3-18.白の空間に響く声。
何が起こっているのか、全く分からない。ただフリューゲルの裏切りによってヴァルが消えてしまって、フギムニは元の姿に戻った。それだけが、今ここに在る確実なものだ。
「お前……ッ!! 俺たちは戦いに参加しない、そうじゃないのかよッ!!」
戦闘開始時、ヴァルが俺の使い魔だから、フリューゲルもまた自分の守護獣を出す。そうフリューゲルが言ったはずだ。これは使い魔と守護獣の戦いなのだと。マスター同士は見物するのだと。そのくせ不意を突いてヴァルを落とすなんて、卑怯じゃないか!!
「これが、お前たち天使のやることか!! 神の使いが、やることかッ!!」
冒涜などどうだっていい。怒りの鉄槌を喰らおうがどうだっていい。そんなものいくらでも喰らって、かみ砕いてやるんだという怒りの熱だけが俺を突き動かす。喉を伝う鉄の味でさえも、俺を突き動かす原動力だった。
トボトボと歩いて、ヴァルが消えた地点まで行く。地面に指を這わせるが、何か特殊な仕掛けがあるわけじゃない。当然だ、あれは魔法であって、隠し部屋に落ちたんじゃないのだから。
「クソ、クソ、クソッ」
俺らしくない。そんなの分かり切っている。平和を好み、つつましく生きて、弱者を救いたいと願う。それが俺のはずだ。前世から変わらない、俺のはずだ。
でも今ばかりは、己の感情を相手にぶつけ続けていたい。これから先のことなど考えられない。もしかしたら俺が怒鳴ることで、圧倒的強者の天使は今頃街に逃げている仲間にまで手を出そうとするかもしれない。危険はまだ去っていない。俺だってヴァルのマスターとして処されるかもしれない。でも、でも、止まれない時ってのがある。
「ヴァルをどこにやったんだ!!」
走って戻って、おっとりした表情でこちらを眺めて立っているフリューゲルの胸倉を掴む。紳士的ではないと俺を叱る輩なんていないんだ。相手は人間じゃないし、最低最悪の天使なのだし。
「返せよ!! 早く!!」
フリューゲルの白いワンピースにシワが寄る。それでも、力を弱めることはしなかった。小鳥になったフギムニがフリューゲルの手に抱かれながらこちらに攻撃の視線を寄越す。でも怖くない。
そう、怖くなど、ない。
俺は己の死を超越してここに在るのだから。
代わりに怖くなったのは、多分。
──誰かが死んで、俺の前から消えてしまうことだ。
「おい!! 何とか言えよ!!」
唾が飛ぶ勢いで叫ぶ。はあはあと荒い息を吐き、一呼吸とはいかないが、一度言葉を区切った。数秒ののち、フリューゲルは薄い笑みのまま、言った。
「ごめんなさい」
「……は?」
唐突な謝罪の言葉に、頭が混乱する。が、フリューゲルは続ける。
「これでいいかしら?」
「……おちょくってんのかよ」
なおさら怒りが湧いてきた。力の差が違うことは分かっているが、目の前のコイツをタダでは返さないという覚悟が生まれる。
瞼の裏に映る、落ちていく瞬間のヴァルの悟ったような表情。俺は案外、ヴァルのことを、仲間として、使い魔として、友達として、大切に思っていたらしい。現にこんなにも感情の波が止まらないでいる。
「ううん、そんなつもりはないけど……でも、謝罪で足りないなら、何が欲しいの?」
強い風が吹く。フギムニの翼のせいじゃなくて、純粋な突風だ。多くの木々が倒れているが、それでも草木がざわめく音はする。
「私と戦いたい? それとも、ヴァルサルクに会いたい?」
「ヴァルに、会えるのか?」
落とし穴に落ちたのは、俺も一緒だ。ここに来た原因がそれだった。多分高度な座標指定なんかで俺をここに転移させたのだろう。なら、ヴァルだって今頃何処かに落ちているかもしれない。穴が、別の場所に生まれた穴に繋がっているとすれば、希望がある。
「残念だけれど、穴が繋がっているのは真白の空間なの。貴方がここに来たのは、魔法を解除した場合、必ず術者の傍に落とされるという仕組みだから。ヴァルは今も空間に閉じ込められているの」
「なら、さっさと解除しろよ!!」
「嫌よ。だって、せっかく悪魔を倒せたんだもん。神様に捧げなくちゃ。……ああ、でも」
「でも、何だよ」
表情筋は動いていない、何処となく生ぬるさのある笑みのまま。けれど、何となく本能が危険を告げた。胸倉から手を離して数歩後ろに下がる。愛らしい少女は小鳥を撫でながら、そよ風に乗るくらいの優しい声音で言った。
「天使だもの。多少の慈悲は持ち合わせているわ」
背筋が凍るような感覚。すぅっと血の気が引くような。
「永遠なる時間なき国」
気が付いた時にはもう遅い。俺の視界は、白に染め上げられていた。
「さよなら、マスターさん。時間のない世界で、永遠を過ごすのよ」
***
白の世界は、まるで三次元ではなかった。手が動かないし、息も出来ない。脚も動かないし、瞬きも出来ない。一枚絵に閉じ込められたようだ。俺は一ミリも動けない。時間のない世界だ。
当然視線も動けないが、白の世界にはただ一つを除けば物がなかった。
──時計。
恐らくは俺が落とされた時刻で止まっているのだろうそれは、長針も短針も動かないでいる。なるほど、アイツは魔法名を永遠なる時間なき国と言っていたな。ゼロコンマ一秒たりとも動かない時間なき国で、思考だけが動くという永遠がある。最悪だ。口が動かなければ魔法が扱えないし、思考が出来たって身に纏う魔力がない。魔力っていうのは空気みたいで無色無臭だけれど、纏ったり具現化したりする以上は動くものだ。時が止まっているようじゃ、駄目だな。
ああ、クソ。白の空間に来たって、打つ手がないんだ、ヴァルに会えないし、脱出も出来ない。
あの天使許さねえ。次会ったら覚えとけよ、マジで。
怒っているし憎んでいるが、こんな状況だ、最早気力が削がれてきた。
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どれほどの時が経ったか、いや一秒も経っていないんだったな。
とにかく、その時だった。
『目覚めねえのか?』
真白の空間に、声が、響いたのは。




