九話 神殿跡地
ずっと水路を追いかけて行ったその先、森の奥深くにそれはあった。
自然の中にありながら、そこだけはぽっかりと木がない場所。そこに、石造りの巨大な建築物があった。水路はここから繋がっている。終着点で間違いないようであった。
そこは見上げるほどの大きいつるりとした石の円柱が何本も立ち並び、ディロックの立っている位置では分からなかったが、かなりの面積を石レンガの床が覆っている事は明らかだ。
水路脇の道から続いていた階段を上ると、コツ、と硬質な足音が響いた。もろくなったりはしていないらしい。
コツ、コツ、コツとそのまま階段を上りきると、ようやくそこの全貌を見渡す事が出来た。
かなり大きな場所だ。やや端が欠けたりなどして不揃いではあるものの、階段なども見受けられる。所々残っている屋根にも、明らかに優れた技巧を感じさせる彫刻が幾つも見られた。
壁は無く、屋根も一部を残すばかりで、一種広場のようにも見えるが、そこは建物だったのだろう。
彼が床全体を良く見ると、一部に大きな切れ目のようなものが入っており、丁度その建物の中心で十字に交わるようになっている。断面が綺麗過ぎるため、年月による破損などではないだろう。
人間の手であえて大きな溝が入れられたようだった。
見れば、中をちろちろと水が通っていた。源流は一体どこなのだろうかと一瞬思ったが、思考にとらわれる前にディロックはひょいと頭を上げた。
そうして溝を飛び越え、床の中央へと近づいて行く。十字の水路がある為完全に中央には行けないが、中央からそれを見ることは可能だった。
ディロックは神殿左側から入ったようだったが、神殿の正面から入った時、まず間違いなく目に入るであろうそれは、おそらく石碑なのだろう。
大きさは、全長がディロックより頭三つ分ほど大きい程度。明らかに綺麗過ぎる断面を見るに、恐らく魔法を用いて切ったものなのだろう。それなりに離れている十字水路の中央からでも、細かな文字が刻まれているのが見えた。
雄大な自然の中にあって尚、堂々と構えられたその建物。神聖さすら感じるそれは、恐らく神殿――だったもの、だろう。
恐らく柱の上には屋根が付いていたのだろうが、多くが倒壊し、今は残骸と瓦礫を残すのみ。石レンガの隙間には草が生え、そうでないところも土で汚れている。
圧倒的な時間の破壊力によって、柱も何本かが半ばで折れて転がっており、残っているものも殆どが植物のつたで覆われていた。
燦然とした昼前の太陽の光の中に、その屍を晒す廃神殿に、ディロックはしばし見とれて立ち止まっていた。
壊れているが故の威厳と言うのか、風格というのか。長い長い時間を掛けて自然との調和を得たであろうそれは、一種の芸術品の如き美しさを備えており、彼の心に感動を与えるのに充分すぎた。
息を呑んだディロックは、ゆっくりと、緊張した足取りで石碑に向かって歩き始める。金属製のブーツと石レンガが接触する事でカチリと足音がたったが、彼は気にも留めなかった。
つ、と伸ばした指が石碑に触れて滑る。真っ黒な石で出来ているそれは、驚くほどに良く磨きぬかれた状態を保っていた。つるつるとした断面には彫刻も無かったが、その代わり無数の線が彫り込まれていた。
金色に縁取られたその線の集合体は、恐らく文字なのだろう。線は時折曲がり、絡み合い、離れ、そして連なっている。
ディロックの視線と指先がゆっくりとずれて、一番左上の文字を捉えた。
「これは……」
彼はその文字を何処かで見た覚えがあった。古い記憶を漁り、それが何であったかを思い出そうと首を捻った。
背嚢の中の手帳に意味があるかもしれない。そう思い立って、彼は背中から背嚢を下ろし、あぐらをかくと、背嚢の中を弄繰り回し始めた。
この手帳は違う、この手帳も違うと、あれこれ取り出しては置いて、ディロックはようやく目的のものを見つけたようだった。
