無限の知識の彼方へと
無限の知識の彼方へ
本文
その世界は壊れていた。精霊が爛れ、因果が捩れ、法則が乱れていた。そのせいで聖剣が魔剣へ、魔剣が呪剣へ、魔術が歪に捻じ曲がった。文明は瓦礫と化し、魑魅魍魎が跋扈し始め、この世は地獄と化したのだ。
そんな崩壊した世界で──
「お母さん」
「マリー……」
一人の少女と母がいた。
「ごほっごほっ」
「お母さん!」
「……そんなに心配しなくていいからね。お母さん、ちょっと調子が悪いだけだから」
「そう言ってもう三年にもなるんだよ。やっぱりおかしいよ!」
「……ごめんね」
「謝ることじゃなくて……」
少女は深く俯いた。その様子を察して、母は罪の告白をするように囁く。
「ごめんなさい。私、貴方に寄生してる」
「違う、違うよお母さん……っ」
「……ああ、私のマリー。どうか、こんな母を置いて一人で元気にやっておくれ」
「嫌だ! 絶対にお母さんは見捨てない!」
「……あぁ」
それは絶望の慟哭だった。
自分の娘は、まだ自分に罪悪感の檻に囚われろと云うのだ。それも涙ながらに少女は語ってくる。おそらくは100%の善意から言っている。だから──
「それじゃあ、行ってくるね」
「……行ってらっしゃい」
彼女の顔には絶望しか浮かんでいない。結局、今日もいつも通り見送りの言葉しか言えなかった。
「……殺して」
そう言えるわけもなく。
少女の日銭は砂金取りで賄っている。
ここの気候は冷たい。だが、近くの川では砂金が取れるのだ。
下履きを結んで、冷たい水に足を浸し、ザルで土を救って金を取る。
それを贔屓の商人に買ってもらい、金銭を得る。パンを買う。
それが彼女の……彼女らの生活だった。
しかし、最近は食料が異常に高い。それは穀倉地帯が全滅してしまったからだ。虫のような甲殻を持つ四本足の化け物。それが人間を食い、麦を食い、そうして食料供給の半分を喪失させてしまった。
何故こんなふうになってしまったのだろう。それが神々の怒りを買った代償なのだろうか。無論、そんなこと少女が知る由もない。ただ知っているのは──
「砂金取りだけじゃ食っていけない……」
ただ、それのみだった。
◇
「ふぅ……疲れた」
少女は瓦礫を漁っていた。崩れた家の瓦礫だ。掘り起こせば家財やら財産やらが、そのままの形出てくる。何も、こんな宝の山が何のわけもなく生まれたわけでもない。
──それは黒燐を纏った蛇だった。
形を持った暴力は家を薙ぎ倒し、人を食い、地面を血で彩った。今でも壁には血が引き摺られた跡が残っている。それでも怖がることなく少女は宝探しに興じていた。
「これは持っていけないし、これは……家具が多すぎ」
しばらくして危機は去ったが、いつそれがまたやってくるとも限らない。命からがら生還した住民たちは全てを置いて逃げてしまった。だからこそ、少女はトレジャーハンティングに勤しめる。
例え幾億分の一の死が眼前に迫ってこようと、明日の飢えを考えれば危険を犯さざるを得ないのだ。
「あった、食べ物は……全部腐ってる」
彼女は、がっくりと肩を落とした。
街が襲われたのは三ヶ月前、どう見積もっても食料品が駄目になるには十分だ。
少女は掘り起こした紙袋を投げ捨てて、血の跡がついた家を出る。
瓦礫の山々が支配するその場を歩いていると……。
「……何、これ」
それは大きな穴だった。
覗けば、暗闇がこちらを誘っているようにも見える。
「…………」
マリーは、その深淵から目を離すことができなかった。まるで好奇心に駆られたチェシャ猫のように、その中に入りたくなる。
「……ちょっとだけ」
結局、足を踏み入れてしまった。石畳の階段が彼女を招き入れた。
「──ここは」
少女は息を呑んだ。そこは広大な空間だった。
まるで島のようになった地面は砂で覆われ、その周囲を水で浸されている。
中央には光が差し込み、そこに一つの大きな台があった。
古びた台だ。是も石でできている。長年置かれているのか一部が苔むしていた。
マリーはそれに近づく。赤い宝石が一つ。
「綺麗……誰のかしら」
その問いに答える者はいない。
