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はじまり

 俺の名前は町角寿行(まちかどとしゆき)

 何の変哲もない男子学生。

 しかし困ったことに記憶がない。

 どんな学校に通ってたかも思い出せない。

 それで今何をしているかと言うと。

 俺は今、牢屋にいます。

 どうしてこうなった……?

 ぶっとい木製の格子の中。どこかの外に作られた牢屋の中に、閉じ込められている。

 起きたら見覚えのない洞窟の中だったのだが、洞窟から出たと思ったら侍みたいな人に捕まえられて、こんなところにいる。

 流石に格好が怪しすぎだったのだろう。なんせズボンだけの上裸だったのだから。

 というかわけがわからない。俺が上裸だったのもそうだけど、ここはどこか全くわからない。いや、それより、いつかもわからない。

 タイムスリップでもしてきたのだろうか。それとも異世界転生でもしたのだろうか。もしくはなにかのたちの悪いドッキリか。それとも、やけにリアルや夢の中か。

 問題はそれだけじゃない。牢屋には先客が一人いるのだ。

 一人じゃない、やったぜ! なんて言える状況じゃないしたぶん向こうも何かしらの罪状があるのだろうが、まあ一人よりかは良いだろう。

 と、思っていたのだが、

 お相手は女性のようだった。見るからに昔の人が着る薄い色の囚人服、たぶん現代で言ったら際どいワンピースを着ている女の囚人。

 その人が、部屋の隅で、ビビリにビビって震えていた。

「………! …………!!」

 声も発さず、牢屋の隅で縮こまっている。

 俺、なにかしたのだろうか。

 まあ考えてみたら、犯罪者であろう男(しかも上裸)がいきなり自分と同じ部屋に放り込まれたら、普通ビビるだろう。ビビらないほうがおかしい。

 にしても少しも話してくれないのは傷つくが、とりあえず何もしないでおいた。何もしなければ無害な学生だと信じてくれるだろう。

「よや」

 牢屋の外から声がかけられた。

 そこには、侍とか戦国武将みたいな格好をした男の人が立っていた。いかにも古風で貫禄がある。

「アサンゲノトキニアリィ」

 そして、言っていることが全くわからない。

 何語だこれ。

 まさかタイムスリップじゃなくて日本風異世界に転生もしくは転移してしまったのだろうか。それにしても、最初から言語が分かるようにするのが常識じゃないのか。

 おーい、俺を上裸にした女神さーん、言語自動翻訳特典忘れてますよ―!

 ……返答はなし。心のなかで叫んでみたが音沙汰はなかった。もしかしたら昼寝をしているのかもしれない。

 現実逃避をしていると、外の牢屋番の男の人がなにかを牢屋の中に置いてきた。

 なんだろう、と思ってみたらご飯だった。

 米と汁っぽいもの。それがお茶碗それぞれに、そして二人前。

「タリネンバヨンブンベスィ」

 なんかよく分からんことを言い残して、牢屋番さんは去っていった。

 名前ぐらい教えてくれてもいいと思うのだが。

 ……美味しくなさそう。

 この米、変な色をしている。いや、玄米か?

 汁の方は……分からん。この時代、もしくはこの世界に味噌汁ってないのかな。

 ご丁寧につけられていた箸(見るからに木を削りましたという様相をしている)を手にとって、口をつけてみた。

 う〜ん美味しくない。水で野菜を煮込んだけだ。強いて言うなら染み出した野菜の。微妙な香りがあるだけだ。

 そして玄米に手を付けてみるが、美味しかった。それで、よく見たら米じゃなかった。たぶんアワとかヒエとか言うやつだ。小粒で全然米と味が違う。だがこの時代のことだから釜で炊いたのか、とても美味しかった。

 そんな感じであっという間に食べ終わってしまった。

 ……まだビビってる。

 ご飯に手を付けようともしない。

 もしかして、毒入ってた? なんてこともないのか?

