Kaprica
卯月慧さんとのうちよそコラボ短編になります。
シャープ=リード=ムジーク @ Copyright © 卯月慧 All Rights Reserved.
そこに何か意図があっただろうか。
それとも何か理由があっただろうか。
ともすれば思い出せない。思いついてもいなかったかもしれない。
戦いに身を浸せば、誰しもそこにあるのは単純な意志だ。戦う、それだけに染まり切る。
唐突に耳を打った外套の裾が空を打つ音は羽ばたきの音に似ている。その様は低く地面すれすれを飛んでくる鳥のようにも。
最初に視界に映った瞬間は、騒乱に猛狂った魔物か獣の類かと思った。だが、それは混乱とは程遠い明瞭な意志を持ち、敵と味方の刃の合間を跳ねては突き進んで来た。
黒色の頭巾の陰に目が垣間見えた。人の意思。人が人を殺すと決めた光。
鎧に身を包んだ足元が地面を滑る。迎撃に向けて。
怯えなど見せてはならない。怯むなどもっての他だ。上に立つ者が狼狽えては下に立つ者の戦意に差し障る。
威と風を吹かせ堂として立っていなければならない。
黒の旋風の乱入に乱れた陣に号を飛ばすより先に、構えていた戦斧槍の穂先を構え突く。黒は跳ね上がる。刃の上を飛び越えて、そのまま振り被られる刃の色は黒だった。首を狙った黒刃に戦斧槍が捻り上げられ、その柄が受けた剣戟が高らかに歓声を上げた。押し返せば、簡単に黒刃は翻った。一瞬の力比べで重量と膂力は斧が勝ち。押された力と合わせて引く際に黒の切っ先が顎下から迫るを顔を反らし――深青の目は黒から反らさずに――鼻先に細い冷たい風を受けながら避けた先で、くるりと躰を捻って黒は低く着地した。その口元が笑っているのが見えた。
そして、自分も同じく笑っているのも感じている。
溢れた言葉は偽り無く本心だった。
「面白ェ」
つまらないと思っていた。早く帰りたいと思っていた。投げ出すつもりはさらさらなかったものの退屈を感じていた事実を覆せる好機に笑みは止められない。戦いたい。単純なる欲求。
構え直すのに振り回した戦斧槍が風塵を巻き上げる。
宣戦布告とするならば名乗りを上げるのが礼儀とも。己の名が力となることも知っている。味方を鼓舞し、敵を畏怖させる力を持つものだ。だからこそ、誰に後ろ指をさされようとも自ずからさした指を折る姿勢で言い放つ。
「オレがムジーク王国騎士団長シャープ=リード=ムジークと知っての暴挙なンだろうな?」
自身の長身を超える戦斧槍が吹かせた風がその紫の髪を揺らす。
注目が風となったように、斜陽の中、肩に止められた赤布が長くはためくは王者の風格。最も当の本人にそんな気は毛頭なく、状況と立場が許すならいとも容易く放棄する程度の執着しかない。
部下の戦意の高揚とて肌に感じる。だから団長として、部下に命じる。立ち止まる敵と味方を睥睨し、味方に告げる。
「お前ら! 呆っとしてんじゃねェ! ムジーク王国騎士団の名前に泥塗る気か! とっととンな盗賊団、叩っ潰して王都に帰ンぞ!」
長の声に部下が応と是と声を上げては目の前の敵に向かい討つ。その背を頼もしく眺めてシャープは満足げに頷いた。誰一人振り返らない。自身に対する信頼の顕れだ。団長は誰にも負けないという信頼を裏切る弱気など湧いては来ない。
黒の口が短く笛を吹いた。称賛、嘲弄、誘起、どれとも取れてどれとも取れない。だが、同意と聞こえたのは間違いないだろう。引く気は見て取れない。
