九十三話 戦力差
ディロックが打ち込まれ続ける姿を、マーガレットはただ見ているという訳ではなかった。周囲の黒騎士の動向を警戒しながら、ひそかに脱出の機を窺っていたのだ。
そうして観察している間に、気づく。黒騎士による包囲網は、マーガレットが展開した『矢避け』の障壁を中心に、何時でも矢を撃てるように構えている。だが、その包囲には隙間がある。
それは、お互いの動きを邪魔しないための間だ。闇討ちに長じる彼らにとってその隙間は無いも同然だろう。だが、物理的な距離の問題で、対応には一瞬のズレが長じるだろう。
飛ぶにせよ走るにせよ、突破口はそこしかない。何時でも行動に移れるよう、マーガレットは疲弊した体を引きずって、ディロックの荷物から、一本の巻物を感付かれぬよう慎重に抜き出しはじめた。
一撃、二撃、三撃、四撃。とどまる事を知らない怪力の乱打に、彼の手はすでに限界を迎えようとしていた。
速度に目が慣れて尚、ローガンの剣の方が早い。技も向こうが上である以上、完全に受け流し切る事は難しい。必死で食らいつくものの、徐々に疲労は溜まっていく。既にディロックは、三度吹き飛ばされていた。
地を蹴って距離を取る。正騎士は追ってこなかった。
荒く息を吐き出す。腕は負担に耐えかねて悲鳴を上げ、防御をすり抜けた攻撃は鎧を削り、金属の鎧はすでに傷だらけだ。
たった十分の攻防で、ディロックはすでに満身創痍であった。それも、一切攻撃に手を回せず、防御一辺倒となって尚この負傷なのだ。
対する正騎士は、傷一つない状態である。受け流され続けた剣は多少は摩耗していたが、それは戦局を変えうるほどのものではない。
戦力差は歴然。だが、ディロックは未だ絶望してはいなかった。
それは、マーガレットの魔力がある程度回復し、多少なら動けると知ったからである。魔法が使えないまでも、ディロックの持つ魔法の道具のいくつかの効力は教えてある。
頃合いだ。彼は一人、頭の中で呟く。時間稼ぎは十二分に出来た。あとは何とか、合図とともに逃げ出すだけだ。
そう思い、一層強く気をもって剣を握り直す――すると反対に、ローガンは一瞬ぴくりと震えたかと思えば、静かに構えを緩めた。
意図が読めず困惑する彼に、正騎士は悲し気な顔になって片手を掲げた。それは、何かしらの合図であり。事実、それを機に今まで待機していた黒騎士たちが一斉に動き出した。
三人を囲んでいた『矢避け』の障壁は、魔法を含む遠距離攻撃に対しては無類の強さを誇るが、反面物理的な壁と言う訳ではないため、直接踏み込まれては意味がない。
ディロックとしてもそれは重々承知の上であり、だからこそわざわざ名乗りを上げて正騎士ローガンとの一騎打ちをし始め、黒騎士たちの動きを止めたのだ。
たとえ暗部の部隊を率いていようと、その大将たるローガンが、正騎士としてこの一騎打ちを受けた以上、その配下である黒騎士は彼の騎士道を慮って勝手に動く訳にはいかない。
そういった意図あっての一騎打ちであったが、結果的に、その当ては外れた。
黒騎士たちは手に手に武器を持ち、マーガレット達へと駆け出していた。鎧を着ているにも関わらず、その動きは俊敏だ。
焦ったディロックは、瞬き一度にも満たないほんの一瞬、ローガンから目を離した。それは、人として当然の焦りである。だが、意識を正騎士へと戻した時には、もう遅い。
一歩。されど、射程圏内。
飛び退くことさえままならぬまま、必殺の一撃が彼の鎧を袈裟懸けに切り裂いていった。
その痛みは、言うに及ばず。衝撃のままに肺から叩き出された空気が、絶叫の代わりに漏れる。肉が割け、何本かの骨を強引に断ち切られた感覚。
「こんな幕引きは不本意です。が、王命とあっては、正騎士が逆らう訳にも行きません」
正騎士は呟く。すぐ近くでこぼされたその言葉さえ、遠く、遠く聞こえた。
「卑怯者のそしりは、甘んじて受けましょう。さらばです、剣士ディロック」
崩れ落ちてゆく。溢れる自分の血で、視界は真っ赤に染まって言った。薄れゆく意識の中で、彼は自らの思いを吐き出した。俺の終わりは、こんなものかと。
守ると約束して、それを果たせず、みすみす死なせるのか。そうして復讐も果たせないまま、死んでゆくのか。
それは、彼にとって二度目だった。
瞬間、視界がはじける。体を割かれた痛みは、その時、まったくと言っていいほど感じなかった。一度は崩れかけた膝を強引に立て直し、彼は咆える。
それは、己の心を鼓舞するものとは違う。もっと野性的、原始的な。威嚇のための咆哮である。森の木々さえもうるさがってざわめくほどの声量に、正騎士は一瞬、その思考を鈍らせた。
その刹那を、駆ける。
マーガレットは彼の様子に驚きながらも、子供たちを抱え、彼に手を伸ばした。その目には、獣ならざる人の意思が垣間見えたからだ。
伸ばされた手を、強く掴む。今度こそ、離さない。
黒騎士たちがすぐさま包囲の隙間を詰める。だが、遅い。三人を背に抱えながら猿のごとく飛び上がった彼は、そのまま黒騎士の頭を蹴りつけ、さらに跳躍。
なりふり構わず、獣のごとく走りだすディロック。追いすがるローガンと騎士たちであったが、追跡はすぐに中断せざるを得なくなった。
逃走した彼らの姿が、在ろうことか突如として掻き消えたのである。
それは、ディロックが反乱軍の備蓄から借り受けた『透明化』の巻物であった。マーガレットが、彼の背嚢から取り出していたものは、まさにそれである。
疲弊のあまり舌が回らないマーガレットに代わり、ゴーンが読み上げた。すさまじい揺れと速度、そして追いすがる騎士たちを視界に入れた状態で、一言一句間違わずに読み上げたのは、まさしく少年の器用さあってこそであった。
そうして追跡を振りほどかれた黒騎士たちは、どこか茫然としながらも、しかしすぐさまローガンの方へと振り向いた。叱責を受けるにせよ、続けて追跡するにせよ、判断を仰がないわけにはいかない。
正騎士たる彼は、気づかれないようにため息を吐いてから、追跡は中止だとだけ言って引き上げ始めた。
「我らが王に、"御神託"とやらがまたすぐに降りるでしょう。それまでに準備を万全にしておくように」
その言葉に、黒騎士たちは一度だけ小さく頷き、すぐさま行動を再開した。
ローガンはそっと、彼らの逃げて行った方角を見つめる。そちらには、シェンドラ公爵領がある。
再び戦う事になるだろうか。戦闘時には現れなかった、ディロックの獣のごとき動きを思い出して、ローガンは少し眉をひそめた。そうして身を翻すと、彼もまた、黒騎士たちと共にその場を後にした。