 まあ腹に入ってしまったものはしょうがない。ちょっと危機感なさすぎな気もするけれども。

「……食べないの?」

 ビクッ! と彼女の体が飛び上がった。

 そんなビビらなくてもいいじゃんか……。

 そうだ、一回ちゃんとコミュニケ―ションをとってみよう。なにかえられるものがあるかもしれない。

「あの…………」

 またびくぅっと震えだす。

 俺は狼かなんかか。

「あの、日本語わかりますか……?」

 …………。

 伝わってないな。全く。

「あのぉ……」

 今度は目一杯、笑顔で言ってみた。

 大事なのは第一印象だ。その中でも笑顔はものすごく大事だろう。

 ……そんな目で見ないで……。ものすごい変な目で見られた。こっちからしたらそっちの第一印象は最悪だよ……。

 よく見なくても、ものすごく美人だったけど。自分の世界基準では、街をあるけば十人中十人は振り返るだろうってくらいの美人だった。こっちの世界じゃどうか知らないが。

 こっちの第一印象はなんとかそれで保たれているレベルだった。そろそろ心が折れそうだ。頑張って声かけたのに。そもそも女の人相手は緊張するのに……。

「食べないんですか……?」

 まだ入っている方の御椀を女の人に寄せてみる。

 例のごとく飛び上がったが、まあ、これで悪意はないということはわかってもらえれば良し。

 が、食べなかった。

 どれくらいかと言うと、二日くらい。

 そう、二日である。二日間、ずっと牢屋の中だった。

 ここまで来ると少し気が参ってきた。もしかしたらずっとこのままなのかもしれないという恐怖感も脳裏をかすめはじめた。

 その間、何度も牢屋番の男の人がやってきた。それでわかったのは、あんまり悪い人じゃないと言うことだった。と言うか言葉を交わしてくれるのはこの人だけだった。全く伝わらないし分からないが。しかし、俺が何かを言おうとすると、一応聞こうとはしてくれるようだった。

 ご飯はいつも持ってきてくれるし……まあ、完全に餌付けされてるみたいだけども。

 対する唯一の同居人の女の人は、何も口につけなかった。

 そして、見るからに痩せてきていた。

 正直それを見るのは気味が悪かった。目の前で人が痩せていって、もしかしたら未来の死人と一緒にいるのかもしれないと思うと怖くなってきた。

 牢屋番もそれを心配しているようだった。

 なにやら女の人に対して言って、御椀を動かして催促のようなものをしたりするが、それでも女の人は動かなかった。

「あの……」

 あ、ビビられない。

 そろそろ慣れてきたのか、話しかけるだけではビビられないようになってきた。

 だが、それを喜べる状態じゃなかった。

 何も口につけないのだ。

 出会ったときはまだ丸みのあった頬が今は痩せ、水も口にしないせいか眼科の皮膚が落ち窪んでいた。

 とうとうそれを見て、牢屋番が彼女に一言二言強い語気で言ったが、それでも彼女は微動だにしなかった。ぎゅっと自らの膝を抱えて、ただ縮こまっていた。

 そして、三日目の夜を迎えた。

 うとうとしてきたので、硬い土の床で横になり、目を閉じる。

 ものすごく、静かだった。

 都会に住んでた頃とは違う。何も雑音が聞こえない。

 びっくりするほど静かなのだ。時折、虫が鳴いたりするだけ。夜は、鳥の声も聞こえない。

 唯一あるのは、自分の寝息と、どこか遠くでパチパチと聞こえる火の音と、同居人の女の人の寝息だった。

 だから、その音はすぐに聞こえた。

 どさり。

 直ぐに目を開いて飛び起きた。

 部屋の隅で縮こまっていた彼女が、土の床に倒れ伏していた。

「大丈夫か!?」

 ヤバい。

 とうとう死んだか?

 そんなめっちゃ不謹慎な事を考えてしまった。

 息は、ある。胸の上下はまだあった。

 でも、寝ていた。いや、気絶しているのか?

「おい……!」

 呼んでも起きない。じゃあ、気絶か。

 意を決して、彼女の顔に触れた。

 肌はかさかさで、最初にあった時にはあった潤いも何もなくなっていた。しかし、月夜に照らされるその容姿が整っていたのは変わらなかった。だからこそ、衰弱具合が際立った。