黒の口は笑ったまま――自分と似たような笑みのまま――自分の部下たちを眺めている。戦いの場において、敵から目を反らす愚を騎士団長は笑う。構える、突き出す、予想した通りに黒は横に飛んで逃げた。
「良い軍だ」
黒が言った。誂う声に聞こえたが、称賛の一欠片くらいは聞き拾えた。敵を認めた声にも聞こえる。全てを片付ける戦術と戦法を鑑みている態度にも。
シャープは口の端を釣り上げる。
「名乗りもなしか」
「さて」黒の肩が動いた。外套の下、肩を竦めたらしかった「あんたと似た奴らには何と言ったんだったかな」
まあ、いいさ。黒は言葉の終わりをそう呟いた。
と同時、再度踏み込まれたその足元にシャープは穂先を薙ぎ払う。また躱されるだろうと思った通りに黒は背が触れそうな近距離でもって刃の上を横に倒した躰ですり抜ける。間違えれば深く打たれるか切り裂かれるかの刹那を越えて、捻られた足は地を蹴りつけ、飛び込んでくる黒を(待ってたぜ)シャープは戦斧槍の柄を持つ手を持ち変える。流した刃はそのままに流し、遠心力に更に力を込めて円を描かせる。外套の陰に覗く方の黒の目が見開かれたのが見えた。シャープの意図を見逃したことに黒が気づいたことに、シャープも気づくが、既に遅いと笑い返し――笑い返された。槍尻は黒の刃に受け止められる。シャープはそのまま吹っ飛ばすつもりだった。思いの他に踏み留まった黒の靴裏が一撃の重量に地面を抉り、滑った。だが剣は止めた。
(力比べなら――)
シャープはさらに力を込める。
だが黒の口は笑ったまま。重量を増す槍に押されながら、空いていた手が突き出してきたのは、逆手に握った剣。
(もう一本――!)
先に気づくべきだった。シャープは己を叱咤する。手数を読み違えるなど。だが、負ける訳にはいきはしない。
約束は、決意は、この血と魂を賭した契約は、こんなところで挫けはしない。
「おおおっ!」
シャープが怒号を上げた。力の限り、足元が沈む程に、戦斧に込める力を更に、更に、今出せるだけの力を込めて、薙ぎ払う。
膂力だけならば自分の方が上。その確信は証明となる。戦斧槍は、一度は受け止めた黒剣を、持ち主ごと薙ぎ払った。
けれども負傷は与えきれない。シャープは息を整えつつ、距離を取るのに自身の力を利用されたことに舌打ちをした。戦斧槍の間合いの外側に逃げた黒は額を、剣を持ったまま親指で撫ぜ、ついた赤を見ては呆れた声を零した。
「■■■■」
聞き慣れない音韻にシャープは目を細める。意味は解らなかったが、多分――まじかよ、そんなところ。だが、態度は愉しんでいるようにしか見えない。
掠めただけか、シャープも笑ったままだったが、同じく額から落ちるものに視線と笑みが奪われた。夕日を受けて落ちた額当て。
「まじかよ」
脳に残っていた印象から、そんな声がシャープの口からも漏れた。防具のお陰で傷こそなかったものの攻撃を受けていた事には気づいていなかった。驚き。同時に湧き上がる欲求、高揚。戦いたい。勝ちたい。ねじ伏せたい。いや、そんなものはどうでもいい。単純に戦いたい。戦って、戦って――より強く。
何人も王にたどり着けぬ、絶対の矛にして盾として敵前に在り塞がり続ける為に。後ろに立つ者に一つとして傷をつけぬ為に。
