八十九話 悪寒
朝になって、一行は再び目的地へと向かい始めた。一晩挟んでもマーガレットの疲労は未だ色濃く、その足並みは少し崩れていた。
襲撃される心配をしなくていいというのが、今の所救いであった。何せ、転移を挟む移動だ。一瞬で長距離を移動するという事は、すなわち経路を辿られないという事でもある。
いかな熟練の騎士達とて、転移先を知ることなど不可能だ。つまり、転移した後の誰の目にも触れていないこの時間帯は、そこまで気を張らなくて良いのである。
無論、騎士達とは関係のない盗賊やら狼やらが襲ってくる可能性もある為、完全に無防備でいる事はできないが。
ディロックはちらりと、マーガレットの方を見た。顔は少々青いが、ゴーンやフランソワと話す程度には余裕があるらしい。
昨晩は結局、交代すべき時間になるまで、二人は互いの事を話した。
話したのはゴーンとも話したような、極々他愛もないことだ。趣味の話、学問の話、互いの見知らぬ友人の話。
それは山でも切り崩すかのような、慎重で焦れったさを覚えるものだった。彼は誰かが隣に居るという感覚を思い出せず、彼女は彼女で、ディロックという奇妙な男を図りかねて居たからだ。
だが、互いに少しだけ歩み寄ったことは、全く接点を持てずにいた二人にとって、それなりに大きな事件であった。
とはいえ、表面上は何もない。事実二人は話をしただけであり、そこには何の変哲もなく、劇的な変化はあり得ない。ただ、満足感にも似た何かが、ディロックの中でもやもやと揺れ動いていた。
「それで、後どの程度掛かるんですの?」
フランソワがふと呟く。大分歩き慣れて来たのか、少女の足取りは数日前より数段軽いものになっていた。ゴーンはといえば、意外にも苦戦しているようである。
そうだなと小さく呟いて、頭の中に地図を思い浮かべる。分割転移を含めても、目的地までの道のりの半分を歩いた程度。つまり、最低でも後二日はかかる計算だ。
それも、歩き通しで休憩も取らないという条件下での計算であり、マーガレットが疲弊している現状、予想通りとはいかないだろう。
休憩の時間を長くとることを考えれば、三日か四日。そのうちのほとんどは野宿になる。そう伝えると、ゴーンとフランソワの二人はわかりやすく落胆してうなだれた。その様子に、くつくつと含み笑いがこぼれた。
「そう落ち込まないことだ。ここから直接王都に向かうよりは、よっぽど短い道のりなのだから」
「そりゃ、そうだけどさ。あんまり比較にならねえよ……」
マーガレットの言葉に、仕方ないと分かっては居ながらも、少年が反論する。出発した町と王都との距離は、およそ一月は歩かねばならないほどだ。一週間もかからない道のりとは確かに、比較にならないと言えよう。
しかしゴーンも、それ以上の文句を口にしようとはしなかった。国境ギリギリのラインを通って、町を避け、襲撃もなるべく減らし、最も無理のない経路を選んでいる二人の苦労は、重々承知していたからだ。
未だ見えない公爵領に辿り着くまでの道のりを想像してか、疲れた顔の二人。ディロックはかすかに笑いながら、前へ向き直る。
そして、はたと立ち止まった。
「どうした、ディロック。敵襲かね?」
「いや……何か、感じないか?」
マーガレットが首をかしげる。背中を走る、寒気。彼が感じたのはそれだ。
腰を低く構え、ぐるりと辺りを見渡す。護衛対象二人が顔を見合わせたことさえ意に介さず、彼は目を鋭く細めて最大限の警戒を行った。そのうちに悪寒の正体を見つけ出したのか、一点を見据えて剣に手をかける。
ただならぬ様子に、彼女も杖を構えて周囲に気を配った。すると、遠くにかすかな、けれど確かな魔法の気配を感じ取った。それはディロックが見つめる視線の先にいたのだ。
何かいる。そのことを知った二人は、フランソワとゴーンをかばうように前に出ると、マーガレットがすぐさま魔法による探知を行った。広域を探知する魔法はそれなりに魔力を消耗するが、戦力が万全でない今は、注意を怠るわけにはいかなかったのだ。
静まりかえった森の中で、緊張が雷のごとくビリビリと走る。
「これは……使い魔、か? こんな反応は、今まで見たことが無いが」
彼はマーガレットに、魔法を唱えておくよう言った。何でも良いから、一瞬消し飛ばせる魔法をと。
その物騒さに目をむく彼女だったが、次の瞬間、彼女のの感じていた気配は消え失せていた。
まるで初めから何も無かったかのような感覚に、思わず拍子抜けしたマーガレットだったが、ディロックの方はいまだに冷や汗をかいて剣を握りしめたままだった。
「去った……いや、消えたな。何だったのかね?」
さあ、と彼は呟く。剣を握っていた力は次第に弱り、しばらくして、彼はゆっくりと剣を収めた。そうしてから首を横に振り、分からないと言葉を続けた。
実際、わからないものはわからないとしか言いようが無いのだ。彼の直感は鋭いが、あくまでも直感の域を出ないものなのだ。けれど、一瞬しか感じられなかったそれが、妙に気にかかっていた。
未だに残る悪寒は、まるで塗りたくられた泥のように、意識にこびりついて離れなかった。




