3-21.さよならフリューゲル
ヴァルは確かに見ていた。主と認めた人間の少年が天使を、それも己に並ぶ【原初の楽園】の一人たるフリューゲルを相手に魔法を放ち、その結果、天使が──。
「フリューゲルが……」
最強の悪魔でありながら、思わず畏怖を覚えそうになるほどの圧倒的な魔法。伝説級云々じゃない。あれは確かに、『天使を殺すためだけ』に考えられ鍛え上げられ試行錯誤された魔法だ。
「消えた……?」
ヴァルの言葉を継ぐようにそう言ったのは隣に立つグレイだった。二人の間に立っていたクリスはさすがに大きな魔法を行使し過ぎたのか気絶するように倒れている。グレイはそんな主を支えながら、しかしヴァル同様フリューゲルから目をそらせずにいた。
クリスが放った魔法は、言うなれば小さなブラックホール。弓矢のように狙いを定めてフリューゲルに接近したそれは確かに突然時空に湧いた切断面のような、真横から見れば紙のように薄っぺらい小規模の穴だったのだが、どういうわけか、フリューゲルを吸い込んでしまった。
物理的に考えれば、直径わずか五センチほどの小さな穴に人間の少女のサイズであるフリューゲルが吸い込まれるわけがない。しかし、吸い込み方がおかしかった。フリューゲルの魔法のように『対象を穴に落とす』のであれば分かる。が、この黒い穴は確かに吸い込んだ。どうやってかと問われれば、明確には言えない。『対象を歪めた』としか、形容できないのだ。
フリューゲルはまるで真夏日の陽炎のように姿をゆがませて、蜃気楼のように、フッと吹いたら消えてしまった蝋燭のように、ヴァルたちの目の前から消失した。「嫌よ、こっちへこないで」と言って穴に向けて伸ばした指先から吸い込まれ、ぎゅるぎゅると姿がゆがみ、漏斗に流した液体のように、あるいは竜巻にも似た渦を巻いた。天使とはいえ、姿は人間の少女。さすがのヴァルとグレイも、嬉々としてそれを見る気にはなれなかった。
「恐ろしい魔法だが、我を殺せる威力はない……いや、あくまでも天使に特化した魔法故か。悪魔に使用しても効果は薄いというわけか……」
冷静になろうとヴァルが言う。
「待て、穴が閉じるではないか」
グレイがただでさえ黒い穴がもっと縮みつつあることに気が付いた。フリューゲルを吸い込んで満足したのか、黒い穴は縮小を始める。そして。
しゅん、という擬音語がふさわしいくらい、何事もなかったかのように静かに穴は消えた。完全なる消失だ。もう時空の歪みも何もない。代わりに、穴の消失と同時に、こっちはぴしゃッ、という擬音語がふさわしい勢いある迫力で、穴のあった場所を中心として赤い液体が飛び散った。
「赤……血か?」
グレイにクリスを任せて、静かにヴァルが近寄って確かめた。どこかぬめっている液体。確かに、血だった。ということはつまり、フリューゲルは死亡したと?
「フリューゲルの魔法は、対象を異空間に閉じ込めるものだったな。異空間内部の時間は停止している。しかし、これは……そうか」
「ヴァル、オレにもわかるように説明するのだ」
「つまりだ。クリスが行使したあの魔法、あれは異空間につなげるというと語弊があるのだ」
「異空間ではないというのか?」
ヴァルは困ったように首を傾げた。
「細かい点は我にもわからぬが……。フリューゲルが開く異空間は、確かにそこに『ある』のだ。そうだな、分かりやすく言うと……。うむ、これがいいな」
ヴァルは人差し指を立てて、先生のように話し出す。
「一つの部屋を想像しろ。我らは廊下に立っている。この廊下は、いわば我たちが生きているこの世界だ。廊下に立つフリューゲルは魔法を唱え、部屋の扉を開ける。部屋の中は異空間だ。そこに我やクリスを放り投げ、また扉を閉めてしまう。世界と異空間は再び扉によって隔たれたわけだが、確かに両者とも存在しているのだ。ま、奴の魔法の場合だと、部屋の時間は止まっておるが」
「なるほど。それで、主の魔法は?」
「同じように、我らが生きる世界である廊下と、扉で閉ざされた部屋を想像しろ。ただし、今度の部屋は特殊だ。仕掛け部屋と思うがいい」
「仕掛け部屋?」