自軍の勝ちに傾く戦況とて目に入らず、シャープは口の端を釣り上げた。戦いに望む紫狼の二つ名に相応しく、爛々と輝かせた瞳。
涼しげな態度で黒はそれを見返しては、頭巾を跳ね上げた。黒い髪、黒い目が一つだけ、片方は眼帯に覆われて、笑う口の端を額から流れた血が流れ落ちて行った。思ったより若いという印象を胸に、シャープとて笑う。
「片目でやるじゃねェか」
「おれからすれば、二つも必要あるのかと思うがね」
黒の手の甲が血を拭う。伸びた赤は歪な戦化粧のようだった。
シャープが言う「お前も盗賊の仲間か?」
「いいや」何の話だと言う黒の声。少しばかり首を傾げて、少しばかり肩を竦めて「だが、お前らに関係ないだろう」両手に下げた剣を握り直した。
シャープは眉間に皺を寄せた。国境遠征の帰り道。護衛の任のその一部。伸びた遠征の行軍に離れた商隊を狙って飛び出した盗賊への迎撃戦。ここに飛び込んで来たのだから当然、盗賊の仲間だと思ったが、違うと言われては矛先を向ける相手を間違っているのではないのかと一抹の疑問が湧き出るも、次なる攻撃の気配に掻き消えた。
引く気配がないのであれば、迎え撃つ他がない。シャープの思考回路は戦闘へと一筋のずれもなく一直線に引き結ばれる。戦う。一点に特化し、集中し、最善化されていく神経にざわつく筋肉繊維は張り詰められた弓の弦の様、脳底は風に揺れぬ凪のごとき静謐さ。
平静な水面に落とされた礫はどちらが先に放ったものだったか。
そんな些事は互いの頭のどこにもない。
一点に向かい放たれた矢のごときが互いの一撃。
身の長さから先に敵に辿り着いたのは槍先。黒曲刃が打ち付けられ、わずかに逸らされた角度に黒は滑り込むも、次なる黒刃が迫りくる。槍の間合い、その内側へ進み来る黒。槍を持つ手が一本、得物を離す。片手で槍を掴み、引き戻すと同時、掲げられた腕・篭手は打ち付けられた刃を止め、押し下げる。力押す。両剣を止められた黒は背を仰け反らせた。(何を)ここから(逃げる気か)するつもりか、顎先に風を感じた。躰を後ろに倒して跳ね上げられた黒の爪先。シャープは思う。全力で踏み留まってしまった。渾身の体勢で受け止めてしまった。(躱しきれねェ)眼球だけ下ろした視界。爪先、長靴の底、仕込まれた刃が深青の瞳に映る。刃を顎下に食らって生きていられるものか。冷めた頭はそう判断している。引け。抑えたつもりで抑えられているのは自分だ。槍を戻すには足りない。腕を戻すにも時間がない。精霊への詠唱など到底間に合わない。それよりも先に刃を食わせた蹴りは喉から顎下を切り裂いていくだろう。あるいはこの身を鞘と突き刺さり引き抜かれるだろう。
こんなところで。漠然とした驚愕のようなもの。盾としてあるべきではなかった。矛としてあるべきだった。後悔とも呼べない何か。
時の精霊の力を借りてしまったかと錯覚する程に、ひどくゆっくり世界が流れていく。
垣間見えた黒の目に何かの感情は拾えなかった。目の前にある風景をただただ写すだけの黒。人を殺すことに何の躊躇いもない。そこらの石を蹴飛ばすような感覚が見えた。
日が暮れて夜が来るのを眺めるようだ。
斜陽は夜へと襷を投げていく途中。開けた街道に夜が流し込まれていく。遠く光りだした迷い星。焦れったいと思う程に時間は緩慢に流れていく。思い出すべきことは何か、それを問うようだ。
