六十六話 水底にて
今回、試験的に2000文字ほどまで一話を短縮いたしました。
一、二話ほどこの形式で続けて見て、自分的に書きやすければ2000文字で継続したいと思います。
その際は一話が短くなり、ページを進める手間をおかけしますが、ご了承ください。
風に揺れる水面は、深さを示す藍色が広がっており、朝方の日の光をもってしてもそう奥は見えない。魚の類も見受けられなかった。
「まったく、次は一言行ってから動いてくれたまえよ……ふむ、湖か」
後ろから追いついてきたマーガレットが声を掛けると、ディロックはしゃがみこんで湖のふちに手をつけた。ひんやりとした水の冷たさが篭手の指先からゆっくりと彼に伝わってくる。
幼い頃から、時折彼に話しかけてきた不可視の何か――便宜上、彼は"精霊"と呼んでいるが――は、常に何かしらの意味をもって語りかけて来る。
それは大抵の場合、綺麗な景色や珍しい生き物、あるいは彼の目的地である事が多かった。
ならばと思い辺りを見回しても、それらしい建造物の類は見当たらない。だがディロックの経験と直観が、"必ず何かある"と告げていた。
マーガレットも一緒になって周囲を見ていたが、湖の方へ目を落とすと、ぽつりと呟いた。
「深いな。数十、いや、それ以上……少なくとも、地理的に考えて、この場所にこの深さの湖は……」
「マーガレット、『水中探知』は使えるか?」
彼女の思考を遮り、ディロックが言う。
――直感も経験もそう告げた。理論的にも違和感がある事はマーガレットが保証している。ならば、悩むより先に行動すべきだ。
マーガレットは小さく頷いてとんがり帽子の位置を正すと、杖を湖の淵へ突きたてた。広がる波紋は魔力を帯びて水の中へと沈み込み、その形状を彼女へと詳細に伝えていく。
情報そのものを読み込む魔法はかなり複雑であり、その分高度だ。術者の負担も大きいのだが、彼女はなんのそのといわんばかりに平然としながら、杖で湖の奥、藍色の先を示す。
「見つけたぞ。水底……横穴だ。不自然に水が途切れているな」
「十中八九そこだな」
身を乗り出して湖を見つめる。藍色の底、おぞましい何かが潜んでいるのは、肌で感じ取っていたが、震えは逆に段々と落ち着きを見せていた。
土壇場で落ち着いたのかと問われれば、否。むしろ、恐れと震えが一定を超え、結果ほんの僅かに、剣士としてのディロックが出てきているのである。
彼自身、そこまで心の強い人間ではない。勝ち目のない戦いに挑む気など到底無く、死ぬこともまた怖かった。
しかし、剣士としてのディロックは別だ。彼は死を恐れないし、やると決めれば、たとえ竜が相手であろうと勝ち目を拾おうと尽力する。旅人の彼と剣士の彼は著しくズレがあった。
そして、剣士のときの彼というのは、剣への忌避感から、基本的に兜をつけなければ現れない。そういう風に分けたからだ――それが自然と現れてくるのは、彼の直感がそれほどに恐れている証拠であった。
それをぼんやりと理解しながらも、しかし進む以外にない、とマーガレットは一瞬目を閉じた。ろくな仲間はいないが、軍に任せるよりも勝率が高いのであれば、それ以外に道はないのだから。
「行こうか、ディロック。勝つ気で」
「ああ。――最初から、そのつもりだ。」
『水中呼吸』の呪文によって、大きな空気の膜に包まれた二人は、ゆっくりと湖を底へ底へと下ってゆく。
水の中はかなり暗く、ディロックが上の方を見ると、日差しで水面がきらめくのが見える。魚たちが沈んでいく二人を物珍しげに眺めていた。
二人とも水に潜るのはこれが始めてではなかったが、しかしディロックはやはり慣れない様子で体をもぞもぞと震わせる。
何度潜っても、剣士として、長時間足が地面から離れていると、どうしても落ち着かない。これはディロックだけでなく、他の戦士の多くも経験することだという。
また、水中には独特の勝手があり、動くにも慣れがいる。地上と同じように動けないのをストレスに感じる者も多い。しかし、マーガレットの方は極々平然とした表情のまま、近くに来た魚を杖で追い払っていた。
「落ち着きたまえディロック、もう少しで水底だ」
「そう言われてもな……努力はするが」
そう言いながら、下の方を伺う。ディロックのカンテラ――水中で尚光るのは『水中呼吸』による空気の膜があるからだ――によって照らされて、微かに水底の砂が見えはじめていた。
水中ゆえに、音もなく二人は着地する。水底に体積した細かい細かい砂の粒が、足の裏でじゃらじゃらと動く感覚がした。
魚の骨や海草のような物の中、マーガレットの先導にしたがって歩く。水中という面では彼女の方が慣れがあり、彼女は何度もディロックを待つ必要があった。
そうして歩いていると、ぞわり、と水以外の冷たさ――悪寒を感じ、ディロックは足を止めた。
よく見れば、カンテラの淡い光に照らされて、水の中にわずかに黒いもやが漂っているのが見える。時折生き物のようにうごめくそれは、僅かに魔力の気配を帯びていた。
「マーガレット、これは……」
「亡霊の呪いだな。触れるなよ、此処まで強いものははじめて見る。どんな影響をもたらすか……」
もやの隙間を縫うようにして二人は水底を歩くと、目的の場所はすぐに見えた。




