六話 クッキー
祈りの言葉が切れた頃合を見計らって、ディロックは礼拝堂内に入る。
朝のうっすらとした日の光を、飾りガラスが彩って、礼拝堂の床に投影している。それの奥で両膝を突いてひざまずき、手を小さく組んで、祈るモーリスが居た。
絵画の様な雰囲気さえある空間への侵入に、ディロックは一瞬ためらった。だが、決断的に足を踏み出せば、それ以上遠慮はない。一度心を決めてしまえば、自然と歩き方は旅のためのそれになっている。
つまり、無遠慮な歩き方と言うことだ。
適当な距離まで近寄ると、彼は近くの長椅子にどっかりと座り込んだ。声をかけようか、と彼は少し迷ったが、すぐにその考えを捨ててもう少し待つことにした。
それは彼女が、祈祷を終えてからも、しばしそのままの体勢で座っていたからだ。両膝を突き、手を組み、少し俯くという体勢のまま。そこに、自分から声をかけたりするのは、何とは無しにはばかられたのである。
しばらくして、彼女がようやく顔を上げた。日もそれなりに昇り、子供達もおきだしてくる時間だろう。ディロックの鍛錬よりは断然短い時間といえたが、それでも朝の礼拝の時間としては長かった。
彼女は立ち上がり、ゆったり振り返る。礼拝堂にディロックを見つけると、軽く頭を下げた。挨拶ではなく、謝罪だろう。モーリスは彼がずっと座って待っていたことに気付いていたのだ。
ディロックは大して驚くこともなく、横柄に手を振って返した。気にしていない、と。
「お待たせしました。どうかしましたか、ディロックさん」
「……いや、こちらこそ朝早くにすまない。少し聞きたい事があってな」
彼がエーファの村に来たのは他でもなく、届け物のためだ。何も急いでエーファを出たい訳ではないが、用事は早く済ませておくに越した事はない、というのが彼の持論である。
適当に足を組みながら、ディロックは率直に用件を述べた。口を回らせて損は無いが、今はおべんちゃらも世渡りの術も必要ない。
「ティックという猟師が何処に居るか知らないか?」
最悪、しらみつぶしに家をまわるという選択肢も無いわけではない。ただ、時間が掛かりすぎる上、ディロック自身の負担も大きい。だから、まずはモーリスに聞いてみようとは思っていたのだ。
聖職者の類――特に教会に住まう者達は、その職業柄、様々な人と出会いやすい。それは村や街の人間に限らず、様々な人間と出会うという事だ。現に、ディロックのように旅人と会うことも多い。
人を探すのなら、酒場よりも先に、教会に立ち寄るべきなのだ。
「ティックさんであれば、知っていますよ。何かご用件が?」
「ああ、届け物があるんだ」
ディロックは彼女に、渡し守から届け物を預かった事を簡潔に伝える。ただ、何を届けるのかと聞かれ、彼はなにやら装飾品のようだった、とだけ言った。
というより、それ以上の事をディロックは知らなかったのである。
モーリスはそれを聞いて、どこか納得したように頷く。それから、教会からの道のりをディロックに教えた。彼女の語り口は滑らかで、話すのが得意なのだろう、と彼は思った。
この村に来たばかりの彼にも分かりやすい様に、道に沿った建物の特徴などを伝えてくれたため、すぐに頭の中に地図を浮かんだ彼は、感謝の言葉を述べて教会を出た。
ふと、朝方見なかった空を見上げてみると、綺麗な青が透き通っているように見えた。太陽が少し上がり始めて、彼の視界をくらませる。手でそれを覆い隠すと、雲ひとつもないことを分かった。
――文句のつけようもない快晴である。
これから何かしようという時、こうして空が晴れ渡っていると、幸運な気分になるものだ。少し笑って、ディロックは歩き出した。
結局、到着した時間は昼前程度だろうか。モーリスによる案内があって尚、見慣れていない風景、歩き慣れていない道と言うものを歩くには、いささか時間が掛かったのだ。
羽の模様の看板が見えたら、その雑貨店を越してすぐの道を右に曲がり、そのまままっすぐ。そうして森を横切って行く形でしばらく歩くと、見えてきた。
