六十一話 異常のきざし
不吉なものを感じて以降、自然と足が速くなる二人。本来なら、短い距離であっても無駄に体力を消耗すべきではないが、勘というのは誰しもが思うより馬鹿にできないものなのだ。
人間の経験や知識、本能的な感覚というのはは、人が思うよりもずっと奥深くに根ざしている。それらは決して万能なものではないが、しかし時として、それが直感という形で答えを示すことは、確かに存在するのだ。
事実、マーガレットもディロックも、その勘に助けられた経験は何度もあった。
それに、幸いにして、二人の足なら街まではもう、そう遠くはない。彼は言わずもがな、彼女とて熟練だ。体力は駆け出しの戦士よりもずっとある。その二人が体力の許す限り歩幅を広げているのだから、多少の距離などあっという間である。
背筋を凍らせるような何かに苛まれるかの如く、二人はその歩みを次々に早めていった。
暫時そうして歩き続け、一度日が沈み、もう一度日が昇ってきたころ。朝日によってようやくぼんやりと街の輪郭が見えてきた。
眠気と疲労はかなり強くあったが、ふと彼が横を見れば、マーガレットもまたディロックを見ていた。まずは街だ、と青紫の強い瞳が彼を見据えていたので、ディロックは小さく頷き、またしっかりと足を踏み出した。
街に入ると、漠然とだが、辺りはなにか不穏なものに満ちていた。ぼんやりと感じていたそれは、二人が街の通りを歩くたび、次第に明確になって言った。
石畳をブーツが打つ。コツ、コツ、コツ、コツ……。
足音がひどく響くのは、ひとえに人が居ないからであろう。何時も何かと議論や語らいの声が響いていた書生の街はしんと静まり返り、本当に誰一人生きていないかのようであった。
不自然な人気のなさは明らかな異常を示していて、マーガレットはしばらく顔をしかめて歩き続けた。困惑の中、理解不明な静けさに身震いしながら、重い口が開かれる。
「何が……何があった? たった一日で、ほぼ無人状態だと……?」
当然の問いである。都市に人が居ないというのは、機能不全を起こしているという事に他ならない。
中小の村や都市であれば、外的要因によって集団が崩壊するのもままある事だ。世界には理外の怪物や理不尽を体現するようなものとて居るのだから。
だが、此処は王都。便宜上もっとも高い権力を持つ王が居る土地であり、規模もかなり大きい。その関係上、衛兵の巡回、城壁の整備など、警備も厚くされている。
多少の事で揺らぐ筈は無い。それこそ、竜が襲いかかってこようと耐え切れるほどの戦力が備わっているのだ。内部要因にしても、"騒ぎ"がないのは可笑しい。あっても、衛兵が行動、鎮圧を行っているだろう。
本の国ルィノカンド住民であり冒険者であるからこそ、マーガレットはそれを重々理解していた。だからこそ、何処からも声がなく、騒ぎ一つ聞こえない現状に理解が出来なかったのだ。
呆然としたように呟かれた言葉は、聞く者の居ない大通りの地面へと吸い込まれていった。
その時、ふとディロックが今まで俯かせていた顔を上げた。声だ。誰かは分からないが、それでも確かに聞こえた。
もう一度、何処からか声が響く。今度はマーガレットにも聞こえたらしく、彼女はハッとして頭を振った。今は考えているときではない、動く時だ。二人は小さく目線を交わすと、示し合わすこともなく声の方へ走り出した。
最初は不明瞭だった声は、近づくにつれ、より明確な声となってゆく。男の声だ。それも怒号のようだった。
「ガイロブス?」
聞きなれた声。安堵感と不思議さからか、彼女の口は自然と開いていた。
それと同時に、路地の奥、声の発生源が見えた。巨人と見紛うばかりの巨躯は、見間違えようも無い。店主ガイロブスであった。
「おおっ、戻ったのか、マーガレット! ディロック!」
