七十二話 追憶
老いた足を引きずり、エグナグは逃げるように議会室を去った。
分かりきったことだった。他の賢者たちと自分の間に能力的な溝があることは。
それでも知らないふりをするほか無かった。それは友であるレオウムドのためであり、同時に己の自尊心を守る為でもあった。
自分がどうしようもなく情けなく感じて、彼は走ったが、老人の干からびた体にはすぐに限界が来た。
議事堂から遠く離れた路地の裏で、荒い息を吐いて、エグナグは膝から崩れ落ちる。そうして、声も無いまま涙がこぼれた。
分かっていたのだ。どれだけ大層な肩書きを背負っていようと、結局の所、自分は一人の作家でしかないと。
唯一の武器たる無限の物語は、しかし彼ら五人の賢者の持つ叡智とはそもそも方向が違う。同じ舞台に立とうという事がそもそもおこがましかったのだ。
涙を覆い隠すように、彼は蹲った。そうしてしばらく年甲斐もなく泣いていたが、しばらくして、彼はすっくと立ち上がった。
涙でボロボロになった顔を乱暴に拭い、何処へともなく歩き出す。家に帰る気にはなれず、友に縋るのはもっと惨めになると躊躇ってのことだ。
憂鬱で重い体を引きずり、路地裏を歩く。夕暮れ時、入り組んだ道はまるで迷宮のように感じられた。これからどうしようかと、歩きながら考える。
重く圧し掛かる無能の二文字は、彼にとって耐え難い苦痛である。賢者という立場を辞そうという考えに至るのはすぐだった。
いっそ初心に立ち返って、詩人の真似事でもしてみようか、と思う。近頃の歌は知らないが、これから覚えて行けば大丈夫だろう。育ての親といって言い吟遊詩人の教えは体に根付いていた。
「そうだ、明日はあるさ。賢者でなくても、生きていける」
そうしよう、と精一杯笑う。隔絶した他四人の賢者との差は、彼にとってむしろ、すっぱりと諦めるには丁度良かった。
賢者を辞したら、その足でこの国を出よう。そう決めて、家に歩き出す――その、一瞬前。
「それは困るな」
ハッと振り返る。彼の瞳は、ほのかな物影の奥底に潜む怪物の姿を、確かに捉えた。
「君には乱心してもらわねばならないんだ、エグナグ」
それは、混沌の輩の象徴たる火を目に宿した、山羊頭の怪物であった。怪物は恐れに足がすくんだ彼の頭に手を伸ばし、呪いの言葉を二、三唱える。
それは人格を砕いて再構築する、禁忌の技の一つ。恐怖を抱えたまま消え行く意識の中で、彼は友のことを思った。ああ、随分君に迷惑を掛けることになるだろう、と。
パチン、と泡がはじけるような感覚とともに、彼は意識を取り戻した。
そこは、自分の指先さえ見えないほど真っ暗な空間だった。足場は定まらず、自分が今、下に立っているのか、上に立っているのかも判別できない。その中で、彼はぼんやりと考えた。
――自分は一体、誰だっただろうか。
名前も、生まれも、今の彼には思い出せない。だが、ふいと振り返ると、そこには鏡が浮かんでいた。
顔が写る程度の、小さな鏡だ。その中には老人の顔が浮かんでいた。しわくちゃで、いかにも偏屈で、そして卑屈な顔だった。頭のどこがが軋む。
――これが俺の顔だ。そうだ、そのはずだ。
不明瞭な意識の中で、彼は鏡に手を伸ばした。すると、伸ばした手がまた写った。それは、老人の手ではなかった。
重苦しい鉄の篭手をつけた、剣士の手だった。そこで彼は――ディロックは、ハッとなった。
「違う。俺は……エグナグじゃない」
鏡に、大きなひびが入った。彼がその確信を強めれば強めるほど、鏡のひびは大きくなっていく。
「俺は、ディロックだ……。ハトゥール氏族に名を連ねる、誇り高き戦士ラグルが息子……そうだろう」
そうだろう、ディロック・ハトゥール。
自分に問い掛けたその言葉に、鏡が砕け散る。意識がぐいと引っ張られる感覚が彼を襲った。
次にディロックが目覚めたのは、再び亡霊の目の前だった。それはきっと、ほんのわずかな間に過ぎなかったのだろう。
だが、時間は確かに進んでいた。亡霊は彼を無視してマーガレットへの攻撃を準備し、彼女は額に汗を浮かべ、攻撃を知りながらも詠唱を続けている。
怖くないのか。体が硬直している、まばたき一度にも満たないほどの一瞬の中、彼はそう思った。だが、それは間違いだと、すぐに気付く。気丈に振る舞い、救国の英雄になれると笑って、今詠唱を続ける彼女の様子は。
彼女の足は、震えていた。
硬直を引き裂き、崩れ落ちようとする体を、一歩強く踏み込んで立て直す。剣は未だ手の中にある。あまりに強い踏み込みが、石畳をバキリを割った。
彼女も、怖かったのだ。だが、故郷と友のため、必死に決起して立ち上がった。恐れと立ち向かい、自らを殺す攻撃を前にして尚、杖を構えたその姿。その背は、竜にも匹敵するほど強かった。
――なのに、俺は何をしている? ただ見ているだけか?
違う、と体が叫ぶ。無理矢理な動きが、疲弊した体の筋肉に悲鳴を上げさせ、彼自身にも激痛が走ったが、ディロックは歯を食いしばってそれを無視した。
違う、と心が叫ぶ。『精神感染』を振り切った彼の精神は、既に傷だらけで、もはや戦う気力など残っては居なかったが、雄叫びを上げてそれを誤魔化す。
もはや聖水の加護はない。彼の剣は今、ただの鉄の剣に過ぎない。物理攻撃の通用しない亡霊に対して、その剣はあまりにも無力であった。
それでも、彼は剣を振った。せめて一矢報いなければと。
そうすると、黄金の瞳が、薄暗闇の中で光も受けずに輝いた。
風が吹き荒れる。彼の斬撃をなぞるように放たれた暴風が、亡霊の体を吹き散らす。それは亡霊にも、マーガレットにも、放った本人にとっても驚くべきことであった。
だが、彼はすぐに思考を叩き戻し、吼えた。
「マーガレット、やれェーッ!」
「――応とも」
ディロックの声に、マーガレットは確かに頷いて、長い長い詠唱を終え、練り上げた強大な魔力を、杖と同時に振り下ろす。
巨大な塊となった魔力がおちる様は、星を落とす奇跡によく似ていた
「『天撃』!」