赤い水晶のような透き通った石。まるで血のようだ。手に持って見れば、自分の手のひらより一回り小さい。彼女はそれを手に取って眺めた。そして、ついに右手側のポケットに入れてしまった。
「……バレないよね」
マリーの脳裏に浮かんだのは一つの可能性……『これを売れば、お母さんの病気を治す薬代を稼げるんじゃないか』というものだった。
多少の罪悪感はあったものの彼女は、この場所が誰かの所有物でないと薄々感じていた。だから、窃盗まがいの行為に及べた。
その思考は極めて単純だが、彼女を笑える者は誰もいないだろう。何せ彼女はそれほどまでに困窮していたのだから。マリーはすぐに来た道を戻り、商人の下を訪れた。
「ん〜、これは売れないね」
「な、なんで!?」
少女は驚愕と共に商人を見た。商人は言いづらそうに頬をポリポリと掻く。
「こんな宝石、見たことがないからさ」
商人は利益とリスクヘッジを天秤にかけ、後者の方が重いと判断した。
見たことがないものを買って、それが売れなかったとすると、それだけ赤字を被る。
一見宝石のように見えるこれをまともな値段で買おうとすると、それなりの額になるのだ。
そんな愚は犯したくない。
「悪いな嬢ちゃん。銀貨一枚なら買ってもいいぜ」
「……良いです。他を探します」
マリーはそう言って商人から離れた。
しかし──結果は一緒だ。
他の商人を当たれど当たれど同じような結果で、中には門前払いする者もいる。よくても銅貨五枚の値段しかつけてくれなかった。
あるいは一番最初の商人が適当だったのだ。
「はぁ……」
思わずため息をつく。
これで母の病を治せると躍起になったのだ。それだけに落胆も大きい。
一番最初の商人に売りつけるのも手だろう。しかし、それでは芸がないように感じていた。この宝石、きっと何かある。しかし、だからと言って、この宝石のような石ころの使い道など思いつきもしない。
いっそのこと捨てようと思った、その時だ。
「──ハッーハッハッハ!」
「!?」
それは高笑いであった。
次にずしんと地面が震える。
マリーは目をぱっちりと瞑り、少ししてから目を見開いた。
そこにいたのは白銀の全身鎧だった。
「そこの少女よ、それを渡せ!」
「えっ……何!?」
「四の五の言わずにそれを渡せ!」
声からして男ということはわかる。身長2mという巨躯は周囲を轢き殺さんばかりに威圧し、甲冑の中の暗闇から垣間見える双眸は射殺さんばかりに少女を見つめていた。
当然、少女は身の危機を感じる。しかし、なぜか自分の身ではなく反射的に、その何の価値もないような石を庇った。
彼が是を求めている。ということは、少なくともそれだけの価値があるということだ。
「ダメ! これでお母さんの病気を治すの!」
「ハッハッハ! 君ではそれを扱うことはできない。いいから、お兄さんにそれを貸したまえ!」
「ヤダっ!」
突然ピタッと動きを止めて、ポリポリと兜を掻く全身鎧。
すると、彼は背中に背負っていたグレートソードを引き抜いた。
「それならば、いざ尋常に!」
「えっ」
少女が後悔した瞬間である。
子供であるマリーでも分かる。それは所謂強盗であった。全身鎧のように白磁の刃、黄金に輝く刀身、それを軽々と片手で持つ膂力。それはまさしく怪物だった。鈍器のような剣を二振りも構えて、彼はマリーと向き直る。
マリーはすぐに事態を察知し、謝って石を渡そうとした。しかし、だ。
「何やってんのよ!」
爆発。
土煙。
誰かの叫び声。
それらが終わると、そこに立っていたのは長耳のブロンドヘアをした女性だった。
「イリーナか。邪魔するな!」
「小さい女の子相手に剣なんか持って、何する気なのよ!?」
「ほう、言うに事欠いて私に何をするだと? そんなの決まっている。『ソロモンの鍵』を求めて、ここまで来たのだ!」
「っ、ソロモンの鍵!?」
イリーナと呼ばれた女性はすぐに少女に振り返る。マリーは彼女の視線に薄寒いものを感じた。
「分かったら今すぐ退け! お前もそれが欲しいのだろう?」
「……いいえ、貴方には渡さない。女の子相手に武器で脅すような、アンタみたいな男には!」
「この世は弱肉強食だぞ、イリーナっ!」
戦士はかけ出す。それは獰猛な象の一足だった。
「ガングラッゾ……貴方には一度、道徳というものを叩き込んであげないといけないようね」
