五十五話 歴史書
後頭部に鈍痛が残る中、ディロックは国立図書館付近まで来ていた。
さすがに痛みを抱えたまま仕事やら調べ物をする気も無く、折角の本の国を楽しむべく来たのだが、しかしそれは適わなかった。
というのも、時間の問題である。彼が裏町に赴き、戻ってくるまでの時間は、彼の想像よりかなり経っていたのだ。
丁度目的地が閉まる所を目撃した為に、ディロックは適当に本屋をうろつく事に決めて、適当なところに立ち寄った。
こじんまりとした書店だったが、しかし、読書に興じられるスペースも一応あり、悪くない場所といえた。
図書館を森とするのであれば、書店はいわば、本の木立というべきだろうか。小さくても立派なもので、きちんと整頓され、分類された本は、第一印象に心地よさを感じるものだ。
彼がふらっと立ち寄ったのもまたその為であり、並べ方だけで店主の几帳面な性格が思われた。
古代語系統の書物もあったが、あまり似た様な本ばかり読むのもどこかもったいないと感じたディロックは、比較的安価な本をまず買って読んでみることにした。
他の国でも出回っているような本を避けると、自然、手にとった本は"五人の賢者"――建国者の物語に絞られた。
手に取ったのは、他の本と比べれば少し薄い本だった。歴史本、と言うよりは、それをかなり要約した本のようで、今に至るまでのざっくりとしたおとぎ話のようなものが乗っていた。
見る限りでは、五人の賢者全体の話と、それぞれの賢者に視点をあてた話の二つが大体の形になっているらしかった。
小さな読書スペースに座り込み、早速ディロックは買った本を広げた。まず読み始めたのは、"五人の賢者"という簡素かつ分かりやすい題名の本だった。
まず、物語は五人の知識人がそれぞれの国を離れるところから始まる。
第一の賢者にして"知の王"、レオウムド。政治学を専門としていた彼は、ある日その根本的な問題にぶつかり、それを当時の王にぶつけた事によって不興を買い、追放された。
第二の賢者であり、後にルィノカンドの初代宰相を務めるヒマイオスは、経済学の第一人者。商人の息子として生まれ、その知識を惜しまず使ったが、それゆえに疎まれ、詐欺に遭って破産。夜逃げすることになる。
第三の賢者ゴーレンは魔法学を専攻し、当時の魔法を大きく進歩させた。しかし、その研究結果を自分のものにしようとした弟子の裏切りにあって指名手配の身となり、国を出る。
第四の賢者は倫理学、及び法律学を学び、今も本の国に残る法大典を作り上げたメルホー。彼は自らが提案した法を疎んだ日陰者に殺されかけ、その身を惜しまれながらも逃亡する事となった。
そして、第五の賢者。悪名高き裏切り者、"名無しの賢者"である。哲学、あるいは文学を専攻していたといわれるが、ディロックが読んだ本には何を学んだかは掛かれていなかった。解明されていないので当たり前ではあったが。
彼らは国を負われてのち、ある森の中で出会い、建国を誓った。
まず最初に家を建て、それを中心に荒地を開拓し始めた。そうして"開拓した土地は貰える"という魅力でもって人を呼びこむと、本格的に国作りを始めた。
彼らはそれぞれに持つ優れた知識量を生かし、まだ国とも呼べぬ集落を切り盛りし、より繁栄させていった。
土地が人を呼び、人は富を生み、富は余裕をもたらした。その余裕を使い、五人の賢者達は国民に"学び"という概念をまず教えたのだという。
向き不向きはある。だが、知っていることと知らぬこと、零と一は大きな差があるのだと、そう主張して止まなかった彼ら。その延長線にあるのが、今の本の国ルィノカンドであるのだが――そこで、問題が起きた。
国としてようやく形に成ったルィノカンド。今でこそ王政だが、はるか昔は合議制であったことは広く知られている。
そんな中、五人のうちの一人、"名無しの賢者"は裏切りを企てた。国家転覆を招きかねない裏切りであった。何が共に国を作った四人の仲間を裏切らせたのかは、いまだ定かには成っていないとのことだ。
真っ先に狙われたのは、魔法学とともに魔法に長けていた第三の賢者ゴーレン。彼にしか出来ないような、不思議で大きな事件を起こし、彼に冤罪を着せて処刑させたのである。
次の対象は、旧友ゴーレンの処刑によって心が揺らいだ論理学者のメルホー。"名無しの賢者"は彼の不安定に成った心を、狡猾な言葉でもって打ち砕き、自殺に追い込んだとされている。
残り二人と成った賢者は、そこまで来てようやく異常を察知した。五人目の賢者は裏切りに感づいた事を知り、逃亡。
遺恨を残さぬべく彼を追い詰めた二人の賢者だったが、"名無しの賢者"はそれでも最後まで抵抗をやめなかった。
「おお、我が叡智を誰も理解せぬ! お前達無能なる者の手に掛かるより、この命、自ら断ってやろう!」
"名無しの賢者"は最後、追手に向かってそう言い放つと湖へと身を落とし、二度と上がってこなかったのだという。
そうして数が減った事により、一度として代替わりをしないままに合議制は崩壊し、残された二人の賢者は国を維持するために王と宰相に成った。
その流れが連綿と受け継がれ今に至る。
パタンと本を閉じる。上手く要約されていたからか、ディロックが斜め読みをしていたからかは分からないが、彼が本を読み終えたのは丁度日が落ち始めて、雲が橙色に染まり始めた頃合いだった。
それでも大分長いこと居座って居たことに代わりは無い。幸い、客もまばらで店主も迷惑そうにはしていないが、早めに出るに越した事はあるまい。
買った本を荷物に入れて外に出ると、東からの寒い風がディロックに吹きかかった。
彼はそれに少し驚きながら、荷物の位置を軽く正す。"本の国"は比較的南に位置している国であり、気候的にもあまり寒くは無く、季節も春であってあまり寒さとは縁がない。
とはいえ、こういう事もあるだろうと自分を納得させ、ディロックは歩き出した。
夜、宿の部屋で本を読みながら、ディロックはふと賢者の話を思い出していた。
歴史の造詣はあまり深くないが、それでも勝者によって歴史書が改変される事はままあるという。マーガレットが語るには、歴史書の内容は話半分に考えておいて、数を漁る事が大事なのだと。
とはいえ、まったくの虚偽という事は無い。大なり小なり真実があり、歴史学者の仕事はその真実を洗い出すことなのだから。
まず共通点で言えば、賢者達の物語については諸説あるが、詳細なところはわかっていない、という所。ディロックが買った歴史書や物語の大半は、ぼかして書いてあるところがあった。
それは主に"名無しの賢者"たる五人目についてで、名前、専攻していた学問、裏切りの理由など、かなり多くの部分が謎に包まれていて、ディロックは眉をひそめた。
というのも、その奇妙さに納得が行かなかったからだ。仮にも建国者の一人である以上、"本の国"たるルィノカンドで一切の記録が残っていないというのは、いささか不自然に感じるところがあったのだ。
だが今は大分夜遅くである。眠気もある、蝋燭代も馬鹿にできない。あまり長いこと考えるのはやめにしたらしく、ディロックは本を閉じた。暗闇の中、すこしつかれたような金色の瞳が浮かんでいる。
しかし共通点はまだある。それは、その歴史書の全てで、五人目は湖に身を投げているということだった。
「湖、か」
ディロックは、もやの掛かったぼんやりとした思考の中、頭に浮かんだ言葉を反芻した。だが、大した考察をする間もなく、意識はまどろみの中へと落ちた。




