八十八話 語らい
度々休憩を挟みながら歩くと、じきに日が落ち始めた。真っ赤に染まった空を合図に、周囲は一気に暗くなり始める。
遠くに見える山は、すでに陽光を遮って真っ黒に染まっている。一行の居る地点も、じきに夜に飲み込まれるだろう。それを見てとったディロックの合図で、四人が一塊になると、すぐにマーガレットが杖を掲げた。
滔々と詠われるのは、真に力持つ言葉の数々である。力持つゆえに、制御を誤れば全てが灰燼に帰す、極々危険な作業でもあった。
しかし彼女は焦る様子もなく、その言葉全てを余さず手繰りながら、杖を持っていないほうの手で帽子の位置を正す。長い長い詠唱の間に、魔力が彼女の体から溢れ、低く茂った草木を風のように薙いでいった。
目を閉じても感じるほどの力に、ディロックは僅かに圧倒され、フランソワとゴーンはその驚異的な力を、ただ静かに見つめていた。
彼女が目を見開く。杖で地を突くと、一瞬のうちに辺りは真っ白な光に包まれた。
足元の地面が消える感覚。体中の臓器がぐわりと持ち上がる。体がバラバラになっていくような、かすかな不快感。視界は真っ白で、風も、音も、光も感じない極々奇妙な異空間を急速に落下していく。
僅か、瞬き一度にも満たない時間経過の後に、一行は転移を完了した。
ぐらりと体が傾き、ディロックは咄嗟に体勢を立て直す。見れば、少年と少女はまったく未知の感覚に目を回して座り込んでいた。
「立つのは、めまいが治ってからにしろ。しばらくすればマシになってくるはずだ」
それは俗に、"転移酔い"と呼ばれる現象である。『転移』は全て、発動地点から目標地点までの間を繋ぐ異空間を作り出し、そこを経由するという術である。
その異空間は少しでも魔力の消耗を少なくするために、完全に虚無の空間となっている。しかしながら、人間は完全な虚無空間の経験などないため、一瞬の経由であってもこうして酔いに似た現象を引き起こすのである。
周囲をざっと見渡すと、少し遠くに人里の明かりが見えた。転移は確かに成功したらしく、まずは一安心、という所である。
しかし、肝心のマーガレットはと言えば、草むらにばたりと倒れこんでいた。顔色も悪い。ディロックが慌てて彼女の体を少し抱き上げると、マーガレットはああ、と小さく声をこぼした。
「魔力欠乏と転移酔いが重なったらしい。なに、心配せずともそのうち治るとも……」
「すまん、負担を見誤った。……今日はもう、野営にしよう。ゴーン、手伝ってくれ!」
ひとまず背嚢から毛布を取り出して、彼女の背の下に敷く。土の上よりは幾分かマシなはずだ。
そして次は、ゴーンの手も借りつつテントを手早く建てていく。普段であれば木の上にでも寝るのだが、今日はそうもいかない。簡素な支柱を立て、布を張り、一夜を過ごせるだけのものを作っていく。
ゴーンの手先が器用だったこともあり、ディロックは途中から火を起こした。薪を集めるのは手間だったが、フランソワも手伝ってくれた。呪いも惜しみなく使って火を起こすと、月は完全に直上に来ていた。
「ひとまず、これで良い。……二人はもう寝ておけ。朝になったら起こしてやる」
少女はよほど疲れていたのか、彼の言葉を聞くとふらふらとテントの中へ歩いていった。だが、ゴーンは少し訝しげな目で、彼の方をじっと見ていた。
「……あんたは寝ないのか?」
「見張りが必要だからな。しばらくすればマーガレットと交代するさ」
どすん、と重い音。どこか呆然として焚き火を見つめる彼に、ゴーンは尚も問いかけた。
「付き合い、短いんだよな?」
ああ、と短い返答。パチパチと薪が爆ぜる音が、暗闇の中にゆっくりと染み込んでいった。火の明かりに照らされて、焚き火のそばで、それぞれに座りこむ二人の姿がぼんやりと浮かび上がる。
ゴーンは少しずつ、忍び足でディロックに問いかけ続けた。冒険の話、趣味の話、生まれの話。
ディロックはそれに、一つ一つ、静かに答えていく。ゆらめく炎の光を受けて、黄金の目がちらちらとその瞳孔を光らせていた。
「何というか、案外適当なんだな。目的地とか、無いんだろ?」
「ああ。まあ……」
立ち止まりたいと思った事は、何度もあったが。その言葉をディロックは、結局少年に言わなかった。言ってもしようの無い事だと思っていたし、見ず知らずの子供に打ち明けるには、少々重過ぎる話だと思ったからだ。
一瞬の沈黙。ゴーンがいざマーガレットの話へ触れようとすると、丁度ばさりとテントから音が起きた。ふとそちらを見れば、マーガレットが起き上がって外に来ていた。
「少年、好奇心は結構だが、夜にあれこれ聞き続けるのは良くないな。心は良くても、体がもたんぞ?」
くっくっ、と含み笑いの音が、木の爆ぜる音に混ざる。見咎められたような気分で、少年は曖昧にもごもごと何かを言うと、もう寝るとだけはっきり言ってテントにもぐりこんだ。
男女の境など無いが、そんな事を気にしていられるような状況でもないことを体も分かっているのか、寝息はすぐに二つへと増えた。
マーガレットはしばらく何を言うでもなく、焚き火を眺めていた。だが、突然思い立ったようにディロックの方を見ると、とうとう口を開いた。
「話そうか、ディロック。交代の時間まで、少しある」
沈黙。これといって気の利いた言葉など出るはずもなく、彼は錆び付いたぎこちない口で、静かに肯定の意だけを告げた。