すると、イリーナが背中に背負っていた強弓を構える。
三日月のようなバカでかい弓だ。弦が弓を折るんじゃないかと思うぐらい強く張られていて、硬く強く繊維をしならせている。
イリーナは三本の弓を手に取る。その仕草に、ガングラッゾは立ち止まり、構えを変えた。
「今の内……!」
「あっ、待って!」
「隙ありぃ!」
すぐに爆発音が聞こえる。マリーは迫り上がる恐怖に追い立てられながら逃走した。
「はっはっは、なんなの、あれ──」
少女の体力は、そこまで高くない。いくら砂金とりで足腰が鍛えられているとはいえ、長い距離を走るように訓練されてはいないのだ。十分もしばらくして彼女は息絶え絶えになる。
「はぁっ、はぁっ、はっ、はぁっ、はぁ、はぁ、はぁ」
「あっ、いた……ねえ、貴方──」
マリーは、その声にすぐに身構えた。現れたのは耳長の女。
旅人のような軽装に赤褐色のマント、手には先ほどの大きな強弓を持っている。
一見温和そうにも見える。人相がそうだと語っている。
しかし、油断できない。人は見た目で判断してはいけないというのが母の言だ。
「あの人は……?」
「今は眠らせているわ。あと五分もすれば起き上がってくるだろうけど」
五分という言葉に恐怖を覚えるマリー。イリーナは彼女の手に握られた赤石へと視線を移す。
マリーがパッと手を後ろにやると、イリーナは柔和な微笑みを浮かべて、彼女と視線を合わせた。
「ねえ、その石をお姉さんにくれないかしら」
「ダメっ!」
「お代は払うわ。金貨五枚でどう?」
「……金貨五枚」
マリーは思わず反芻する。
それは、この役立たずの石の対価としては十分すぎるものだった。
「走りながら聞こえていたわ。お母さんの病気を治したいそうね。それだけあれば良い医者にかかれるはずよ」
女の言葉は心からの善意だった。マリーにもそんなことはよくわかる。また、彼女のいうことは正論でもあった。この何の価値もないような石に執心するより、今それを売って金に変えたほうがよほど利口だ。
「…………」
「…………」
よく考え、唸って、考えて。
そして、答えを出す。
彼女は石を差し出そうとする。しかし、その手を直前で引っ込めた。
躊躇したのだ。この石を差し出すことが、まるで自分の心臓を差し出すかのようで。
まるで、その石に魅入られたかのようだ。手放したくないと、そう思ってしまう。
マリーが逡巡する。その時のことだ。
「なっ──」
「何!?」
スカーレットの宝石は急に眩いばかりの光を発し始めた。
『第一認証確認:迷い』
「何、これ……」
「何、何なの!?」
マリーの脳髄に情報が流れ込んでくる。莫大な知識の奔流が彼女を満たした。
『回答:ユグレットの病状は現在の医学では治療不可能です』
「どういうこと!?」
「貴方、何して──」
次々に頭の中に情報が流れ込んでくる。その中には『それ』の使い方も含まれていた。
『……どうやったら、お母さんを治せるの?』
『回答:シャンバラに答えがあります』
『シャンバラ?』
『回答:シャンバラは『ソロモンの鍵』である当機の認証を全開する場所です』
『そこへ行けば、お母さんの病気は治るの?』
『回答:YES』
『……分かったわ』
何が何やら突然でわからないが、マリーは全てを把握した。
すると、彼女はイリーナの目を見て答えた。
「悪いですけど、これは売れません」
「えっ、何で……!?」
「…………」
『──どうしたら、この状況を抜け出せる?』
『回答:必要な情報をインストールします』
「っ……」
「貴方、大丈夫!?」
頭がぐらりと揺れる。突然の頭痛に耐えると、マリーは『それ』を知悉していた。
「……『ダーク』」
暗闇が広がる。
イリーナは突然の事態に腕で抵抗を示した。
「うわぁっ!」
暗い暗い闇の底、まるで深淵を覗くような影だ。
夜の帳が静かに下りる。
どこまでも深い闇が、そこにはあった。
その間に、マリーは飛び跳ねたように逃走する。
「──『ヘイスト』!」
彼女の足がぐんと早くなる。その効果は歴然としたものだった。
シマウマを馬にし、カタツムリをテントウムシにし、羊を猪にする。
しかし──それで見失うイリーナではない。
