七十三話 消え行く者
「終わった、のか?」
「……うむ。私が見る限りでは、核は一片も残っていない」
ディロックも彼女に習い、周囲を見渡す。一応とはいえ、魔力を見る目が備わっている彼にも、亡霊の核らしきものは見当たらなかった。
勝ったのだ。そう思うと、ふっと気が抜けて、彼はばたりと仰向けに倒れた。はぁ、はぁ、と荒い吐息を吐いて、必死に呼吸を落ち着ける。心臓は早鐘を打ち、肺が空気を求めて激しく動く。
足からはズキン、ズキンと酷い鈍痛が断続的に響いてくる。金属の鎧に鉄の剣、兜まで被って飛びまわったのだから無理も無い。握力を失った手から、がらんと剣が滑り落ちた。
急に倒れたディロックにマーガレットが駆け寄ろうとしたが、精神の疲弊は彼女の方が激しく、杖を頼りにふらふらと二、三歩歩くのが限界で、結局二人は石の床に寝転がる事となる。
――ああ、危なかった。二人して同じことを考え、視線が交差する。そして、小さく笑った。
しばらくして呼吸が落ち着くと、真っ先に上体を起こしたのはディロックだった。疲弊は激しかったが、確認すべきことがあったのだ。
倒れた時に落とした剣を拾い上げ、刃を見つめる。名を持たないただの鉄の剣は、握り手の顔をぼんやりと映す。何の変哲もないその様子に、ディロックは困惑を隠せなかった。
やはり、剣に魔法の力がこもっている様子はない。では、あれはなんだったのだろうか。いくら近代に近しく弱いといえど、国を滅ぼしうる亡霊だ。それを、いとも簡単に吹き散らす程の風が、偶然吹くわけも無い。
それに、彼の攻撃が通っていたのは上等な聖別された水のおかげだ。それを、ただ力任せに吹き飛ばすなど、尋常な力ではない。
ディロックは、すでにその残滓さえ残っていない剣を見つめて、ふうと一つ溜息をはいた。
するとちょうど、マーガレットも多少は休憩できたのか、ゆっくりと上体を起こした。彼女もまた彼の剣に触れ、二、三角度を変えて観察こそしても、すぐに首を横に振った。
「駄目だな、さっぱり分からん。形跡も残っておらんとはな」
「まぁ、生きてるから、良いんじゃないか。とりあえずは」
彼の適当な言葉に、マーガレットはそうだな、と返答して立ち上がった。歩き方はおぼつかないが、此処を出ようという意思があった。
ディロックもそれに追従して立ち上がる。足は未だに震え、立ち上がると痛みは余計酷くなったが、休むにしてもせめて地上で休みたいという思いがあった。しかし、二人の基幹はすぐに妨げられることになる。
ふらふらと立ち上がった二人の目の前で、魔力が形を成したからだ。
まさかと思って身構える二人。もはや交戦出来る程の体力は残っていなかったが、亡霊が復活するのであれば戦わねばならないと思っていた。
形となった魔力は、およそ人型で、長い髭を蓄えた老人のように見えた。それは、二人の方を見て、ゆっくりと頭を下げた。
「若人よ、迷惑を掛けたな」
マーガレットは呆けたように口を開けて動かなかったが、ディロックはすぐにそれが誰か分かった。小さく頷き、あんたは、と口を開いた。
「"名無しの賢者"、エグナグだな」
「そうとも、強き剣士よ。智もなく、ただ弱かった、老人のなれの果てだ」
老人は自嘲する様に笑う。ディロックはそれに、曖昧な声を漏らすばかりだった。
彼は亡霊――エグナグの『精神感染』を一度受けており、その影響で彼の亡霊となった所以を知った。それゆえに彼に対する共感があり、肯定も否定も出来ずにいた。
混沌の輩たる山羊頭の怪物に人格をゆがめられ、賢者を殺し、何百年と続く恨みを作ったのは彼だ。
だが、友のために賢者という立場を受け、今に残る文学を書いてきたのもまた彼である。
かつて、いまだ賢者としてあったころのエグナグの記憶を持ちながら、今を生きる人でもあるディロックには、エグナグを悪と断じることは到底出来なかった。
「……あんた、これからどうなるんだ」
結局、老人に掛ける言葉は見当たらず、ディロックは曖昧な表情でそう問い掛けた。
「さてな。だが、この身は魔力の残りかすで出来た幻影のようなもの。そう長くは持つまい」
この通り、とエグナグが自らの体を見下ろす。ディロックもそれを追って視線を下げると、その体は確かに、足元からゆっくりと消えてなくなり始めていた。
「言い残す事はあるか?」
「いや。もう何百年と前に、言い残すような相手は失った」
謝るべき相手には、これから会いに行くとも。
エグナグはそう言うと、次にディロックの剣に目を向けた。暴風を巻き起こした、何の変哲もない鉄の剣だ。
「異国の剣士よ、風は君の友であり、同時に打ち克つべき相手になるだろう。君は、君の旅の終わりを見つけるべきだ」
黄金の瞳と、青く澄んだエグナグの目が、静かに見詰め合う。遠くを見つめたその青の中には、死に行く者の静寂と、ディロックに対する深い理解がある様に思えた。
「強くあれ、若人よ。……君の旅に、幸あらんことを祈ろう」
ほのかな光となって消えていきながら、老人はそう言って、ほだらかに笑った。
残ったのは、戦士と魔法使い、そしてぼんやりとした静寂だけである。
ディロックは、ようやく思考を取り戻したマーガレットの方を見て、くすりと小さく笑った。マーガレットも、その笑みをみて、どこか諦めたように笑う。
「帰るか。少し、疲れた」
「……うむ、そうしよう」
疲れからがたがたと震える足で、互いに支えあいながら、二人は水底に沈んだ混沌の神殿を後にした。