 そして、熱かった。

 熱だ。

「おーーーい! 誰か―――!! 牢屋番の人ーー!!」

 ドタドタと足音が聞こえ、すぐに牢屋番の人が姿を表した。

「イカニカセム!?」

「あの、この人が倒れて! 生きてるんですけど熱が……」

 言い終わらぬうちに、ガチャリと鍵が開き、牢屋番の人は中に飛び込んできた。

 一瞬俺のことをチラと見て、

「ナウンゴキソ!」

 とかなんとか言ったが、すぐに女の人に取り掛かった。

「フォトフォリニアリィ…………」

 呟くと、牢屋を飛び出して、すぐに戻ってきた。

 その腕には、水桶と布のようなものが抱えられていた。

 布を見ずに付け、それで女の人の顔を拭き始める。

 牢屋番の介護は熱心だった。囚人でも、命の保証はしてくれるのだろうか。それとも、女の人と知り合いなのかもしれない。

「よや、ウォトコ」

「えっ、俺?」

 で、手伝わされた。

 具体的には、体拭きを手伝わされた。

 正直めちゃめちゃビビったが、牢屋番は全くそんな様子は無かった。

 文化の違いか何かか、それとも囚人だからこだわりがないのか、秒で女の人の服をテイクオフした。

 服の上からも薄々わかっていたがめっちゃデカかった。それ以上は何も言うまい。

 それで、彼女の体を支えながら、隅々まで体を拭いて――その時に、汗だらけだった事に初めて気がついた――ひとまず介抱が終わった。

 危なかった……理性を死ぬほど働かせなかったら病人で興奮する変態になるところだった。

「よや」

「あ、はい」

 牢屋番の人が、ジェスチャーで俺に何やら伝え始める。

「布を頭に被せて、取り替えろってことですか」

 同じようにジェスチャーしてみる。

 そしたら、頷かれた。

 あ、良いってことかな?

 牢屋番さんはそのまま外に出て行った。

 さっそく、ある程度冷たくなくなった布を額から取って、水につけて、絞って(あんまり水は吸わなかったので絞る意味無かった)、頭にかけてやる。

 ……これ、いつまで続ければ良いんだろう。

 外して、水につけて、額にかぶせて、また外してそしてまた……

 繰り返しているうちに、俺は寝てしまった。

 気がついたら、朝だった。

 俺は女の人のそばで寝ていた。

 寝起きの顔はいくらか安らかで、朝の日に照らされて、ものすごくきれいに見えた。

 と思ったのもつかの間。

 彼女のまぶたがピクピクと動く。

 全力回避。距離を取る。

 またビビられたら心が保たん。

「ん……」

 あ、起きた。よかった生きてて。

「ん……」

 体を起こす。

 その目が、桶の方に向いて、そばに転がっていた布に向いて、そして俺に向いた。

「…………!」

 少し目を見開く。

 それから、彼女は口を開いた。

「きみんがわうぉたすきぇき?」

 初めての、彼女の言葉だった。

 相変わらず、何を言っているのかは分からないが。でも、少し感じ入ってしまった。

「…………かたんずぃきぃえなぁすぃ」

 どこか、物憂げな様子で視線を落とす。

 足音が聞こえた。

 牢屋番だった。

 朝ごはんを持ってきて、こちらにやってきていた。

「オコタリニケリヤ」

 女の人に向けて、微笑みかける。

 それだけ言って朝ごはんを置いて、いつものように去っていく。

 さっきの言葉は、ねぎらいの言葉かなにかだろうか。

「…………」

 しばらく、女の人は黙っていた。

 目を伏せながら、視線は地面を行き来する。

 その口が、ゆっくりと開いた。

「わんがなふぁ…………そよに、ありぃ」

 出された、何かの音の音節。

「……なんて言ったの?」

「そ、よ」

 彼女は自身を指さしていた。

 まさか、名前か?

「ソヨ?」

「げに。そよ、にありぃ」

「ソヨ…………」

 こうしてようやく、三日目にして、俺は彼女の名前を知った。

 それから、一旦、朝ごはんを食べた。

 ソヨはようやく何かを口にした。

 やはりかなりお腹が空いていたようで、がつがつと食べ物をかきこんでいた。

 とりあえず今日の俺の分はあげておいた。

「……!?」

 とめっちゃびっくりされた。

 かなり、感情豊かな子らしい。そんでめっちゃかわいかった。まだ未成年なのかもしれない。顔にもどこか幼気が残っている。

 食べ終わった後で、ソヨは満足げな顔をして、部屋の隅でぽけーっとしていた。

 と、そこで重大な事に気がついた。

 そう言えば名乗ってない。

「ソヨ?」

「?」

 半目開きでこっちを見てくる。

 すごくかわいい。

「俺のなまえは、としゆき」

 と、伝わるかわからないが、念の為土の上にそれを書く。

「としゆき。と、し、ゆ、き。オッケー?」

 ……?