すぐにマリーに追い縋る。彼女の速度は馬を持っても追いつけないほどだった。
「待って!」
「っ、『ファイア』!」
その返事とばかりに豪炎が、彼女の下に飛来した。イリーナは当然避けるが、驚愕を持って目を開く。
「どうして……どうして、魔術を使えているの!?」
魔術、それはこの世界に見失われた理の力。
法に則り、法を解し、法を組み合わせて事象を起こす。
それは魔法と呼ばれた神話の御業に到達し、人類を神代の領域へと踏み入れさせた。しかし、時代は移り変わり、神々の怒りに触れた人類はその喪失を余儀なくされた。
人類は──驕ったのだ。
調子に乗った。思い上がった。つけ上がった。増長していた。
だから、神々はお灸を据えた。彼らからあらゆるものを取り上げた。
聖剣が魔剣に、魔剣が呪剣に、魔術が歪曲し、世界が建築は瓦礫と化した。
この世界で魔術はすでにロストテクノロジーだった。
「ちっ、なるほどね。ただの子供じゃないってわけ……!」
すると、イリーナは自慢の強弓を掲げる。それは牛を射殺し、山の頂上の的を地上から射抜き、鉄板をバームクーヘンのように貫く弓だ。金細工が施されたそれは彼女の万力に軋む。その瞬間、少女に向けて剛速の矢が飛来した。
『提案:『シールド』をお勧めします』
「っ、『シールド』!」
目の前に四方形の透明な板が現れる。目を凝らさなければ見えない壁だ。ガラスのようにも見える。それは容易にイリーナの矢を防ぎ、硝煙を上げてマリーのことを守った。
イリーナは眼前の事態に驚愕と共に目を見開く。
「パシュパタの矢が、防がれた……?」
愕然とするイリーナに対し、逃走を続けるマリー。
眼前の事態を眺めながら、イリーナは思索の海へと潜っていた。
(なんで、そんなこと、今まで一度も…………いいえ、今はそんなこと考えている暇はない! とにかく、あの子を──)
イリーナの判断は早かった。
それならと、彼女は自慢の素早さを利用してマリーに近づくのみ。そして、それは『ソロモンの鍵』としても予想の範疇だった。
「『バフーダ』」
突如として現れる豪炎の数々、空中には大群と思しき炎の塊が波打っていた。それに、さしものイリーナといえど青ざめる。
「パフーダ、ですって──!?」
瞬間、爆炎の津波が押し寄せる。彼女は全力で回避するも、被弾は避けられない。案の定、彼女の体はボロボロになり、服も燃え尽きる。
「くっ……」
「『バフー──』
マリーが二度目の切り札を切ろうとした瞬間だ。
「──っ、降参、降参よ!」
イリーナは声を張り上げて言った。
「なっ……」
「勝てないわ。まさか、最上位魔術を使ってくるなんて……子供だと思って侮っていたわ」
「…………」
マリーはポカンとする。
先ほどまで自分を殺そうとしてきたイリーナが、一転して負けを認めたのだ。
年端もいかない少女に命乞いをし、今や座り込んでいる。
しかし、無理もない。
神代の時代と匹敵する魔術を、年端も行かないはずのマリーは完全に操っていたのだ。人類最後の英傑といえど、それに勝つのは難しい。
「…………」
マリーは静かにその姿を見下ろしている。
まるで、人が変わったかのように。
『提案:彼女を殺すことをお勧めします』
『……でも』
『回答:万が一ということがあります。殺害をお勧めします』
『…………』
『提案:殺害を推奨』
『…………』
『提案:殺害を推奨』
マリーは繰り返される『提案』の中で嘆息する。
「……ごめんなさい」
「何が?」
イリーナは、きょとんとしていた。
まるで自分の降参が受け入れられるものとばかり考えていた彼女は、今や完全に警戒を解いている。
だから、マリーのありえぬ心変わりにも気づかない。
「『ソード』」
「……嘘でしょ?」
イリーナの肩が震えた。
「えっ、何、私を殺すの?」
その問いかけが宙に浮かぶ。冷たく……まるで屠殺場の豚を見るような目で、マリーこちらを見ている。それにイリーナは本能的に恐怖を覚えた。
「もう降参してるのよ!? 貴方のことは害さないって……ねえ、聞いてるの! 私は降参する、だから──!」
マリーは右手に、片手でも操れるバスタードソードを掲げた。
瞬間的に──斬られる!
