九十八話 贖罪
――明日の夜までに、答えを決めておいてくれ。
早朝、マーガレットが彼の前に立ってそう言った。それまでは待ってもらえる約束になったと。
「君が決めてくれ。君の選択にかかわらず、私はそれについていこう」
朝霧がぼんやりと屋敷を包みこむ様子を、なにとはなしに見つめながら、彼はその言葉について考えた。
自分で決める。何時もしてきたことだ。一人旅では、話す相手も、相談する相手もおらず、全てディロック一人で決めて、行動してきた。そのことが悪い結果をもたらしても、責任も代償も、全て自らで背負えた。
だが今は、マーガレットが隣を歩いている。自分一人が傷つくのとは訳が違う。行動の結果は、二人とも背負う事になるのだ。
公爵からの依頼は、すなわち、ロザリアを正常化すること。それは王とシェンドラ公爵との戦いに参入することを意味している。
失敗すれば多くの人が死ぬだろう。民も、騎士も。ディロックやマーガレットでさえも、その死者に含まれる事になるかもしれない。
誰かの命を背負うことは、初めてではない。だが、そのほとんどは成り行きや、なし崩し的な形であり、迷っている暇など無い事がほとんどであり、人の命を能動的に背負うか否かの判断をするのは初めての経験だった。
彼が頭を掻いていると、不意に扉が開いた。朝食には早すぎる時間だ。咄嗟に剣へと手が伸びたが、入ってきた影を見て、ほっと息をつく。見慣れた少年、ゴーンである。
明朝の薄暗闇の中で、驚くほどの無音で入ってきた少年に、ディロックは気軽に声を掛けた。
「どうした?」
「おわっ!? お、起きてたのか……」
ゴーンはその呼びかけに驚いて跳ね、そして気まずそうに首に手を当てた。
何か用があったにしても、子供が起きるには随分早い時間であった。太陽も山向こうに光が見える程度で、外はまだまだ暗い。何か火急の用かと問えば、そうじゃないと否定の言葉が返ってくる。
少年は少しの沈黙の後、数度ためらいながらも口を開いた。
「あんた……死んで、ないんだよな。生きてるん、だよな」
その不可思議な言葉に、ディロックはまたしても首を傾げた。
無論、彼は生きている。でなければ、今少年と話している人間は誰だというのか。見ての通りだと言って彼が肩をすくめて見せても、少年は未だ暗い顔のまま続けた。
「あんたを引きずって町に運んだ時……血がたくさん出て……体もぐったりしてて、死んでるんじゃないかって、何度も疑ったんだ」
でも生きてた、と言って、ゴーンは再び彼の方を見た。少年の視線を追うように、自分の体を見下ろす。
事実、自分でも死んでいないのが奇妙に思えるほどの重傷だった。しかし包帯まみれの胴は、骨やら肉やらが断ち切られはしたが、奇跡的に臓器に刃は届いておらず、腕や足もついている。
とはいえ、それは旅人の感覚である。大量の血を流し、死体のように倒れ伏す彼の姿は、少年にとってあまりにも荷が重い物であったことは想像に難くない。
「重くて……全然引っ張れなかったんだ。このままじゃ死んじゃうって、分かってるのに、逃げてばかりだったから、力も弱くて」
段々と声が沈んでいく少年に、ディロックはなんと声をかけて良いのかも分からず、手を中空に彷徨わせ、黙り込む。
「助けられなかったらどうしようって……怖かったんだ……」
そういってゴーンは俯いた。肩は小さく震えている。
しばし考えてから、シーツを退けて、彼はゴーンと向き合う形でベッドに腰掛けた。酷く怯えているその様子が、自分のように見えて、とても見ていられなかったのだ。
目の前で失われるという恐怖と絶望を、彼は知っていたのである。
「俺は、生きてる。……お前が救ってくれた。感謝してるよ」
それはあまりにも捻りの無い、月並みな言葉だった。
もとより、ディロックに詩歌の才といったものは皆無だ。言葉を着飾ろうとするのが酷く苦手で、いつも最後には直球な言葉になる。
その言葉をどう受け取ったのか、少年は下げていた視線を上げた。彼も、その目をきちんと見据えた。
「その思いは、よく知っている。ゴーン、お前はよくやったよ」
――俺の場合は、助けられなかった。
二人とも、しばらく何も言わずに、互いの目を見つめていた。ゴーンは金の瞳の中に悲哀と絶望を見、ディロックは焦げ茶色の瞳が恐怖と慈愛を秘めていることを知った。
「……うん。ごめん、変な事言って」
「気にするな。俺も似たようなもんだ」
ゴーンが首を傾げると、ちょうどその時、日差しが窓から入り込んできた。太陽はようやく山を越えて、えっちらおっちらとその体の全てを空にさらし始めていた。
そろそろ朝食の時間が来る。少年は先ほどより多少マシな顔でディロックに頭を下げると、そのまま部屋を出て行った。
手を振って見送ってから、ディロックは一人、思い出したように自分の心に気づいた。なぜ、フランソワを、ゴーンを、見捨てたくないのか。
重ね合わせていたのだ。自身の過去と、フランソワ達の今を。
贖罪のつもりなのだろうか。自問しても、ろくな答えは帰って来ない。
勝手に過去と照らし合わせて、それを救って許してもらおうなど、傲慢ではないのか。彼は自嘲の笑みを浮かべた。胸の傷が一瞬、酷く傷んだ。