シャープは苦笑した。そして獰猛に笑い返す。こんなところで死んでやるものか。こんなところで約束を終わりにしてやるものか。こんな程度でこの胸の確約を切り裂けると思うなよ。
そうと来るものがあるのならば、
そんなもの、噛み砕いてくれる。
向かい来る小刃に笑い返し、獲物を狙う狼のごとくに顎を広げた。
鉄の味。血の味は鉄の味に似ているとよく言うよな、と思いながら、蹴り上げられた刃を歯で噛み止め、睨みつければ黒は微笑ったようだった。刃の乗った足に力が加わる。外に流れる力の気配にシャープは思い切り歯を食い縛った。逃しては次が来る。待たない。己は盾である。同時に矛である。最強の盾にして最強の矛。成り立たない二本軸をこの身に貫く。槍を離していた腕を戻す次いでに黒刃の一本を弾いた。固定と固定の間で捻られた、シャープが咥えていた刃が折れる小さな高い音が風に攫われる中、
「ははっ」
黒が上げた笑声が、シャープの振り上げた戦斧槍の巻き起こす風圧が被さった。
刃を見捨てた黒の躰が捻られて、地に足裏を着けた勢いそのままに跳ね返る。双剣は敵の血を吸うのを諦めていない。
黒の形は人のものにしか見えないが、シャープの中に第一印象が蘇る――騒乱に猛狂った魔物か獣の類かと――迎え撃つべく切っ先を突き上げ覚えたのは後悔。避けると躱しに来ると思った己の逡巡すら、黒が武器として使ったと気づいた時には既に遅い。己の刃が人の肉を切り裂く時を見届ける他なく、シャープの瞼は割けそうな程に見開かれる。噛み締めていたのを忘れた奥歯とて綻んで、咥えたままだった刃が落ちていくのにも気づかない。
その間を、黒は逃げもしない。その先を待つ目だ。
見透かされたとシャープは戦慄を覚える。人を殺し、他者を傷つけることを忌む自身の気持ちを、その先に待つ衝撃を、それすら黒は武器として使うのか――
それは静かな音だった。
滑らかに流れ込んだ白色が立てた音。ふわりと舞い上がる旅外套の裾はシャープの鼻先を撫でるように翻って、突き出したシャープの槍の先の向こう――目の前に光る銀色にシャープは瞬きを忘れたままだった。強度を失わない薄さの真っ直ぐな剣――その腹が黒の腹を強か打っては叩き飛ばした。
白の刃に似た横顔にもシャープは驚いたままだった。自分の髪の色に似た瞳が、黒よりも冷めた温度でシャープを眺めては、剣を収めた。
戦意はないと告げる動作は整って見えた。
「次は斬るからな」
白外套から溢れる声とて、誰ぞが整え設えたような響きで、叩き落とした黒へと告げられた。
転がり、咳き込んだ、濁った声で、飲み込みきれなかった唾液と共に、
「■■■――何だよ……行けたろう、今のは」
黒が零した。
白は涼やかに見下ろしたままだ。
「どうかな。この騎士団長殿を見捨てて逃げる部下が居ると思うのか? 博打はここが打ち止めだ」
白に黒は舌打ちをしたが、否があるようには見えなかった。
「さて、話はまだ可能か?」
白が問うた。
シャープは突然現れた白を凝視する。頭巾のせいで顔がよく見えない。顔を見せない相手を信用して問題ないだろうか? シャープの怪訝を読み取ったように、一つ嘆息してから白はその頭巾を落とした。現れたのも白だった。真っ白い髪に見慣れないことはないが、他国の人間には珍しい色だったと思い返す。同じく白い肌と整った顔立ち。鼻先の傷跡が精悍さを湛え、シャープの目には武人と映る。年のくらいは自分とさして変わらないだろうか?