 あれ、首をひねってる。

 伝わらなかったか?

「と……す、すぃ……すぃ…い、……いゆき……?」

 あれ、なんかすっごい苦戦してる……!?

「としゆき。と、し、ゆ、き。大丈夫か?」

「と、とす……? うぃ……とすぃ、ゆき」

 し、って言えないのか?

「いかなるもんじにやある?」

 ……もしや。

 これ、日本語か?

 漢字を書いてみて、それを指さす。

 するとそれを読み上げた。

「かんどまてぃぬ……とすぃゆき」

 なんかよけいなのまでついてるな……。

 だが、少なくとも、文字は共通していた。

 もしかしたら女神様が付与してくれたスキルとかなのかもしれないが、ともかく字はつたわる。

「かどまち、としゆき」

「かんどま、て、てい、てぃ……とぅい……ん?ん〜………………とす、すい、い、いー、い〜……とすぃ〜……そぃ〜……」

 なんか虫みたい……。

「い、ずぃ〜〜…………すうぃ〜……」

 すると、顔を赤くして俯いた。

 かわいいな……。

 とりあえず、さしすせその五十音でも書いてから始めよう。

「やまとぅことんばにありぃ……」

 ん、いま大和言葉って言った……?

 やっぱり文字は共通しているのかもしれない。

 書いたのを指さしながら読み上げてみる。

「さ、し、す……」

「!?」

 え?

「こふぁ…、さ、すぃ、す、とよむんべすぃ」

 読み方が違ったか?

「さ、すぃ、す?」

「すぃかりぃ」

 今、然り、って言ったな。

「じゃあ、さ、すぃ、す、せ」

 また首を横に振った。

「コファ、さ、すぃ、す、すぃぇ」

 え、すぃえ……!?

「え、えっと……? さ、すぃ、す、すぃえ、そ?」

 コクコクと、うなずいてくれた。

 なんか納得いかないな……。

 そして、彼女がまた文字を指差す。

「さ、すぃ……?」

 あ、もっかいやれってこと?

「さ、し」

「さ、すぃ……そい…せい……」

 言えてない……せ、はなぜか言えてるけど……。





 そして、散々な練習を経た結果……




「さ、さ……す、す……す………すぃ……しゅ……!

 しゅぃ! しゅ! しゅぃ〜!」

 あ〜うん違うけどかわいいからいいや……。

 ていうかこれだと俺が学んだほうが早そうだな。

 それで、以下、分かったこと。

 多分、この世界は、はるか未来か遥か過去の日本だ。いかなる理由か、俺はここにいる。

 そしてコトバがほとんど原型がわからないくらいに現代日本語と違う……単語は愚か、発音まで異なってしまっている。

 どうしてこうなっているのか。分かるわけないが、でも、この人たちのコトバを理解するのは大前提なのだろう。郷に入らば郷にしたがえ。その世界の言葉を習わねば会話などできない。生きることの前提だ。

「わふぁたゔぃらぬいふぇぬものにあれんど、みなもとのものにとらふぇられしかんば、このところにとらえられにきぃ」

「そにあたりてぃえふぁ、いかにあることにてぃえ、とらえられけむ?」

「すぃかれんば、あんがこととおなずぃことにてぃえ、とらぃぇられけむ?」

「……何言ってんのか全然わかんねぇ……」

「そりぇとも、きみにおふぃてぃえふぁ、ふぉかぬくにんがふぃとぅにやある?」

 まあ、そうはいっても、最初から分かるわけないのである。

「…………」

 …………

 見つめ合う時間きまずっ。

 だが、見れば見るほどかわいいな……。なんでこんな場所にいるのか分からない。やはり、なにかの罪を犯したようには見えなかった。

 現代と昔だと美の基準がちがうとは聞くけど、どうなんだろうか。

「あの、書いてくれない?」

 地面を指さす。

 すると、そこにサラサラと書き始めた。

 …………達筆すぎて読めねぇ……。

 こっちが書いた言葉は理解してもらえるのに向こうのやつは全くわからん。

 てか当然のように縦書きか。当たり前か。俺は横書きに書いてたなそう言えば……。

「えーと……これなんて読むの?」

「わ」

 わ……あ、これ「我」って書いてあるのか。

「あ、じゃあこれは?」

「こふぁ、たゔぃら」

「こふぁたゔぃら?」

 首をブンブン振る。

「たゔぃら」

 どういう意味なんだろうか……。たゔぃら……たうぃら……? わからん。『平』みたいに見えるけど……。

 あ、もしかして『たいら』、か?