手に取ったのはディロックの手のひらよりも厚い手帳だ。紙質の違いから途中でページが継ぎ足されていることは明白であり、それに合うよう革の表紙も張りなおした跡がある。
何度も手に取ったり開いたりしていたためか、随分よれよれになっている革表紙には、あまり整っていない字体で"古代語"と書かれている。彼はそれを、少し感慨深げに見つめた。
それは本当に貴重な品で、ディロックしか持っていないはずだ。それどころか、世界にこれ一冊しかないだろう。何故なら、それはディロックが書いた物だからだ。
彼の記憶が確かならば、それはおよそ七年前に書き始め、つい二年前に書き終えたばかりのメモ書きだ。最早それは帳面と呼ぶべきではない厚さである為、ディロックも本として扱っている。
それは様々な古代語について記された、何の知識も無かったディロックが各所を旅しながら本を漁って書いたものだった。
パラリ。もう随分古くなってしまった本を、彼は慎重に捲めくる。もっと若い頃の自分の字が目に入り、思わず笑みが漏れた。なんて汚い筆跡だろう。
パラリ、パラリ。ページを捲るたび、それに関連した様々な事を思い出しながらも、ディロックは次々と自分の書いた本を読みすすめた。
やがて、目的のページに到達すると、ひょいと立ち上がって、石碑とページの文字を見比べる。見れば、ページ内と一致する文字ばかりだった。
筆跡から察するに、恐らく四、五年前に書いたものだろう。そんな事を思いながら、ディロックはページを戻し、その文字の詳細を求めた。やがて見つけた場所には、はっきりと少し大きな文字でグディラ語と書かれていた。
名の通り、古グディラ王の時代に使われた文字である。彼は本をパタンと閉じると、しばし瞑目した。
――この遺跡が、古グディラ王期のものである事は間違いない。
しかしながら、信じられないのもまた、事実であった。
古グディラ王期は、霊獣と人の時代だ。人は自然との調和を主として、様々な取組みをしていた。
かの時代を生きた獣達はみな、人の言葉で話す事は出来たものの、文字を理解できたものはいなかったといわれている。ゆえに、古グディラ王期にまつわる伝説の類は、その殆どが言葉によって受け継がれている。
この埋骨の森の伝説も、口伝によるものだ。
その為、古グディラ王期の遺跡というものは殆ど無い。精々がその名を冠する元となったグディラ王の宮殿ぐらいのものである。
しかし、ここにその時代の文字が刻まれた石碑がある。
石碑に記された内容が伝説の類でないにしろ、これだけ大規模な建築があり、石碑にも魔法による加工が幾つも見られる。となれば、到底ただの遺跡という事はあるまい。
大発見と呼べるかもしれないそれを前にして、しかしディロックは難しそうな顔をして考え込んでいた。なら、自分を呼んだ風の目的はなんだったのだろう、と。
何時の間にか、風は黙り込んでいた。
「だ、れ?」
しばらく考えこんでいたディロックは、ふと掛かったその声に、首だけでゆっくりと振り返った。
するとすぐに、彼を見つめるダークブルーの瞳と目が合う。柱の影から覗き込む様にしてディロックを見ていたのは、明らかに子供であった。
古着なのか裾がよれよれとした服を着ており、白みがかって見える程淡い金髪を揺らしている。髪が長いのを見るに、少女だろう、とディロックは結論付けた。
「……俺はディロック。旅人だ」
彼は特に慌てるでもなく身を翻しつつ、軽く両手を上げて、害意が無い事を示した。
少女はしばらく動かなかったが、緊張した足取りでディロックに三歩ほど近づき、人慣れしていない様子でおどおどと頭を下げた。
「えと、私、は……その、ロミリア、です」
その時、黙り込んでいた風が突然にひょうと吹いた。風はやさしげに二人の周りをくるりと回り、どこか嬉しそうにも思える様子でまた消えていった。
ディロックもロミリアも、その不思議な風にきょとんとして、互いの顔を見合った。思わずと言ったふうに、くすりと笑いが漏れたのは、ロミリアが先だった。