ガイロブスは、およそ彼の背ほどもある巨大な角材――おそらく、柱かなにか――を持って振り回し、襲い来る人の波を次から次へと打ち倒しているところであった。
「手伝ってくれ、いくらなんでも数が多すぎる!」
「……まあ、選択肢はないがね……」
半ば呆れながら言ったマーガレットは、とんがり帽子の位置を直すと、素早く杖を構えて詠唱を始めた。と同時、かたわらに立ち既に臨戦態勢のディロックへ、突撃の合図を出す。
刹那、ディロックは飛び出した。金属鎧を着ているとはとても思えぬほどの俊敏さで、巨躯ゆえに否応なしに道を塞ぐガイロブスの背をすり抜け、人の波へと飛びかかった。
ガイロブスが振り回す角材を体を最大限に捻って避け、反動の勢いを載せて暴徒を殴りつける。もう一体へ肘鉄を叩き込み、隙を埋めるべく足払いを放つ。暴徒らは、その全てを避けようともしなかった。
改めて接近すれば分かったが、どうやら以前相手にした暴徒と似た様な状態であるようだった。獣のような眼光、強く食いしばられた歯。強い感情に支配され、理性を失っているのだろう。
――恐るるに足らんな。
防御はしない、回避も行わない。そんな相手に、いかほどの脅威を見出せようか。数の暴力というのは常に恐ろしいが、それは対処する手段の無い場合のみである。
彼の射程範囲に入った者はほぼ例外なく強かに打ちのめされ、脳を揺さぶられ、足を払われた。徒手格闘は専門外なれど、避けも防ぎもせずただ殴りかかってくるだけの素人など相手にならなかった。
また、よしんばディロックの腕の届かぬ位置でも、後ろにはガイロブスが控えているのだ。恵まれた体格より振り回される角材はもはや暴力そのものである。
いくら数があろうが、鎧袖一触に暴徒を鎮圧できる二人が居る限り、決して後ろに立つマーガレットまでその手を伸ばすことは出来ない。もはや敗北などありえなかった。
そして、手当たり次第に殴りつけ、知的さを失った書生たちを次々に地面へと叩き伏せていく二人だったが、すぐにその終わりは訪れた。
瞬き一瞬、その間に視界を埋め尽くしていた暴徒の波が、全員一斉に倒れ付したのである。と同時、それはディロックにも飛来する。何かと言えば、眠気であった。
強制的に眠らせてくるような強い類ではないが、しかし、思考にはもやが掛かり、強く瞼を開けておかなければ、すぐさまに意識を持っていかれてしまうであろうほどに強い睡魔である。
事実、耐性がなかったのかガイロブスは既に眠たげに角材に寄りかかっている。困惑しているが、それよりも睡魔が強いのだろう。
頭を何度か強く振り、息を鋭く吐く。パン! と一度強く頬を叩くと、意識はすぐに回復した。
「ふむ、強力な精神波か。……しかし、その分魔法への耐性は下がっているようだな」
他人事のように呟くマーガレットであったが、暴徒とガイロブスを眠らせ、ディロックにまで影響を及ぼす魔法を放ったのは、ほかならぬ彼女であった。眠気を引き起こす『睡魔』の魔法であろう。
本来『睡魔』は極々低位の魔法であり、真正面から放たれても、大した効力は発揮しない。発動されると分かってさえいれば、すぐに抵抗すればいいだけだ。
しかし、意識の薄い者、術者に気付いていない者に対しては別だ。前者は暴徒達、後者はガイロブスのことである。
「大事ないかね?」
「ああ。……ガイロブスは寝たがな」
横から軽く揺らすと、すぐにガイロブスは眠りから覚めた。もとより、『睡魔』のもたらす眠気はほんの一時的なもので、少し経てばすぐにでも起こせるようになる程度のものである。
寝て起きたら戦闘が終わっていた状況に理解が追いつかないのか、のんきにあくびをするガイロブスを小突き、マーガレットは呆れたように問い掛けた。
「さて、何があったか聞こうか?」




