ガンジー① ~ミックスカリー~
4月の後半、GW前の暑い休日のお話です。
土曜日の私の心は朝から浮足立って、新宿駅に着くなり早足でホームから階段へと、階段から改札へと、改札から地上へと私の体をせかせかと動かした。
それもその前日の金曜日に、新しい出向先で出会った中年の男性社員と美味しいカレー屋の話で盛り上がっていると、「そういえばカプサイシン君は『ガンジー』に行ったことはある? そうか、ないのか。あそこは私の学生時代からずっとあるカレー屋でね、とにかくビーフカレーが美味しいんだよ。カレー好きなら一度は行ってみるといいよ」と教えていただいたのが原因だった。
そんな話を聞いてしまえばすぐにでも行きたくなってしまうのが私、しかし生憎とその日の夜は出向先での歓迎会があり、焼き肉屋での夕食であった(しかしその焼き肉屋にも食べ放題メニューとしてカレーが置いてあり、私はしっかりと堪能していた)。
そのため翌日の土曜日、私は心の赴くままに体を任せて新宿へとやってきていた。
時刻は11時20分、私は新宿三丁目にある古いビルの細い階段の先の2階にひっそりと店を構える『ガンジー』の前に到着する。
人気店と聞いていたので、外にすでに行列ができているかと思いきや、11時半の開店を待っていたのは初老の男性1人のみ。2階の入り口手前に置かれている丸椅子に腰かけて待っている。私もそれに倣い、隣の丸椅子に座った。
11時半になると店員が外に出てきて、大きな置き看板を2人掛かりで1階へと降ろし、それから店の小さな掛け看板を『CLOSE』から『OPEN』へとひっくり返した。
「どうぞ」
その声に従って初老の男性が先に、私がその後に続いて店内へと足を踏み入れる。
そこはモダンな雰囲気のジャズバーといった風情の店だった。
ピアノの不規則な音がBGMとして流れており、私には素養が無いので分からないが、恐らく音楽界では有名なのであろう人物の写真などが飾られている。
店内の作りも、バーカウンターに椅子が5~6脚、テーブル席がいくつか、後は窓下に設置された長い1枚の木のテーブルに面した1人席が並べられているといった小ぢんまりとしたものだった。
「窓側の席にどうぞ」
促されるままに初老の男性は窓側の右奥へ、私は左奥へと入っていく。
テーブルに置かれていた黄色のメニュー表をを見ると、ビーフカレーがやはり一番目を引いたが、もう1つ気になるものがあった。
『ミックスカリー』。
これはカレーの中にエビ・スライストマト・肉、全てが入っているというのだ。とても、気になる。
男性社員に勧められていたのはビーフカレーだったが、しかしどうしても『ミックスカリー』に目を奪われた私はとうとう「ミックスカリーを下さい。チーズトッピングで。あとチーズは別皿で下さい」と初めて来たにも関わらず何やら手慣れた風に注文をした。
その注文を終えてから私は1人無言で満ち足りた時間を過ごす。
私はカレーの出来上がりを待っている時間がとても好きだ。
これから自分の好きなものがやってくるという高揚感を心に、私は窓から向かいの薬局で働く人々を見下ろしていた。初老の男性に目をやると、同じく注文を終えてボーっとしている様子だ。同志だろうか。
そうやって新宿の慌ただしい人々の動きや店内の観察をしていると、それほど注文から時間の経過もなく店員がカレーを運んで来てくれた。
「お待たせいたしました。ミックスカリーです」
私の目の前に置かれるミックスカリー。
鉄製のソースポットはよく見かける魔法のランプのような形ではなく円柱型の底が深いものであり、半分ソースに腰を浸からせた半月型のスライストマトがソースポットの縁にもたれ掛るようにして立っていた。
黒に近い深い茶色をしたソースからは湯気が立ち昇り、一緒に香辛料のスパイシーな、それでいて甘さを含む香りを私の方へと漂わせてくる。
白飯は平皿に薄く盛られており、白飯の右下の方に真四角のスライスチーズがペタリと貼られていた。
パシャリとスマホで1枚写真を撮り、至福の時が始まる。
早速私はトロトロのソースのみを口に運ぶ。
そして一番最初に感じたのはしょっぱさでも甘さでも辛さでもなく、酸っぱさだった。
私は「ん?」と首を傾げながら、もう1口食べる。やはり酸っぱい、しかしただの酸っぱさではない。
例えるならバルサミコのような穀物のコクが溢れる酸味で、よくよく鼻に息を通して味わってみると甘い香りが抜けていった。
私は、「おそらくこのソースは果物や野菜を、クローブやオールスパイスなどといった甘い香りが特徴の香辛料と一緒に原型が無くなるまで煮込んだものなのだろう」と考え、もう1口啜るとやはりそのように思えてきた。
それから今度は白飯にソースを掛けて食べ始める。途中、チーズと混ぜたり、トマトをかじったり、カレールーの中に沈んでいたエビや肉を掬ったりして、米とソースのみではない食感に口を楽しませた。
トマトはフレッシュで、エビはプリプリ、肉はジューシーと素材に力を入れているのが分かる味わいで、私はそのどれもに深い満足を得た。
気付くと米もソースも無くなって、いつの間にか私の腹は満たされていた。
最初の1口で素直に「美味しい」と思えなかったのはその際立った酸っぱさ故にだったが、しかし体に嬉しいような酸っぱさは私の食欲を旺盛にさせ、次から次へと無心でスプーンを口に運ばせて、全て平らげてしまっていたのだ。
ダラダラと汗が止まらない。ここのカレーはベーシックなものがすでに辛口らしく、辛さに注文は付けていなかったにもかかわらず、舌はヒリヒリと水を欲していた。
手持ちのハンカチに首に浮いた汗を吸わせている間に、これまたいつの間にかその存在を忘れてしまっていた初老の男性の方へ目を向けると、彼もまた周りの些事など視界に入らぬとばかりにミックスカリーを無心で頬張っている。私もあの様だったのだろう。
私は水を飲んでなお残る、辛いような、酸っぱいような、甘いような後味に心地よさを感じながら、初老の男性とカレー皿をその店に残してお会計をし、「ごちそうさまでした」と店を後にする。
階段を下りて外に出ると日が元気に照っていた。
時刻は11時50分。
汗をかいた首元を撫でる風は涼やかで、初夏の訪れを私に感じさせた。
お読みいただきありがとうございます。
ガンジー、とても美味しかったです。
スパイシーな酸っぱさがクセになります。