白は言う。
「戦意はない。だが今更、信用しろというのも酷な話か」
シャープはどうしたものかと考える次いでに、戦斧槍を戻す。近場に突き立てて、腕を組む。辺りを見渡せば、戦天秤は既に自軍に傾いていた。部下はちらりちらりととこちらを見て来るも、シャープは掌を振った――さっさとそっちを終わらしちまいな。
「こいつらの」倒され捕縛されていく盗賊たちを眺め見てから、シャープは白に視線を戻した「仲間じゃねェってんだろうな?」
「そうだ。と言って信用が得られるともわからんが、事実だな」
「じゃァ、なンで、飛びかかってくンだよ?」
白は肩を竦めた。それが全ての答えだとでも言うように。
立ち上がった黒に突きつけられたシャープの視線は鋭く剣呑だったが、黒に気にした様子はない。というより、強か打たれた肉の方が気になるか。脇腹を抑える手にシャープは思うも、
「あんたが一番、強い。この中で」
黒が吐いた言葉にシャープの眉間に皺が寄った。それは白とて同じだった。
諦めた様子で白が息を鼻から吹いては、
「■■■■」
黒の零した声を涼しげに聞き流している。やり取りから既知だろうとシャープにも知れた。
「お前が悪い」
白は言った。黒の人を殺せそうな視線とて気にせずに。
シャープは腕組みをしたまま二色を眺め見る。
黒がこちらに向けてきていた先の殺意はとうに見当たらない。続きを望めば返してくるだろうが、それもどうかと騎士団長としての身が腕を組ませたままだった。
「何なンだ、お前ら?」
「護衛だな。ああ、もしよければ手を貸して貰えるとありがたい」
白の回答にシャープは目を瞬いた。
行列から少し外れた場所で泥濘に取られた馬車の車輪を拘泥から押し出した後、部下を連れてきていたのだから何も自分まで手伝うことはなかったな、と思うシャープだったが、行商人に礼を言われれば悪い気はしない。
隊列から外れた場所、それも違う方向から来たのだから気づくのが遅れたのは仕方がないとは言われればその通りだと思うこともできたが、忸怩たる思いは消えない。もっと早くに気づくべきだった、という思いが故に。王の剣であり盾である自負。自身に課した、弱き者を助ける騎士の自分は是非もなしとは言わなかった。
手についた埃も汚れも大してなかったが打ち払う。悔やむのは主義ではない。ならば次はどうするかを考える。索敵に裂く人員を増やすなり、隊列が伸びたなら帰都が遅れようと全体を見渡せるまで待つべきだ。行程の見直しの面倒臭さに口の端は下がったが、なかったことにできもしない。
この行商人とて向かう先が同じであるのならば、守るべき者に何の違いもないのだから。
シャープはそんなことを考えながら、鼻から息を吹き出した。
乗ってきた愛馬の鐙に足を掛け、鞍に腰を下ろす。手綱を手に取り、殿を進む。部下たちも同じように隊列に戻ろうと動いているのを視野に入れて、辺りを見渡した。夜の帳は既に辺りを包み込む。先の隊列には近場で待つように指示してあるが、この辺りで夜を明かすことになるだろう。帰都にかかる日数を計算しては舌打ちが零れそうになる。とっとと王宮に戻りたい。護るべき者の傍らに居たい。そう思うが――
見つけた夜に溶けるような影法師に馬脚を寄せた。
向かう自分に気づいていないのか、振り向かない背にシャープは声を投げる。
「よう」
ちらと上げられた頭巾の影の顎。こちらを見止めたと告げる以上の意味はない。何の興味もないと伝えてくる態度に感じるのは新鮮さだった。自分に接してくる誰もがそんな態度を見せることは基本的にはなかったから。王弟殿下として、騎士団長として敬意を持って接してくるのが基本だった。裏にやっかみや妬みもあるだろうが、どうしようもないことだとシャープは気にしないことにしていた。この立場は自身の努力で手にしたものだが、身分はどうしようもない。何も選んで生まれてきたわけではないのだから。
「なんだよ」
去らない自分にしびれを切らしたのか、黒が言った。そんな口調で話しかけられるのも新鮮である。同時に気兼ねも鱗と落とした。
「護衛ねェ」
思わず口を突いて出たシャープの言葉に、黒は興味のない平坦な口調を返した。