「うむ。この部屋の天井は、落下してくるのだ」
「落下……ああ、なるほど。貴様の言いたいことが分かったぞ」
グレイはちょっとだけうんざりしたような顔をした。ヴァルが顎を突き出し、説明を促す。
「つまり、貴様はこう言いたいわけだ。この部屋は、扉が閉じている時だけ天井が落下すると」
ヴァルはそれを聞いて、満足気に頷いた。
「そうだ。廊下に立つクリスは魔法を唱える。すると天井は上がり、扉も開く。そこにフリューゲルを突っ込んで、扉は閉まる。するとどうだ。天井は落ち、中に閉じ込められたフリューゲルは圧死する。そして、閉まりきる前だった扉からは、廊下に向けてフリューゲルの血が少量流れ込むというわけだ」
「フリューゲルの魔法とは違い、主の魔法だと、魔法が発動している時だけそこに部屋が出来る。そういう点において、『異空間を一時的に生み出している』と言えるのだな。なるほど、確かにフリューゲルとは少し異なるらしい……」
二人は頷き、そして沈黙した。仕組みが理解できたからと言って、状況は変わらない。
「さすが主である、と言いたいところだが、これは些か不味いのではないか?」
「うむ。実に不味い。元々敵対している我は別に構わんのだが、【原初の楽園】の一人が人間によって殺されたというのが不味い。格で言えば我と並ぶというのに」
「そもそも、フリューゲルは確かに死んだのだろうな? 主を疑うわけではないが、さすがに【原初の楽園】がこうもあっさりと死ぬなど……信じられん」
フリューゲルは時間稼ぎ程度の魔法を発動することは愚か、命乞いの言葉一つ、恨み言一つ、吐く暇なく消えてしまった。
原初となれば、悪魔にせよ天使にせよ、進化でなれるものではない。最初に生まれた六人だけが成れるものなのだ。一人死ぬだけで、均衡は大きく崩れる。第一、『原初』でも倒せるんだと思われるのも不味い。これまで、彼らは負けなしの、生まれた時からずっと君臨し生き続けている存在だったというのに。
「クリスの魔力量が一気に増大したことといい、急にこんな魔法を行使した……思いついたことといい、何よりも、魔法名に『フリューゲル』とあったことといい、何か裏があるはずだぞ」
「主が起きたら聞かなければならないことが、多いですね……」
グレイは両手で抱えたクリスに向けて優しい、それでいて手のかかる友でも見るような視線を送った。
フギムニはいつの間にか辺りから姿を消していた。
***
それから三十分以上が経過しても、クリスが目を覚ますことはなかった。代わりにやってきたのは、援軍だ。まあ、戦いは全て終わっているが。
森を警戒していたルーグリナ連邦国防衛隊の四名と、学院チームが寄越した追加の防衛隊五名だ。
「バケモノが出たと聞き、ひとまず偵察として我ら五名が来たのだが……」
追加メンバーのリーダーらしい男がヴァルとグレイ、眠るクリスと魔力を漂わせる血溜まりを見つめ、言葉に迷った。
「戦いは終わった。ひとまず、街へ戻るとするぞ。クリスを休ませねば」
ヴァルが黒い魔力をすっかり消して、毅然とした態度で言った。
「先ほど、禍々しい魔力と、何やら大きな魔法が行使された気配がありましたが、アレは一体……?」
エルドッドが聞くが、ヴァルは「説明は後だ」の一点張りで何も教えなかった。ただ、「その血溜まりは跡形もなくしておけ。森の魔物や魔獣たちが舐めて凶暴化するやもしれぬ」とだけ忠告を与える。
グレイがクリスを抱き、ヴァルが防衛隊の者たちと話す。
エルドッド曰く「森の魔物や魔獣たちの遺体が半透明になる現象が多発、何者かが魔力を吸い上げている」という。それはフリューゲルの仕業だ。
援軍曰く「学院の者は街で待機させている」という。早くクリスの無事を伝えてあげたいものだ。
「それにしても、どうしたものか……」
ヴァルは封印から解放されてまだ数年。現代社会には詳しくないが、クリスが不味い立場に置かれていること、もしかすると学院で青春を送ることなどできないかも知れないこと。それくらいは想像できた。
めちゃくちゃに薄っぺらい球形、それでいてどす黒い色しているんです。