 よし、ちょっと自分で指さしてくか……。

 ゆっくり先頭から指さして、呼んでもらっていく。

 なんとか認識できる言葉を探し出して、認識できない音は文字で、認識できない文字は音で……。

 それでも駄目ならば、ふりがななどを書いてもらって、できるだけ認識していくことにした。


 その結果…………


 成果、ほぼなし!!

 当たり前である。

 文字、読めない。

 音、わからない。

 発音、わからない。

 頼みの綱のひらがなも達筆すぎて読めない。

 これでうまくいくほうがおかしい。

 ていうか時々知らんひらがな出てくるし。いや、ほんとにまじで知らないやつ。「の」かと思って聞いてみたら「か」って読むとかいう訳のわからん事が起きてたり。

 こんなことなら古文の勉強しときゃ良かった……とも思えなかった。勉強してたところでそもそも認識すらできないんだから、ムリだ。これは最早言語学の領域だ。

 唯一幸いなのは、俺が書いた物は理解されるということだった。

 それで、いくらか、ほんのいくらかの払い戻しを得た。

 まず、ここの場所。

 ジェスチャーと雰囲気と文字で、なんとかそれを聞き出した。

「ここはどこですか」

 と書いても理解されなかったので、かなり苦労した。え?文字は伝わるんじゃないかって?

 文字が読めても伝わるとは一言も言ってないじゃないですかやだー。

 アルファベットが読めても英語ができるとは限らないと同じ。昔と今では言葉遣いも全く異なるのだろう。

 しかしまあなんとかやったら彼女に伝わったらしく、それを彼女は

「きみんがいふぃたきふぁ、こふぁいんどぅくにゃある、にありゃ?」

 うん、分からん。理解は示してくれたらしい。

 ので、首を縦に振っていると、なにやらいい始めた。

「こふぁ、かんずぃふぁらぬ、いふぇに、ありぃ」

 あ、ゆっくり言ってくれた……気遣ってくれてるのかな。

 いい子だなこの子。最初死ぬほどビビられてたけど。

「え〜、と……こふぁ……?」

 すると、地面を指差す。

「こふぁ」

 ここは、という意味か?

「かんずぃふぁらぬ、いふぇ」

「かんずぃふぁらぬ……?」

「いふぇ」

「いふぇ」

 すると、彼女は書き始めた。

 短い言葉だから、それは読めた。なんとか。

「えっと……」

(梶原……かじ、はらの、家……か? いや、かじわら?)

 それを「かんずぃふぁらぬ いふぇ」、と言っているのか。

 なるほど。彼女の話す日本語たぶんでは、「し」が「すぃ」になり、それは濁音がついても同じなのか。だから、「かじわら」もしくは「かじはら」が「かんずぃふぁら」になる。

 加えて、ハ行もしくはワ行が「ふぁ」、みたいになるのだろう。

 それで、俺達はその梶原の家にとらえられている、ということが分かった。

 次に、彼女が捕まえられた理由。

「わふぁ、たゔぃらぬ、ものに、ありぃ」

 なんとかして理解したところによると、彼女は「たいらの者にあり」といっていることが判明した。

「えーと、じゃあ……」

 と、彼女を指さしながら

「きみは……たゔぃらぬ……えっと……そよ?」

 と言うと、彼女は目を輝かせながらこくこくと首を縦に振ってくれた。

 控えめに言ってかわいかった。

「すぃかれば、わふぁとらいぇられにきぃ」

 もちろん聞き取れなかったので書いてもらったところ、「然(判読不能文字)(判読不能)、我(判読不ry)捕(判ry)え(判)()にき」

 然我捕らえニキ? 鹿でも捕まえるのか?

 このただのヒエログリフ解読を、頭をフル回転させて理解しようとしたところ、たぶん「然れば(なので)、私は捕らえられた」というふうなことを言っていると理解することに成功した。合ってるかは知らん。

 難しすぎる。なんで漢字よりひらがなのが読むの難しいんだ?