そう思ってイリーナは腕で頭を庇った。
だから、彼女は……ブラフに気づかなかった。
「……えっ」
「──『バフーダ』」
再び、幾千幾万という炎の塊が現れ、彼女に狙いをつける。マリーはというと『シールド』で四方を囲み、自分だけは守っていた。
「かひゅ──っ」
彼女の喉から奇妙な声が漏れる。
剣を生み出す魔術──『ソード』はあくまでブラフ、本命は至近距離での『バフーダ』。
それに気づかれないよう最後まで少女は用意周到に準備を進めていたのだ。
その事実を知って、イリーナは深く絶望した。彼女の直感はここから逃れられないことを示唆している。
「死になさい」
「……あああああああ、あああああああああああああああああ──」
彼女の絶叫が響く。
すると、叫び声がぷっつり切れた。
「……クソ喰らえよ」
逆光の中、イリーナがマリーを嘲笑ったような気がした──まるでバッファローの群れのような炎の大群が押し寄せる。
それはイリーナの亡骸さえ許さず、灰だけを残してイリーナという存在を消し去った。残ったのは彼女の弓だけ。マリーは何も無くなった地平を見て満足する。
『提言:おめでとうございます、マスター。これで貴方は英雄です』
「そうね……気分がいいわ」
どこか引き摺られるような声で彼女は語った。
今の感情が自発的に生まれたものか──それとも、この赤石によって作り出されたものなのかは分からない。
唯一分かるのは、この澄み渡った空は美しいと云うことだ。
『……ねえ、貴方の名前は?』
『回答:ソロモンの鍵』
『ソロモンの鍵……いい名前ね』
この瞬間、彼女の中の何かが開花した。
『第二認証確認:英雄』
──誰かが言った。
一人を殺せば犯罪者──百万殺せば英雄と。
なら、十万を殺しうる人間を十人殺した人間は果たして英雄なのか?
◇
ソロモンの鍵、それはあらゆる知識を内包したアカシック・レコード。
聖地シャンバラに持っていくことで、全ての知識が解放される。
ソロモンの鍵を求めるものは多い。特にこの終わった世界において最後の神造物は青天井の価値を持つと言える。
一説によればどんな知識も内包するということは、どんな願いも叶えられるということらしい。
金持ちになることも、権力を持つことも、誰かを救うことも、そして、不治の病を治すことも。
どんなことも可能だ。どんなことも可能にしてしまえる。それがソロモンの鍵だ。
だからこそ、世の武人たちは、それを求めて彷徨い歩く。
その中で特に強い十人の豪傑たちをこう呼んだ。
十傑、と。
怒号が町の方から聞こえてくる。マリーはすぐに視線をそちらに移した。見ると何かが高速で此方にやってくる。その事実に彼女は、すぐに逃走を選んだ。彼女の生存本能は正しかった。森林に入ってすぐに木を薙ぎ倒しながら現れる全身鎧を目に捉える。あいつだ、あのあいつに違いない。
「ハーッハッハッハ!」
「っ………」
森林へと逃げ込み、『ヘイスト』で加速する。更に『グラビティ』で重力をマリーの全身方向へと変えていった。しかし……
「ハーッハッハッハ!」
その声は聞こえてくる。
「嘘……この速度で追いつかれるの!?」
『提案:『グロダクーヴァ』の使用をお勧めします』
「っ……そうね」
マリーはすぐさま『グロダクーヴァ』を発動する。
現れたのは森だった。森林において更に森だというのは、いささか冗長ではあるが、事実森の中に森ができた。入り組んだ熱帯雨林のような壁が形成され、全身鎧……ガングラッゾの行手を阻む。
しかし、巨木はこれまた巨大な剣によってバターのように切断され、彼の前方にかけておあつらえ向きな道ができた。
「なっ!?」
それにマリーは2度目の驚愕を漏らす。
(あの大きさの木を一刀両断? ふざけてる……とんでもない膂力ね)
「──はっはっは! 逃げることは辞めたのか?」
マリーは急停止する。白銀の甲冑を被った男は、二振りの両手用グレートソードを両手に掲げ、芝居がかった動きで聞いてきた。
マリーの背中に汗が滲む。それでも、今ここで殺るしかない……
「ハッハッハ! 貴様、イリーナを殺したな?」
「っ、なぜそれを……」
痕跡は完全に隠したはずだ。落ちていた弓も川に投げ捨てた。
だというのに、全身鎧はそのことを知っていた。
「勘だ。あの娘は意外に一途でな……狙った獲物は仕留めるまで山を降りない」
