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神皇歴五百二年、十二月三日。
この日、大陸全土を手中に治めている帝国の長子である皇太子の婚姻相手を最終的に決めるための茶会が盛大に開かれていた。出席しているのは大半が妙齢の娘を連れ添った高位貴族ばかり。アハハ、ウフフと笑い合いはするものの、水面下では牽制につぐ牽制が激しく繰り広げられていた。
そんな中、一人の娘だけは中央に座る皇太子に目もくれず、ただただ目の前に出された茶菓子に夢中になっていた。
一口サイズの酥と呼ばれる菓子で、さすがは皇帝一家に献上される菓子。見た目にも相当こだわっている。その娘がジィっと見ていたのは桃の花をイメージしたのだろう桃色の生地に白餡が包まれた可愛らしい酥である。
気持ちよくスヤスヤと寝ていたところを叩き起こされた上、両親や使用人一同にめかしこまれ、あれでもないこれでもないと着せ替え人形さながら飾り付けられたかいがあったというものだ。
(東京の麻布、横浜の中華街にもあったけど、やっぱり本物は違うわね。さてさて、お味の方はぁっと)
もう今は亡き前世の自分の経験を思い返し、酥を頬張るために口を開けた娘こそ編集の仕事をしていた小山内美琴自身である。
なんの因果か中華系の世界に記憶を持ったまま高位貴族の令嬢として生まれ変わってしまった彼女は最初こそ混乱を極めたものの、適応能力が高かったためにすぐさま順応した。決して使用人さん達が作ってくれるごはんが美味しかったからとかいう単純な理由だけではない、決してだ。
(……んっんー。おいしぃー)
生地自体はパリッとしていて、餡にはしっとりとした上品な甘さがある。見た目も味も人を楽しませるには十分事足りるものだった。
そんな酥を十分に堪能していたものだから、真反対から届けられる厳しい視線には全くきづいていなかった。ある意味幸せ者である。
「ねぇ、聞いてるの? それとも、君のその頭についてる耳は飾りなの?」
「へ?」
良く通る若い男の声がようやく彼女の耳に届いた時には、時すでに遅し。皆が彼女に注目していた。
そろそろと手にしていた食べかけの酥を置……こうと思ったけど、やっぱりどうせならと最後まで頬張った。後に彼女が語るには、だってもったいなかったんだもんと証言しており、これに関しては情状酌量が求められた。反省はしているが、後悔はしていない、とも。
「君、よくのこのことこの場に姿を見せられたね」
「な、なんのことでしょう?」
さすがに自分に声をかけてくる男が皇太子であるということには気づいていた。気づいたうえでの早食いという行動だ。それほどまでにこの菓子は魅力的だった。
それに、だ。皇太子から言われた言葉の意味が分からない。確かに前回の酒宴の時に一人で料理人達の元へ行って料理談義をしていたこともあった。その前は旅芸人の話に夢中になって茶会をすっぽかしたこともある。その前は……といった具合で、ただそれも大勢いる中の一令嬢のすること。気にも留められていないだろうとタカをくくっていたけれど、違ったんだろうか。
「前回の酒宴の時に、彼女に毒を盛ったのは君なんだろう? 銀杯で確かめていたから辛うじてそれを口にせずにすんだから良かったものを」
「えっ!? ちょっとお待ちください! 誤解です!」
「誤解? それは随分と幼稚な言い訳だね。もう少しマシな話を考えればいいのに。ほら、君がよく通った旅芸人の一座みたいに、さ」
皇太子の目が薄く細められた。まるで獲物を仕留めにかかる前の猛禽類を思わせるソレに、美琴――今の名は紅華――は身を震え上がらせた。
「せっかく君が婚姻相手の筆頭だったのに。……残念だよ。毒を盛る危険がある娘を宮殿内に入れるわけにはいかないからね。これまでの婚約は破棄させてもらう」
「えっ!? えっ、聞いてない……婚姻相手の筆頭!? 婚約!?」
近くに座る父親へ目をやると、父親は顔を青ざめさせており、そのまま視線をスッと逸らした。
完全に寝耳に水な話ばかりでついていけない。少なくとも、毒殺だなんて穏やかでない話は早急に何とかしなければ。それなのに、唯一この場にいる身内は全く当てにならないのだからどうしようもない。
(……あぁ、そっか。どこかで覚えがあると思ったら)
以前から度々襲われていた既視感の正体に、今ようやく気が付いた。
同じ出版社の恋愛小説編集者が、新しく出版することになった小説の挿絵をどれにするかとイラストレーターと決めあぐねていた時に、軽く目を通した程度でよければと助言したことがある。この展開はその小説の流れによく似ていた。若干色々と紅華が好き勝手やったおかげでストーリーが変わってはいるものの、大筋は同じと言えるだろう。
今まで気づかなかったのは、気づかないだけの満足した環境下にいれた、ただそれだけで。状況が変わればそうもいかなくなるのは当然のことだ。
「……裏切者」
最後に一言、憎しみの籠る目で睨みつけられ、耐えきれなくなった美琴――紅華は卒倒した。