 しかし、恐らく彼女がその身分を理由にして捕らえられたことが分かった。

 以上、わかったのは、この場所、彼女の苗字、彼女の境遇、彼女のかわいさだけだった。

 ここまでで体感時間二時間ほど。

 わかったことそれ以上に、分からなかったことは五倍くらいあった。

 取るに足らないが、他にも、数字の数え方、一人称、二人称、(たぶん)三人称も学んだ。

 数字の数え方は、「ひーふーみーよーいとぅーむーななーやーここーとぉー」だった。なんと懐かしい数え方。やっぱり古代日本語で間違いなさそうである。

 そして、一人称は、「わ」。二人称は、「きみ」、三人称は「あ」、この三つらしい。あんまり現代日本語と変わらないところもあるのが面白い。

 そして、作業はそこで終わった。なぜならば日が沈んだからである。

 ふと、電気をつけようとして周りを見渡した自分が面白かった。この時代にそんなものないのに。まだ油か蝋燭かの時代である。

 それに、ここは木の牢屋の中だ。

 蝋燭や油なぞ、あるわけもない。夜が来れば、自然と作業は終わった。

 質素な夕飯が運ばれて、やるべきこと(詳細には言わないでおく)を済まして、そして気分は寝る時になった。

 その時くらいに、あの牢屋番の人がやってきた。

 男と女が二人だけで逃げ場のない閉鎖空間で一緒にいるのはすこぶる精神の衛生によくない。正直第三者がやってきてありがたかった。

「うぉうな、でよ」

 彼女に言ったのだろう。

 ソヨは戸惑いの顔をして、男が開いた扉の方に行く。

 なんだろう。彼女はこれから何をされるのだろうか。それとなく嫌な予感がした。夜に女性が連れて行かれる情景に良いイメージは湧かない。

 扉から出ていく直前、彼女はちらりと俺を見た。心配そうな表情で、すがるような表情だった。

「待って」

 牢屋番が彼女を連れていく直前、俺は制した。

 牢屋番が俺を振り向く。

「彼女をどこにつれていくんだ?」

 伝わらないかもしれない。だが、どうかはともかく、牢屋番は口を開いた。

「ソンガスィルヨスィファアラズィ」

 ――そが知る由はあらじ

 お前が知るところではない、ということか……。

「ナウゴキソ。スィノンブベスィ」

 そして理解できない言葉を言って、牢屋番はソヨを連れて歩いて行った。

 それから小一時間、ソヨは帰ってきた。

 待ってる間眠気はあったが、眠れなかった。

 牢屋の格子の向こうから見えるソヨは、脚を引きずるようにして帰ってきた。

 嫌な予感は当たっていた。

 牢屋に帰ってきたソヨは、顔のあらゆる場所が腫れていた。

 綺麗だった彼女の顔。それは半分ほど原型をとどめてなかった。左の目元が腫れ上がり、開けていなかった。

 脱力した体で、戻ってきた彼女は、牢屋の隅にへたり込んだ。

「…………!」

 俺は絶句した。

 そして牢屋番を見た。

 彼は眉を寄せていた。

 こいつがやったのか。

 心の奥底に黒い何かが渦巻いた。

「ワニアランズィ」

 牢屋番は首を横に振った。

 我にあらじ……私じゃない。

 じゃあ、誰が。

「大丈夫か」

 俺はソヨの近くに寄った。

 彼女は反応しなかった。

 声も出さなかった。

 ただ茫然自失としていた。そんな彼女の表情も、腫れだらけで、そして夜の暗さでよく伺えなかった。

 一体何をされたんだ?

 女としての尊厳を奪われるような事をされたのか――――そんなことも頭によぎる。

「よや」

 牢屋番が言った。

 振り返ると、まだ扉は閉じていなかった。

「コファソンガバンニアリ」

「え……?」

「コヨ。ソンガウケルトキニアリ」

 まさか、次は俺……?

 思った瞬間、俺は腕を引っ掴まれた。

「トクコヨ。カンズィファランドノガマティエアリィ」

 抵抗できなかった。力がものすごく強かった。

 そして、俺は牢屋の外に出された。

 夜の空気はとても澄んでいた。

 今まで吸ったどの空気よりも、住んでいた都会の空気よりも、とてもきれいで、心地がよく、不気味だった。

 そして静かだった。車の音など存在しない。人の声も聞こえない。かろうじて、牢屋番の手にするパチパチと燃える松明の音だけが聞こえる。後ろを振り向けば、すでにもう何も見えなかった。妙な心地よさを覚えたあの牢屋すらも、真の闇の向こうに紛れていた。

 この時空を見上げていたら、さぞかし綺麗だったのだろう。しかし、そんな発想すらもその時にはなかった。

「コレフェ」

 門番が立ち止まった。

 いくつか立っている建物の一つ。

 その扉を、ガラリと門番は開く。

 明るかった。部屋の隅の方で何かが燃えていた。

 そして、誰かがいた。人が、三人ほど。

 部屋の中心に、藁のようなものが敷いてあった。

「ぐっ!」

 背中に鈍い痛みが走った。

 突き飛ばされたのか。

 体が藁の上に転がる。

 痛い。ズキズキと、背中が痛む。

 誰が蹴った……あの、牢屋番か?