「なるほど、姿が見えないから私を疑ったってわけね……」
「何やらいくばくか見ないうちに英傑になったと見える。男子三日会わざればというが……女子刹那会わざればだな! これぞ、相手にとって不足なし!」
ガングラッゾは両手のグレートソードを構える。
「いざ、尋常に……!」
「っ……『ダーク』!」
彼が走り出すと同時に溢れ出る深淵。闇は世界を真っ黒に塗りつぶし、夜の帷を下ろしたように光を奪い去る。
「ぬっ、面妖な!」
それに対してガングラッゾは的確にマリーがいた場所を切り裂いていた。しかし、空振り。マリーはすでに暗闇の中に溶け込んでいた。
「…………」
そこで鎧戦士は立ち止まる。下手に動き回るよりも相手の出方を見たほうがいいと判断したのだ。
そして、それはマリーにとって……いや、ソロモンの鍵にとって思う壺だった。
「『シャドウ』」
「なっ……!」
彼の体が操り人形のように動き始める。グレートソードを自分の首に当てがい自死するように。更に、自分の影が体を拘束し、突き刺しては中で枝分かれしている。全身鎧の防護も虚しく、彼は全身に多大なダメージを負ってしまった。
「これが私のとっておき、『シャドウ』よ」
「くっ……魔術か」
「気付くのが遅れたわね。それじゃあ──死ね」
彼女の凍てつくような声が響いた。
彼のグレートソードは、これまたこんにゃくのように彼の喉元を切り裂いていく。ワインのように血が吹き出し、彼はバサリと倒れ脱力した。
その様子を油断なく見届け、十分も経過するとようやく彼女は二つの魔術を解いていく。
「……ふぅ。なんとかなったわね」
『提言:YES、マスター。これで十傑は二人目です』
『十傑?』
『回答:十傑とは私を求める武人の中でも突出した十人の猛者であり、人類最後の英雄です』
『そんなすごい人物だったのね……あのイリーナもそうだったのかしら』
『回答:YES』
『そうなの……案外あっけなかったけど』
彼女はガングラッゾの亡骸を見ながら吐き捨てる。そうして、その場を去ろうとした、その時──
「ハーッハッハッハ!」
「なっ……!?」
「ガングラッゾ、完全復活! 太陽は私を死なせない! 明けない夜などないのだ!」
その事態にマリーは目を剥く。
そこにあったのは完全な形で復活を遂げていた全身鎧の姿だった。
(この男、確実に絶命したはず……それなのに生き返った? バカな、だとしたらどんなカラクリだ?)
「少女よ。きっと君はどんなカラクリで俺が復活したかと頭を悩ませていることだろう」
「っ……」
「答えは簡単。我が加護によるものだ!」
まるで道化師のようにつらつらと語るガングラッゾに吐き気と殺意を覚える。
マリーは今の今まで普通の少女であったものの、力はその人の本性を暴き出すという。彼女の性格は戦闘を経る中で急激に苛烈で洗練されたものへと仕上がっていた。
「私の加護は『不死鳥・太陽』、戦死・自死・事故死・病死・溺死、どんなことにも耐えられる! そして、この『決して折れぬ剣』と『決して壊れぬ鎧』を合わせて、俺様は最強なのだ。ハーッハッハ!」
「なぁっ……」
マリーは拳をワナワナと震わせた。彼女の頬が見るからに紅潮するのが見てとれる。
(バカな、巫山戯てる。そんな能力があってたまるか! 加護ですって、そんなの聞いてない!)
『回答:加護とは精霊から贈られる一種の呪いであり、運命改変力です。運命に指向性を持たせ、ある事象を回避あるいは直面するように仕向けることができます』
(あ、そう。解説ありがとう!)
マリーはすぐさま駆け出した。復活してくるなら、まともに相手していてもキリがない。逃亡を選んだマリーであったが、しかし、ガングラッゾはあの高笑いを響かせながら、とんでもないスピードでこちらにやってくる。
「どこへ行くんだ少女よ! これから私と血湧き肉踊る舞踏を開こうぞ!」
「お生憎様、舞踏会に出る靴がないもんでね!」
「君にはあるじゃないか。その足を彩る魔術が!」
彼は既にマリーがヘイストとグラビティを使っていることを見抜いている。彼の動物的直感は本来見れないはずのものを見通し、知れないものを知悉していた。それにますますマリーは心理的に追い詰められていく。
(どうする、どうすればいい? 私の手札は今魔術だけ。それもこの状況を覆し切るかはわからない。どうすればいいんだ?)