「まったくだ。傭兵の方が性に合う。まだ」
「つったって、お前、他人の指示に従えンのかよ」
シャープの軽口は笑い声となって出た。
黒の舌打ちは肯定と変わらない「気が向けばな」
気が向かなければ従わない兵など使いにくいことこの上ない。シャープは苦笑して、辺りを見渡した。
「あの白い兄ちゃんは?」
「商人と話している。ここで終いだって話だ」
「護衛のか? 良いのか? まだ王都まで結構、距離あンぞ?」
そう言えば、馬脚の高低を黒が見上げてきた。疑問。
「雇う方が要らんと言うのだから、要らんのだろう。あんたらが居る。おれらは不要だ。もう」
下ろされた顔は見えない。
「まあ、そりゃなァ」
自負と自信はそんな声になったが、人手は多い方が良い――
「嫌だね。あんたは人使いが荒そうだ」
先に黒に言われては、シャープは小さく声を零して笑った。確かに面倒な雑務は部下に投げがちの自覚はある(始末書とか、面倒臭ェのは)が、それを頼む気はない。見透かされたと笑っていれば、黒の肩に乗る白に気づく。赤子の域は抜けたろうが、まだ若く、幼さの殻は尻から剥がれきっていない猫。笑うように見上げてきては、その顔も下ろされた。器用に黒の頭から頭巾を落としては潜り込む。身じろぎする様を見ているとそこで寝るつもりのようだった。
いつものことなのだろう。黒に何も動じるところはない。似合いのような不似合いような組み合わせだったが、シャープとて気にしない。巨躯の飛竜を従える妹に比べれば可愛らしいものだ。
「けどよ、ここで終わりっちゃ、稼ぎが減るんじゃないのか?」
「気にする程のことでもない。端から大した額でもない。おれはどうでもいい」
護衛の料金がどれほどの額なのか、シャープには目星が着かなかった。
が、当の本人がそう言うのならばそうなのだろうと納得するも、金は大事だとも思う。人を動かすのに必要だ。人の時間を買うのだから。白が戻ってこないところを見ると、交渉をしているのだろうと窺い知れた。少しでも安くしたい側と、少しでも高くしたい側の落とし際が決まらないのだ。
「そいや、額ンとこと――」シャープは足を跳ね上げて馬を降りる。視線の高さは自分の方が高い。少しばかり見下ろす角度で黒に問う「――大丈夫か?」
黒が口に溜めた間は忘れていた事を思い出す時だった。
「別に。何ともない」
歪な戦化粧に見えた血の痕はもうなかった。思い出したら痒くなったのか掻かれた黒髪の合間に張った白が見えたが、もうそれで終わりだったのだろう。それより気になったのは腹だった。吹き飛ぶくらい打たれたなら――
「まだ痛ぇーよ」
黒が吐き捨てて、シャープはその憮然極まりなさに吹き出した。
「けどよ、あれがなかったら、お前、あのまま突っ込む気だったろ」
「そうしたならば、あんたは止まっただろう」
だからどうしたと黒が言うのに、何と言ったものかシャープは頬を掻いた。そうだろうと思うも、正しいとは言えない。思えない。腑に落ちない。
黒の視線が自分に向けられて、額当てのなくなった前髪をシャープは掻き上げた。こちらは掠っていないのだと見せつけるようになったなと行動してから思ったが、黒は嫌味と取らなかった。
「行けると思ったんだがな」
黒の感想はそんなものだった。次を考える視線だった。次に戦う時はもっと深く踏み込むと考えているのが手に取れる。
「お前が両目だったらやばかったかも知れねェな」
もしも両目だったなら――今頃になってシャープは冷や汗を覚えるようだった――額当てを割った一撃で頭を割られていたかも知れない。少なくとも黒より額を切り裂かれただろう。わずかに距離を読み違ったのだと今にして知った。厄介な敵だ。それでも味方であるなら悪くないと思う。ああも肉薄してくる相手は久しぶりだ。騎士道とは全く異なるが、素直に思う。称賛したところで相手に響くものがなく感じられたので口にはしなかった。あんな戦い方を仕掛けてくる相手を想定した訓練を考えなければ。戦いに取る手をどんな手でも卑怯と呼ぶ気はない。命を賭けて攻めて来る相手、命を賭けて護る我ら――綺麗事など平時の冗談にもならない。盾は後ろに護るべき者がいるからこそ倒れられない。ただ倒れては後ろにいる者も道連れだ。護る為の努力はいくらしても、し足りない。