 優しいと思っていたのに。

 一体何が。

 怒声が響き渡った。

 聞き取れなかった。ただ体の全身が竦み上がった。

 何なんだ?

 人? 武士? 手に、木刀みたいなものを持っている。

 それを突きつけてくる。

「キヲトゥケヨ」

 何がなんだか分からない。

 俺は今何をされているんだ?

 ソヨも、同じ事をされたのか?

「っ!」

 痛い。

 髪を掴まれた。

 無理やり、顔を動かされる。

 目に入ったのは、部屋の奥に佇む人だった。

 歳を取った老齢の男。まるで鉄仮面のように微動だにしない表情。

 それがまっすぐにこちらを見ていた。

 突如として、頭を掴んでいた手が離される。

 その男が、俺の頭上で何かを話し始めた。

「コファカンズィファラヌカンゲトキノキミニアリィ。コレヨリソヌカンモンウォ、キミンガオコナフィタマフ。ココロスィテコタエンベスィ」

 全く、何を言っているのかがわからない。

 ソヨとはちがう。相手に伝わったかどうかなんてどうでもいい。そんな話し方。実際、何かの口上をあげつらっているようにしか聞こえない。

 すると、奥に佇む鉄仮面の男が口を開く。

「ソンガナファ?」

 ――そが名は?

「クソッ……門町、寿行……!」

 男が眉を吊り上げた。

「ナニウォイフィキ?」

「だから……門町、寿行!」

 なんで聞き取ってくれないんだ。ソヨも聞き取ってくれたのに。

 まさか他の言語を話してるのか?

「カンドマティ、トスィユキ」

 男の直ぐ側に控えていた別の男が、背の低い長机に何やらメモをし始める。

 尋問か、これは。

 ようやく、ピンときた。

 それで、俺はなにかしらの容疑をかけられて、事情聴取を受けているわけか。

 だが問題なのは、今俺がどんな容疑をかけられているのか全くわからないことだ。

 なぜなら言葉がわからないから。

「ナファインドゥクヌフィトゥニヤアル?」

 分からない。全く分からない。

 せめて、もっとゆっくり喋ってくれ。

 その時、頬に鈍い痛みが走り、焼けるような衝撃が駆け巡った。

「ああ゛っ……!!」

 痛い……! 痛い痛い痛い……!!

 頭蓋骨が軋む。全身から汗が吹き出る感覚がする。

 体が地面に倒れ伏す。痛みで頭がくらくらした。

 クソ。クソクソクソ。

 何もしてない。何もしてないのに。

 ただ言葉がわからないだけなのに。

 なんで殴る必要があるんだ。

「コタイェヨ!!」

 頭上から罵声がふっかけられる。

 何かを命令してるんだろう。だがあいにくとわからないのだ。

 分からない。分からない。分からない。

 分からないんだよ。どうがんばっても。

「コタイェヨ! ナファインドゥクヌフィトゥニヤ!?」

「がっ!」

 今度は脇腹に衝撃が走った。

「痛ぇっ……!」

 だが、咄嗟にそれを抑えるしか俺はできなかった。

 側頭部と脇腹が心臓の鼓動に合わせて悲鳴を上げる。だが何もできない。ただうずくまるしかない。

「ソファコタイェヌココロンドゥモリニヤ!?」

「何言ってんのか全然わかんねぇんだよ!!」

 思わず俺は叫んだ。

 男が呆気にとられたような顔をする。

 這いつくばりながら俺は一気に言葉を吐き出した。

「せめて聞く努力ぐらいしろよ! なにか聞きたいなら! 急に殴るんじゃねぇよっ!」

 こいつらは日本人のはずだ。遠かれ近かれ、俺達現代人の祖先のはずだ。

 だがこの差は一体何なんだ。全く話を聞こうともしない、言葉は話せるのに通わせようともしない野蛮人。挙句の果てに通じなければ殴ってくる。

 こいつらからは、日本人の気配を微塵も感じない。いや、それ以前に、本当に人の血が通っているのか?