マリーは頭をフル回転する。しかし、現状を脱し切る術は持ち合わせていない。彼女には選択肢が限られている。
(太陽……不死鳥……ああ、もう! 弱点のない加護じゃない!)
開けない夜はない。太陽が必ず沈んでは昇るのと同じように、不死鳥は必ず死ぬ運命にあるが、蘇るのだ。
「ちょっと、しつこいんじゃない? レディにそんな態度じゃモテないわよ!」
「生憎と、君をレディだと思ってはいない! 化け物だ!」
「サイッテー」
会話の最中も爆弾の応酬を繰り広げる。
『エクスプロージョン』──半径3mを爆撃する設置型の魔術だ。マリーはマインスイーパーのようにポンポンと爆撃するが、ガングラッゾは一切怯むことはない。
それどころか、自分の能力を見せつけんがために自分から当たりに行っている節さえある。
(ああ、もう。どうすればいいの!)
もうすぐ森を抜ける。そうなれば、マリーの逃走も難しいものとなるだろう。今も森林の戦術的地形を利用して彼の追跡を掻い潜っているのだから。
そこでマリーの頭には一つの可能性がよぎった。
(……待てよ。ガングラッゾは自分の能力に絶対の自信を持っている。それこそ、全ての攻撃を喰らおうとするほどに……最初のアレも、おそらくは対策できなかったんじゃなく、しなかったから……私の驚く顔が見たかったのね。そうか、それなら──)
マリーはそこで踵を返す。一応ガングラッゾも警戒して間合いをとった。
「──ようやく俺と相見える気になったか、魔術使いよ!」
「ええ、そうね……ようやくあんたの攻略法がわかった気がするわ」
「ほう、それは頼もしい。それでは……いざ尋常に、勝負!」
ガングラッゾの巨体が猛然とマリーに迫ってくる。それに一抹の恐怖を感じながらも、彼女は魔術を行使した。
「『シャドウ』」
今度はダークを使わずにシャドウだけを行使した。
木々の影から槍が形成される。それは幾百となって、ガングラッゾの方向に向いた。
そして、放たれる。不可避にして不可防備の影の槍がガングラッゾの『絶対に壊れぬ鎧』を貫通して、彼の体を串刺しにしていく。
「ぬぅっ」
ガングラッゾが呻く。そして、これで終わるマリーではない。
「『ボム』」
瞬間、激しい爆裂音が鳴り響いた。
何度も何度も炸裂する爆撃は連鎖となって確実に対象を滅殺する。『太陽』を焼くという何とも皮肉の効いた光景ではあるが、その威力は甚大であった。それでもガングラッゾは前にと前にと前進してくる。しかし、ダメージは相当のようで、据えた臭いが鼻につく。香ばしく焼けた匂いと混ざり合い、吐き気を催す汚臭となっていた。
死神は、暴走列車のように少女の首を刎ねらんとしてくる。それにマリーは直立して迎えうった。
「うぉおおおおおおおおおおおお!」
マリーは避けない。避ける気がない。迫り来る巨木のようなグレートソードを前にしても一切体を動かさない。ガングラッゾが間合に入る。必死の距離、それはマリーにとっての死刑宣告だった。
──その瞬間までは。
「ぬっ……?」
彼の足がとられる。急に地面に吸い込まれるような感覚に陥り、すぐさま地面が自分の目の前までくる。
そして、その最奥へと落下してしまった。
「──ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
ガングラッゾを襲ったのは濃硫酸であった、それもとびきり強力な。
そこでマリーはほっと息を吐く。計画は成功した。
(落とし穴をつくる『ホール』に光学迷彩を仕込む『ライト』、それに強力な酸を生み出す『アルケミズム』。この三つがなかったら死んでいたわね)
最も、そんなことソロモンの鍵が許しはしないのだが。
「そこで一生苦しんでいなさい」
ガングラッゾの深い慟哭がこだまする。洞穴のような深い深い落とし穴は彼の絶叫を何重にも響かせていた。
水深は10m、体積は30立方メートル。膨大な強酸のプールだ。少なくとも一週間は動けまい。
「殺しても死なないんじゃ殺し続ければいい。明けない夜はないが、貴方に明日は来ないわ。ガングラッゾ」
マリーはすぐに、その場から離れるのであった。
◇
「お母さん!」
「どうしたの、マリー?」
「……よかった」
家に戻ったマリーは膝から崩れ落ちる。
彼女にとって母は弁慶の泣き所なのだ。
