――」


 ホッとする感覚すらなく、今度は目の前の凄惨な光景に息をのんだ。

 何が起きている? 誰がやった――――それはわかる。ソヨだ。


「ッ!」


 ソヨが小さく呻いたと同時、男の喉を突きさしていた何かが勢いよく引き抜かれた。


 どさり。


 大きな音を立てて、男の体が後ろに倒れた。


「はあっ、はあっ、はあっはあっ」


 どさっ


 ソヨが膝をついた。息を切らしていた。


 その手にしていたものががらんと音を立てて地面に転がる。


 俺はそれを見た――――一瞬認識ができなかった。


 錠前だ。ついさっきまで扉を閉ざしていた錠前。

 鋭い形に切り取られた錠前の残骸を使って、ソヨは男の首を貫いたのだ。


 ソヨは息を切らしていた。

 胸に手を当てていた。大きく目を見開いて、息を切らしている。

 正気ではなかった。

 人を殺した人の目だ。尋常な精神状態ではない。


「ソヨっ」


 そう呼ばずにはいられなかった。


 はっ、とその目が俺を見る。


 そして、びくりと体をひるませた。


 俺はそんな彼女に抱き着いた。


「なっ」


 動揺の声が彼女からこぼれ出る。

 自分でも一瞬動揺した。

 だがこれしか思いつかなかった。


「ありがとうっ」


 そしてお礼を言った。

 人を俺のために殺したソヨのためにそれしかできることが思いつかなかった。

 人を殺して大きなショックを受けている彼女に何ができるか。とっさに考えるよりも先に動いてしまった。


 正直後になって考えてみたら、だいぶおかしいことをしたと思ったけど、しかしこのときばかりはうまくいった。

 ソヨは俺を抱き返してくれた。

 何も言わない。

 彼女の不安が彼女の震える体を通じて伝わってきた。

 彼女の右手が生ぬるい。殺した男の血がついているのだろう。

 しかし気にしてはいけない。

 人を殺した人の精神は、ひどく不安定なのだから。

 もう間違えるわけにはいかない。


 細かく震える手、彼女の温かい体温、俺の背中を抱く生ぬるい手、泣くこともせず何を言うでもなくただ震えて抱き着いてくるソヨ。


 それを感じながら、俺たちは数十秒、ずっと抱き合っていた。

 俺もソヨも、今起きたことを処理する時間がそれだけ必要だった。


 そして先に処理し終わったのは俺だった。

 俺は、扉が開いていることに気が付いた。


「ソヨ」


 胸の中のソヨが顔を上げる。


「あれ」


 そして、俺は扉のほうを指さした。

 彼女の手を取り、立ち上がらせる。


 ソヨが口を動かした。


「にんぐる?」


 茫然自失の様子で、ソヨはそう言う。


「ああ、そうだ」


 ぐいっ、と彼女の手を引っ張る。

 血だらけだ。両手とも。それに彼女の服にも血がついている。


 俺はそんな彼女の手をしっかりと握り締めた。


「行こう!」

「っ……!」


 唯一、ソヨはこくりとうなずいて。

 俺たちは牢屋から逃げ出した。





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