七十一話 精神感染
床を蹴り、跳ねる。
壁を蹴り、跳ねる。
天井を蹴り、跳ねる。
跳ねる、跳ねる、跳ねる。
既に痛みと疲労によって体は限界に近づきつつあったが、彼はそれでも跳んだ。辛うじて直撃を避けられているのは、すべからく直感と跳躍力のおかげであった。
鋭い直感は最悪を寸前で逃れさせ、跳躍力が無ければすぐに逃げ場を失って粉みじんになっていただろう。
状況は難しい。荒く息を吐きながら剣を構える彼の脳裏には、その言葉が依然として浮かんでいる。
詠唱は後何秒だろう。本格的な詠唱に入り、自己防護と攻撃準備にかかりきりのマーガレットに問い掛けるわけには行かず、早く終われと念じながら必死に攻撃をかわし、縦横無尽に飛び跳ねては、隙を見て剣を叩き込む。
しかし金属の鎧を着けて飛びまわっていれば、いかに持久力があろうとも限界はすぐに訪れる。ズキン、と鋭い痛みが足首に走るのを、歯を食いしばって無視した。
わずかな隙間で荒くなった呼吸を整え、剣を握りなおす。篭手によって汗で滑るという事は無いが、しかし振り回して走ってを繰り返すうちに、彼の握力もかなり弱ってきていた。
鎧を脱ぐような隙はない。だが、金属の鎧という重りを抱えている状況では、そう長くは持たない。一撃必殺たるマーガレットの魔法には、後一分ほどかかる。
――後は、俺が持ちこたえるだけだ。
「おおおォ――ッ!」
自分を叱咤するように、再び跳躍。わずか数メートル後ろで石畳が爆ぜるのを肌で感じながら、亡霊の周りを回るように飛び跳ねる。
疲労を無視した無理な動きは、絶え間ない激痛を彼の足へと与えたが、痛みは叫ぶことで誤魔化した。そうでなければ勝てない、必死に歯を食いしばって、唸るように吼える。
一撃、二撃。再び放とうとしていた魔法を掻き散らす。もはや何度目かなど到底覚えてはいなかったが、十や二十では足りなかった事だけは確かだった。
亡霊も度重なる彼の攻撃にかなり縮んでこそ居たが、膨れ続ける魔力が体を作り出し、致命傷には届いていない。
足を滑らせないように確かに着地し、休む間もなく再度跳躍。爆発が彼の後を追いかける様にして続くが、その一つとして彼に届くことは無い。
それは、極度の疲労とは反対に研ぎ澄まされた感覚が、彼に魔力爆発のタイミングを知覚させていたからだ。彼の感覚器官は、亡霊から発される"殺気"のようなものを感じ取り始めていたのである。
しかし、蓄積された疲れは如何ともしがたかった。
魔法を放つ前兆を感じ、再び再跳躍を試みる彼。しかし地面を踏みしめたその瞬間に、彼の曲剣が放っていた淡い光が消え去った。聖水による加護が失われたのだ。
ハッとして踏みとどまろうとする、まばたき一つ程度の僅かな時間。
「オォォォ……『精神感染』」
彼の一撃で不発に終わるはずだった魔法は解放され、彼の意識は脳の奥深くへと叩き込まれた。
それは、かつての本の国。建国者たる五人の賢者、彼らが存命していた頃の光景だった。
巨大な円卓を囲み、国のこれからを語る。軍部の人間が居ない完全な文治主義は静かに物事が進んでいたが、その中で一人、思いと言葉を燻らせた男が居た。
「……では、以上をもって第八十と七回目の議会を終了するとしよう。解散」
司会役を勤めた第一の賢者レオウムドがそう言い放つと、賢者達は我先にとガタガタと席を立ち、素早く会議室を後にしていく。
彼らは優秀な為政者であったが、それ以上に研究に明け暮れる学者たちである。一刻も早く研究を始めたいという思いが彼らの足を速め、結果として、議会が終わって早々に会議室はシンと静まり返った。
沈黙に閉ざされた部屋の中で、彼は一人、唇をかんで感情の発露を押さえ込む。それが何の解決にも繋がらないことに気付いて居たからだ。
男の名はエクナグ。第五の賢者にして、後に"裏切りの賢者"と呼ばれる事になる大罪人であった。
「……私は、此処では役立たずか」
年老いた皺の多い顔に、諦めとも悔しさとも取れない表情が浮かぶ。握り締めた拳は、しかし振り所も無く、ゆっくりとほどけて行く。
彼は建国者たる五人の賢者に名を連ねてこそ居たが、しかし一度として彼らの政治に口を出せた試しがなかった。エグナグは、とんと政治方面に疎かったのである。
それは、彼の専攻が文学であったこと、そして彼の生まれから来る無教養が大きな原因となっている。
彼は元々、貧しい農村の中で生まれた農家の三男坊であった。何の期待もされなかった彼に、言葉と物語の素晴らしさを教えてくれたのは、旅の吟遊詩人ただ一人であった。
吟遊詩人から世界の事を学び、村を飛び出した彼の手には、それだけで食って行ける程に無数に広がる物語だけがあった。同じ時代を生き、偶然レオウムドに出会わなければ、稀代の作家という形で一生を終えていただろう。
しかし、無学な彼に、難しい政治の話は分からない。皆が声を出す中で、賛成程度の言葉しか発せない自分に、エグナグはほとほと嫌気が差していた。
何とかしなければ、と思いながら、彼もようやく席を立った。そうして家まで戻ろうかと踵を返すと、その時丁度、外から声が聞こえて来た。話し合っている声は、官僚のものである様だった。
なにやら楽しげに話す声に、彼は好奇心のまま耳をそばだてた。
「結局、エグナグ様はおなさけであの椅子に座っているだけだろう?」
――それが、聞かなければ良かったと、その後何百年と苦しみ続ける声だと知らずに。




