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青空旅行記  作者: 秋月
三章 騎士の国ロザリア
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九十七話 夜更け

 夜になって目が覚めると、彼はゆっくりと起き上がり、腕や足を振って調子を確かめた。数日寝ていたためか関節は硬くなり若干のきしみを上げていたが、なんとか普通に動く範疇であった。


 胸に巻かれた包帯は、寝ている間に取り換えられたのか、また新しい物になっていて、血の染みはない。ひとまず出血も止まったのだろう。


 近くに置いてあった寝巻用らしきローブを羽織り、ディロックは外に出た。


 廊下を少しわたると中庭が見え、そこにはマーガレットの影もあった。屋外用の長椅子に腰掛け、帽子と杖を傍らに、静かに目を閉じて、ゆらゆらと船を漕いでいるようだった。


 屋敷の中庭へと降り、自らの怪我の具合を確かめながら、一歩一歩、彼女の方へ進む地面は美しく整えられた芝生に覆われ、石畳の道を、月光が青白く照らし出す。


 ぺた、ぺた、と足音を立てて近づけば、マーガレットはそれに気づいたのか、あくびを一つして、彼を手招きして隣へと呼んだ。


「こんばんは、ディロック。思ったよりも大丈夫そうだな、君は」

「ああ。頑丈で助かったよ」


 彼女が椅子を控えめに叩いて示す。一瞬それをためらったが、観念したように歩きだし、ゆっくりと椅子に座りこんだ。ぎしり、とかすかに軋む音。一瞬の静寂。


 口を開いたのは、ディロックの方であった。


「それで。……受けるのか、仕事」


 さてね、と彼女は呟いて、傍らの帽子のつばをつつと指先でなぞる。長く波をうったような黒髪が、風に揺れながら、夜の明かりできらきらと光っているかのように見える。


 ざざ、と芝生の短い葉が揺れる音。二人で月明りを見上げる。青く見える月が、満点の星に飾られて、それがやけに眩しい。彼は目を細めた。


「路銀が足りないだろう。君が良ければ、受けようかと思っている」

「……俺は、反対だ」


 彼は小さくそう答え、うつむく。


 フランソワの語った通り、シェンドラ公爵は王族から分かたれた真なる青い血の持ち主である。そして、それが戦う相手は、現国王だ。


 この戦いの勝者が、これからのロザリアを率いる王となるだろう。これは、より規模の大きくなった継承者争いのようなもの――名目は違えど、王族と王族の戦争なのだ。


 公爵に与する者。王に忖度する貴族。たとえ両者がそれらを拒んだとしても、争いは否応なしに激化するだろう。


 そんな所での依頼が危険でないことなどあるものか。出来るなら、さっさとこの国を出て、戦火も飛び火しないような場所まで逃げるべきだ。理性が高らかにそう叫んでいる。


 マーガレットはその答えに一瞬の間を置き、くすくすと笑った。何がおかしい、という言葉を吐くより先に、彼女はその答えを述べた。


「君、そんな事が出来るほど、器用な人間かね?」


 ディロックは黙り込んだ。それが答えであり、してやったりと言わんばかりに、彼女は声を押し殺して笑っている。


 逃げるべきだとわかっていても、感情はその場に留まろうとしていた。危険と知っていながらその場を離れないなど、愚の骨頂である。まして、何のしがらみもない旅人であればなおさら。


 だが、彼には、ひけない理由があった。義憤だとか、理想だとか、そんな大層な物ではない。一時の気の迷い、そう断じてしまえるような思いである。


 ――見捨てたくない。たったそれだけの、しかし彼にとっては重大な事だ。


 託された思いを、救った命を、そして救われた恩を。ただ忘れたくないだけで。それを振り払っていくことが、彼にはどうしてもできなかった。


 その思いに囚われると、急に胸が疼いて、鈍い痛みを発した。ディロックが唸る。思わず握りこんだ手がギリと軋み、マーガレットもその不調に気付いた。


「ディロック? どうした、傷が痛むか?」

「いや……いいんだ。じき、収まる……」


 片手を胸元に強く押し当て、出来る限り大きく息を吸う。肺が広がり、中途半端にふさがった傷跡が彼に稲妻のような鋭い苦痛を与えてきたが、それを務めて無視する。


 じきに鈍痛が収まると、彼はようやく握りしめていた手をほどいて、小さく息を吐いた。額は嫌な汗でじっとりと濡れており、顔は青く、手のひらをどけた胸の包帯には、わずかに血がにじんでいた。


 その尋常ならざる様子に、マーガレットは彼に寝台に戻るよう促して肩を貸し、これ以上痛まないよう慎重な足どりで彼の割り当てられた部屋へ歩き始めた。


 すまん、と小さく声をもらせば、彼女からは弱気な返事だけが返ってきた。気にするなと。


「完治にはもう少しかかるだろう、ともかく今は休みたまえよ」


 彼女の心配さえ痛く感じて、寝台に運ばれながら、彼はもう一度すまないと呟いた。マーガレットは彼の目をじっと見たが、言葉を返すことはなかった。


「ほら、もう寝るといい。明日になれば、少しは良くなっているさ」


 上からシーツを掛けられ、彼はじっと天井を見た。去っていくマーガレットの背に声を掛けようとして、やめる。


 俺は、許されないんだろうか。その答えを、彼女が知る(よし)もない。


 彼は眠った。今度こそ朝まで、夢も見ずに。

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