九十五話 公爵
「それからは、馬車でここ、公爵の屋敷まで運ばれたわけだが。実際、どこまで覚えているのかね?」
「……包囲網を突破してからの数分、それからは全く。指示を聞いた覚えもない」
ディロックがそう答えると、彼女は小さく頷いて、納得したような声を上げた。
それは、彼の体力への疑問があったからだ。彼は、体を袈裟懸けに斬られた結果、骨を何本か断ち切られ、内臓に届いてもおかしくない負傷を受けていた。金属鎧がある程度受けてくれたおかげで致命傷にはわずかに及ばなかったようなものだ。
加えて、その大怪我では流血も多くなる。半ば足元に血だまりを作りながら走っていたようなもので、ディロックが倒れた時、マーガレットは始め死んでしまったのではないかと焦ったと言って笑った。
むしろよく死んでいないな、などと冗談めかしていうマーガレットに、彼は全くだと返した。むしろ、なぜ死んでいないのかと不安になるほどであった。
彼女は水差しを机に置くと立ち上がり、二人を呼んでくると言った。緊張と疲弊で弱ってはいたが、彼が眠っている間にず元気になったのだという。
一人になった部屋の中で、包帯の巻かれた胸に手を当てると、思い出したようにずきりと重い痛みが走る。マーガレットには問題ないといったものの、完治には程遠いようだった。
体の傷に触れないよう、慎重に自分の体を寝台へと再び横たえる。まずは傷を癒すことを優先すべきだ。これからどうするにせよ、満身創痍の現状ではいかんともしがたい。
加えて、装備もない。いくらかの道具が詰まっていた背嚢は戦闘前に降ろしてそのままであり、もろとも断ち切られた鎧は、さすがに使い物にはならないだろう。鋳直すより、新しいものを用立てた方が安く済みそうである。
そこでふと思い、ディロックはベッドに立てかけてあった剣の方を見た。装飾の類を一切排除した武骨な品でありながら、上品さを帯びた黒い鞘が刃を覆っている。
多少体の痛みを伴いながらもそれを持ち上げ、何気なしに抜き放つ。窓から差し込んだ光が、鈍色の刀身を照らして輝いた。
壮絶な打ち合いの後だが、削れた後や刃こぼれはあっても、芯の歪みや罅などの致命的な損傷は見られなかった。
ディロックはそれを一通り確認して、ようやくほうと息をついた。こわばっていた体が緩む。剣を鞘へ戻し彼女が置いていった水差しから水をついで飲み、もう一度深く呼吸する。
最大の難関は超えた。大枚はたいて維持してきた鎧はあっさり失ったが、命は落していない。剣も手の中にある。おまけに、頼まれていた護衛も無事達成したのだ。少年少女、どちらの命も落とさせてはいない。
それに、伸ばされた手を、そして伸ばした手を、今度こそ掴むことが出来た。
無論、痛い目を見て死にかけた分、満点とは程遠い。損失も多く、率直に言って痛手ではあった。だが、彼としては十二分に及第点であった。
そう考えていると、扉を蹴破らんばかりの勢いで飛び込んできた影があった。
ゴーンだ。走ってきたのだろう、息は荒く、額にはじんわりと汗を浮かばせている。壁に手をついて少し息を整えてから、彼はディロックの方を見た。
「生きてた、んだな」
「辛うじてだが。……お前が運んでくれたらしいな。助かったよ」
少年は気恥ずかしそうに頭をかくと、おう、とだけ呟いた。
怪我の様子を聞く彼に当たり障りなく答えていると、少しして、扉を叩く音があった。
「フランソワですわ。入ってもよろしくて?」
彼は一瞬ゴーンの方を見て、それから扉の方に了解の意を告げた。一拍置いて、静かに扉が開く。フランソワは、旅の間来ていた旅装とは違い、赤い豪著なドレスを着て、ゆったりと入室してきた。
髪も結い直したのか、微細な編み込みのある複雑なものになっており、本人の持つ雰囲気と相まって、全身で貴族を表しているかのようである。
彼女はディロックの方を見て、ゆっくりと頭を下げた。
「まずはこの度、命を賭しての護衛に感謝を。貴方のおかげで傷一つなく済みましたわ」
「気にしないでくれ。仕事としてやったことだ」
それでも、と言って頭を下げる少女に、彼はまいったように頬を掻き、そこで彼女の横に立っている人物に気が付いた。
それは、上等な服をゆるりと着こなす男である。全体的に青を基調とした服を着ており、少女と同じく金髪碧眼、いかにも貴族といった風貌で、フランソワとよく似た顔立ちをしてた。
「ところで……そちらは」
「おっと、これは失礼。妹が大変世話になったということで、重ねて礼を申し上げに来たのです」
男はそう言って、フランソワとは違い、小さく手を胸の前に掲げ、一歩足を引く。ロザリアにおいて――ディロックは知らないが――目下の者への最大限の礼儀を示すお辞儀である。
妹と言う言葉は、明らかに少女フランソワを示す言葉である。そして、彼女は真なる青い血ことシェンドラ公爵に連なっている。
ということは、と彼が思いつくと同時、男は顔を上げ、その整った顔に薄い笑みを浮かべて見せた。
「ご挨拶が遅れました。私はカルロ=ルプツーニク=シェンドラ。フランソワの兄にして、シェンドラ公爵をしております。以後、お見知りおきを」
フランソワに勝るとも劣らないその気品さに、打ちのめされたような気分になって、彼は小さく首を縦に振るのが精いっぱいであった。




