九十話 潜む影
ディロックが悪寒を感じてから、一行の足並はずいぶん早くなっていた。
マーガレットの疲労が多少は癒えたこともあるが、一番の原因はやはり、正体不明の存在である。
今のところ、その気配を察知してはいないが、依然として気がかりであることに変わりはない。不安と疑問が、彼の歩みを急がせていた。
とはいえ、進行が速くなった分、休憩もまた多くなっており、結果として速度に大差は表れていない。そのことにいら立ちを覚えるように、彼は休憩中せわしなく剣の手入れをする。
彼は生まれてこの方、精霊という不思議な存在と接してきた。
毎日、というわけではない。多くて一週間に二、三回ほど。少ない時は、一月に一度あるかないかという程度。
明確な言葉を交わしたことはないが、時折静かな風に乗って、その曖昧な意思が伝わってくる。それで何度も危ない目にあわされたが、助けられた回数の方が多かった。
だが今日は、何も語り掛けてこない。それが、どうにも不気味で仕方がなかった。
「ディロック、落ち着け。手元が乱れているぞ」
マーガレットがぴしゃりと言い放つ。
怯んだように一瞬、小さく体を震わせて、かすれた謝罪の声が出た。手元を見れば、布と剣をそれぞれに掴んだ両手が、わずかにぶれて見えるほど震えていた。
――俺は、何をこんなに恐れているのだろう。自分の手を強く握り、無言で考えた。
未知が恐ろしいのだろうか。いいや、きっと違うだろう。今までの旅の中で未知には何度も出会ったが、その度に既知へと変え、進んできたのだ。それが脅威であろうとなかろうと、確かに乗り越えてきた。
謎の力が恐ろしいのか。それも違う。剣を握る手がかすかに震える。力が恐ろしいのならば、この足は怯えから止まっていただろう。
得体の知れない寒気に、ディロックは一人震えながらも、進もうと言った。
「少し早いが、休憩を切り上げよう……いやな予感がするんだ」
マーガレットが渋い顔でうなずく。二人も、ディロックの力ない様子に困惑しながらも、小さく首を縦に振った。
そうして一刻ほどの移動を経て、二度目の転移地点に到達した。周囲は茂みで囲まれており、遮蔽が多くある木立の中だ。
思い思いに足を休める三人を後目に、ディロックは周囲の警戒に努めた。生来より鋭い感覚をさらに研ぎ澄まして、葉と葉の間を見通すように目を細める。
転移で移動経路を観測不可能にし、転移してから一度も襲撃を受けてない。無警戒でいる訳にはいかないが、それにしても異常な警戒度合いであった。
その様子を見てどう思ったのか、フランソワは足を休めながら、おもむろに口を開いた。
「あなた、少しは休んではどうなの? こっちの気も休まらないわ」
掛けられた言葉になんと返すべきか迷い、ごまかすように、彼は頬を掻く。ちらとゴーンとマーガレットの方を見るが、助けをくれそうな様子はない。マーガレットは無言のままで首を振っており、ゴーンに至っては首を縦に振っている始末である。
とはいえ、心のどこかに引っかかる何かがあるのは確かで。それを解消しないまま転移する、ということが、どうにも嫌だった。
しかし、それはあくまでも彼個人の思いである。しょせんは曖昧な悪寒にすぎず、依頼主の要請を差し置いてまで優先すべきことではない。
結局、不承不承といった様子ながら、剣から手を放す。肩を叩くマーガレットのいたわりが何処か痛かった。
そうしている内に、転移の準備は整っていった。余計なものを巻き込んで怪我をしないよう、大きめの石などは転がしておき、持ち物の点検もそのほとんどを終える。空はもう、大部分が暗くなり始めていた。
「……何事も、なさそう、だな」
ディロックが思わずといった様子で呟く。どこか拍子抜けしたような空気の中、彼の言葉に小さくうなずいた後で、マーガレットは静かに詠唱を始めた。
ガサガサと、魔力の波にのって葉が揺れる音が響く。
超距離を転移するための呪文はひどく長い。それは、異空間を作り出し、また別の地点へとつなげるという事の複雑さを示していた。
下手に簡略化すれば最後、異空間を作り出すほどの強力な力でもって体が捩じ切られかねない可能性を考えると、ある意味当然と言える。
現在の座標を固定し、目標地点を決め、虚無に潰されないだけの術式を編む。そうして、入口と出口をそれぞれ形作っていく。
それをじっと見ていたディロックだったが、不意に、体を揺らす手がある。ゴーンだ。マーガレットの集中を切らさないよう、彼は小さな声で問いかけた。
「どうした?」
「……あそこ。今、何か居たような気がする」
少年が、茂みの先の暗闇を確かに指さす。気配らしい気配はない。だが、少年の幻聴と断言できなかった。彼もまた、そこの暗闇にかすかな寒気を感じ取ったからだ。
指が示す方向を確認して、ディロックは睨みつけるようにして目を細める。黄金の瞳が静かに輝いて、暗闇の中を見抜いていく。
そうして、一瞬遅れ、気づく。
暗闇の中に浮かんだ、何者かの、目。
「ッ!? 詠唱をやめ――」
「『集団転移』――え?」
時すでに遅く。叫びをあげた次の瞬間に、四人の体は異空間を経由して消える。
その場には、鱗の生えた目玉の怪物だけが残る。それは一瞬、笑みにも見える醜悪な歪みを見せると、不自然なほど無音のままにその場から掻き消えた。