それはこじんまりとした森小屋で、おそらく元々は休憩所か何かだったのだろう。苔むした石の基礎の上に、丸太で組まれたログハウスだ。ディロックが見る限り、モーリスがいっていたとおりの見た目をしていた。
満足げに頷いた彼は、そのままの歩調でズカズカと歩を進め、扉の前でようやく止まった。躊躇することもなく、扉を短く三回ノックする。木製の扉が心地の良い音を立てた。
それと同時、ディロックは声を上げた。
「朝早くにすまない、猟師ティックはここか? 届け物がある」
しかし、ノックと声掛けをしてしばらくたっても、扉が開く様子はなかった。彼が耳をすましても、息遣いの類は聞こえてこない。
ディロックは首を傾げてから、再度扉をノックしてみたが、やはり応答はない。留守のようだった。途方にくれながらも、居ないなら仕方が無い、とディロックは元来た道を戻ろうとした。
その時である。
「……?」
ひょうと風が吹いて、ディロックに不思議な感覚を覚えさせた。何か囁かれたような、そんな感覚を。風は彼を置き去りに、森のほうへと駆けて行った。
ディロックは無言のまま森の方を見る。なにやら、誘われているような、そんな気がしたのだ。彼は少し考えたようだったが、結局、一旦教会のほうへと戻る事にした。
誰とも分からない呼び声の主に、ディロックは軽く声を掛けた。また後で、と。なにやら手馴れている風で、それは周りから見れば滑稽にすら写っただろう。だが、彼はそれが自然な事だと思っていた。
なぜなら彼は、子供の頃から、そういった事象と付き合ってきたからだ。見えない誰かの声を聞いた事など、何百とあった。つまり、慣れていたのである。
無論、それが"普通"でないのは分かっている。それらの現象を語って、周りが気味悪がって距離を置いたこともあった。
子供心に、自分が人と違うものを聞いている、見ていると知るのは早かった。
そういった今までの経験から、彼はおよそ超自然的な何かが自分に語りかけている事は分かっていた。あれらを無視すると、時には不幸すら訪れるという事も。
しかし、誘いを受けた時、あれらの存在が恩恵を与えてくれる時もあると、ディロックは知っていた。珍しい花や、良い出会い、美しい光景に引き合わせてくれることもあったのである。
だから彼は、誘いを受ける事自体に、忌避感は存在しなかった。
ただ、それでも彼の理性は準備が必要だと訴え、彼もそれが正しいと思って一旦帰ることにした。
なにせ彼らの――あるいは、彼女らの――誘いは、たまにディロックの事を考えていない事があるからだ。寝起きだとか、丸腰の彼を、飢えた肉食動物の巣の前まで呼んだこともある。丸腰で向かうにはあまりにも不安だった。
教会に戻るまでの道で、彼はまだまばらな露店やらなにやらを眺めながら歩いた。小さな村だが、行商はあるのだろう。いくらか小さな風呂敷を広げている姿を見る事が出来た。
狩人や冒険者、旅人についで、朝が早いのが商人だ。特に、足で稼がなければならない行商人となればなおさらである。今日の売り上げが明日の飯、ひいては命となるのだから、無駄にしている時間などないのだ。
少しでも売るために、朝早くから売り、売れたら売れたで次の売り物も考えなければならない。時間はいくらあっても足りないものである。
朝早くで店を広げる彼らの足元を覗くと、装飾品や魔法の道具、或いは薬草や薬品、食料に至るまで様々なものが売っている。
ふとディロックは、そんな中から一つの商品を手に取った。
少し薄い麻袋に入ったそれは、茶色で、小さな円形をしていた。焼き菓子だろう。バターの良い匂いが鼻をくすぐった。
ディロックの記憶が正しければ、それは西の方の国で作られたクッキーという菓子だったはずだ。卵に小麦、牛乳、そして砂糖やバターも使うため、あまり安くはない。どちらかといえば高い嗜好品だ。
銀貨を二枚行商人に渡し、彼はそれを二袋受け取った。一瞬、背嚢に入れるか迷ったが、結局手に持って帰ることにした。
それなり高い買い物にはなったが、子供にあげる分にはいい物だ。ディロックは子供達が喜ぶかどうか考えながら、帰路に着いた。