 胸に鈍い痛みが走った。

 そして首元に圧迫感が来る。

 胸を蹴りあげられて、仰向けになったところに喉に木刀を突き立てられていた。

「やめ゛っ……ろ……!」

 途端、腹を殴られた。

 ビシリと雷が走って体が床でのたうちまわる。

 止まらなかった。体のあらゆる場所を殴られた。

 そのたびに男が何かを喚いていた。

 時たま痛みが止まって、頭を掴まれ奥の男をを向かされたが、しかし何を言うのも理解できない。

 そうしたらまた殴られる。しこたま殴られる。

 何度か嫌な音がして、壊れてはいけないどこかが砕けた気もした。

 しかしそれを数えるのも嫌になった。

 それだけくまなく殴られた。何をされたか何を言ったか。何も理解ができなかった。

 気づけば痛みで朦朧として、俺は床にひれ伏していた。

「…………」

 端から見ても、無様な様子だったと思う。

 そして奥の男が何かを言った。

「ヨキ。カフィナスィ」

 それから、縛られた腕が掴まれた。

 立ち上がろうとすると、ぴしりと脚に痛みが走った。それだけじゃない。体中が動くたびに、気味が悪いくらいに傷んだ。鈍く、ひどく、くまない痛みだ。

 これから逃れられるなら、せめて気絶させてほしいと思ってしまった。

 腕を引っ張られて外に出る。ひんやりした風はもう感じなかった。

 吹く風全てが痛みを誘った。全身から熱湯が出ているみたいだった。

 腕を掴まれ、夜の道を戻る。俺を引っ張るのが牢屋番の男か誰かも分からなかった。痛みに、脳の全てが支配されていた。

 牢屋について、扉が開く。

 俺はごろんと横たわった。

 安心感が駆け巡った。牢屋なのに、安心感が体中を支配した。

 ガチャリと錠の閉まる音。そして牢屋番の何かのつぶやき。

 そしてどこかへ歩いていく音。

 その次に、すすり泣きが聞こえてきた。

「っ……」

 ソヨの声だ。

 しかし確かめる気にもなれなかった。もう首一つ動かせなかった。

 ソヨは何かをいい始めた。何かをわめき始めた。泣いているようで、謝っているようで、ただ子どものように喚いているだけにも聞こえた。

「ゆるすぃたまふぇ、ゆるすぃたまふぇ、ゆるすぃたまふぇ……!」

 彼女が何かを繰り返す。

「わんがいのりぇんば……わんがそんぎぇなることうぉせざれんば……! そふぁかくあるところにこざらますぃ……!」

 何かを言う。何かを繰り返す。何かを伝えようとしている。

 でも、分からない。俺にはわからない。一言も。その意図も。その言葉が、その言いたいことが。どう頑張っても、分からないのだ。

 ただ、奇妙な、どこか少しだけ母国語とのつながりだけを感じさせる、奇妙な外国語にしか聞こえない。

 悔しい。悔しかった。初めてだった。伝わらないことが、これだけ悔しく思えるなんて。これだけ情けないだなんて。一言も返せず、何も言えないことだけが。

 何も慰められなければ、何も言い返す事もできず、なんの会話もできなければ、弁明も釈明もできない。

 ただ、人としての尊厳を失って、這いつくばって、呻いて、転がることしかできない。

 悲しい。悲しい。悲しい。

 悔しい。苦しい。辛い。悲しい。

 ただただ、ただただ、悲しかった。

 目頭から溢れてくる。

 それが頬を伝い、真っ青に腫れた傷口の痛みに油を注ぐ。

 安らかに涙を流すことも許されない。ただ生きることも許されない。牢屋で這いつくばることすら許されない。

 言葉を話せなければ、いや、ソヨのように言葉を話せても、簡単に人は傷つけられる。

 言葉を使えたとしても使わなければ。通わせようともしなければ、それは獣と同じだ。ただ威嚇して牙を向くだけの、犬や熊と同じ分類だ。いや、犬や熊にだってまだ情があるだろう。

 そんな事をただ考えて、何も役に立たぬことを考えて、俺は意識の薄れゆくままに、すべてを手放した。








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