あの直感化け物が搦手を使ってこないとも限らない。もしや、自分の母親を拉致し人質にしているのではないかという焦燥に駆られていたが、それは杞憂だったようだ。
母の腕は、やはりしわがれている。雪が積もった枝枝のように、今にも折れてしまいそうなほど撓んでいた。それでもマリーは、それを愛おしそうに握りしめる。一抹の暖かさを取りこぼさないように掌に包み込んだ。
『ソロモンの鍵……言いづらいな。じゃあ、『ソロ』』
『提言:何でしょう、マスター』
『お母さんの病を治すためにはどうすればいい?』
『回答:コールドスリープをお勧めします』
『コールドスリープ……?』
『回答:ユグレッドを睡眠状態にし、低温下で保存することで病の進行を遅らせることができます。その状態でシャンバラまで運送し、シャンバラにてユグレッドの治療法について検索することをお勧めします』
『……分かったわ。やってちょうだい』
すると、彼女の体が一人でに動く。それは『ソロ』がマリーの体を支配している証左だった。
それに息を呑む。自分はどれだけ危険なものに、その身を委ねているのだろうか。
しかし、もはや手遅れである。彼女はソロなしには生きてはいけないのだ。目的を果たすため、母の不治の病を治すためには。
『回答:完了しました』
それは透明な棺桶だった。ガラスのような物質で構成されていて、母そこで眠っている。それに異様なものを覚えるマリーであったが、ここまで来れば引き返しがつかない。
彼女は嘆息しつつ、ソロに状況確認をした。
『……これから、どうするの?』
『回答:これよりシャンバラに移動します』
『どうやって……こんな重いもの、運べるわけないでしょう?』
『提案:外に出てください』
『…………』
マリーはソロの言いなりになることは避けたかったが、ここは従うしかない。彼女が外に出ると、やはりというべきか、右手が勝手に動いた。
「なっ……」
驚愕。そこに現れたのは白い荷台だった。
黒い車輪のついた大きな荷台だ。こんな形、見たことも聞いたこともない。全長4mもあるそれが、どこからともなく一人でに沸いて出たのだ。
『今、何したの?』
『回答:『クリエイト』の魔法を使いました。こちらがマスターの『足』となる車です』
『……車?』
聞き覚えがあるのは一つしかない。
車、やんごとなき身分の人間が使うとされる荷馬車のようなものだ。
『そんなもの、どうして……』
『回答:効率的に旅を補助するのに必要だと判断しました。燃料は既に入れてあります』
『燃料?』
『回答:こちらの車は『トラクター』に該当するものであり、燃料で走ります』
『…………』
何だかよくわからないが、彼女でも使えるとのことで無理やり納得する。
『提案:ユグレッドを荷台に乗せ、『ライト』で車全体を透過しましょう。既に運転に必要な知識はマスターにインストールされています』
『……そうね』
マリーは理解した。それが何物で、どんなもので、どういうふうに扱うのかを。
言われた通り『フライ』の魔術で母親の棺桶を荷台に乗せていく。そして、ライトの魔術で全体に透明化をかけて隠密性を高めた。
『更に『サウンド』で駆動音を消しましょう』
『分かったわ』
言われた通りにすると準備は整った。
「それじゃあ、行こうかしら」
今まで住んでいた街に別れを告げる。彼女に今までの故郷を惜しむ気持ちはなかった。街から一組の母娘が失踪する。それを気にする者もいるだろうが、少しもすればまた変わらぬ日常が流れるだろう。
こうして、マリーの旅路は始まったのである。
「──キヒヒっ!」
そこは工房であった。
フラスコ、ビーカー、試験管、壺、その他諸々が飾られた実験室でもある。
その中でツボに張った水面を除いては景色を眺める一人の魔女がいた。
「イリーナだけでなく、ガングラッゾまで敗れたカ。二人とも面目無いネ! 私ならそんなミス絶対に犯さなイ……」
魔女は高々と腕を上げる。その手はマリーの母ユグレッドと同じく骨のようにしわがれていた。
「待っていろ。ソロモンの鍵……私が必ず手に入れて──神代を、もう一度」
高笑いが工房に響き渡る。それは恐ろしげな魔女のサバトであった。
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