「手が空いたンなら、少し付き合わねェか? 金は出すぜ」
「嫌だね。おれはあんたに剣を向けた。あんたの部下が気に入らんだろう。悪くない。ここで抜けるのは。やる気にはならんね、統制の取れた軍と。どうせ最期に負けるのはおれだ」
鼻先を寄せてくる愛馬の首を撫でながらシャープは笑った。
「分かってンのに、オレに突っかかって来たのかよ?」
「一番の上の首を落とすのが速い。軍とやるなら。指揮官が死ねばただの数だ。後は減らすだけだ」
それで終わりかと思わせた黒の言葉だったが、何を思い出したのか、一つ首を傾げて口の中で転がされた言葉は――おれは説明が足りないんだったか――続ける。
「あんたを潰せば、後はどうとでもなる。おれが動ける内にもう少し数を減らしとくさ。良い軍だ。それはあんたがいるからだ。だから、あんたがいなくなれば脆い。感情的になった足元を掬ってやればいい。おれが半分も穫れば、残りはあいつで余る。目的は護衛だ。支障はない。二つある駒の一つ、欠けたところで」
何でもない世間話の口調で己の死を駒と言い切る黒に、閉口してからシャープは探し拾えた言葉を口にする。
「あァ? オレの部下を舐めんじゃねェぞ? 誰が鍛えてンだと思ってンだ」
鼻を鳴らしたシャープを黒は鼻で笑った。
「かも知らんな」
「そもそも盗賊を追っ払うってんなら、先にオレらに助け、求めればいいだろ。あの白い兄ちゃんみたいによ?」
「軍も盗賊も変わらんと思ってたからな。どちらも敵に数えた」
「あ? 全然違うだろ」
「変わらん。どちらも武力で略奪に来る」
「はァん」シャープは合点がいったとそんな声を上げた。と同時に、呆れるとも称賛ともどちらともつかない気持ちになった。行軍の狂乱でそう言った行為に出る者が出るのも軍というより(武装集団の性だわな)。自軍にそんな暴挙を許す気は毛頭の欠片とてありはしない。どこまで抑制できるかはその場にならなければ判らない。
が、シャープの中にある部下を信じる気持ちは揺らがなかった。
「で、突っ込んできたのか。盗賊の方は良かったのか?」
「あいつで足りる」
白に任せて自分は突っ込んできたのかと思えば、シャープの口の端は下がる暇がない。そんな特攻、自分の専売特許だと思うところがあればこそ。
あんたが一番強いから――それだけの理由で白を放って突っ込んできたのなら、同情すべきは白の方か。シャープは笑う。どこかで見たような気がする顔だ。上のきょうだいの話を聞かない下のきょうだいの顔を見るようだ。あるいはその逆を。自身の下のきょうだいの誰かと同じくらいだろうと黒を見て思う。
「盗賊と同じってンなら、そんな軍に任せて仕事放り出していいのか? オレらが略奪するとは考えねェのか?」
「先はそう思ってたが、今は思わない。あんたらはしないだろ。したらあんたが怒る」
「そりゃ、怒るけどよ。わからねェだろ。オレの目がねェとこじゃァよ?」
「あんたは尊敬されているだろう」
黒の言いにシャープは面食らう。気にすることなく――視界に入れることなく黒は続ける。
「せんよ、あんたの部下は。そんなことは。あんたを失望させる」
得意げに鼻を鳴らしたのは愛馬だった。苦笑するシャープの横の鼻先に黒が手を伸ばして軽く叩いていった。人が人にするのなら、わかっている、とでも言うような動作に見えた。
「そいや、お前、名前は?」
シャープの問いに黒は答えなかった。先にかかった声に意識を引きずられたから。
白の声が言う音がこれの名だったのだろう。似合いだと思った。まさに、とも思う辺り、あるいは渾名なのかとも。
呼ぶ声に、悪態を交えてから黒はそちらに足を投げ出し、振り向きもしない。
もうこちらのことなど居ないものとした背にシャープは笑い、鐙に足を掛けた。鞍に跨り手綱を取り、愛馬の首筋を撫でた。戻ろう、と。
馬脚を進める先に自分を待つ、自慢の部下たちの顔が見えた。
シャープは馬の腹を蹴り、速度を上げさせた。
戻るべき場所へ、
居るべき場所へと。