五話 翌朝
前回、今回、次回の更新はそれぞれ二話同時投稿となっております。
前話の読み飛ばしにお気をつけください。
ディロックが教会に泊まる事になった日の翌朝のこと。
彼は何時もどおりの時刻――すなわち、日がまだ昇らないうちに起床した。旅人たるもの、常に歩いて村々を渡り歩くのが基本である。よって、一秒たりとも惰眠をむさぼって良い時間は無い。
朝のひんやりとした空気に、ディロックは僅かに身震いしたが、すぐに自分の身から布団を剥ぐと鎧下と足甲、篭手を身につけた。さすがの彼も、朝早くから重い胴鎧を着る気にはなれない。後は腰帯に曲刀を佩いて、朝の支度を終える。
ぐっと背を伸ばし、体を軽くほぐす。そうしてから彼はさて、と乱雑に背嚢を漁り出した。彼の胴体よりも一回り大きい背嚢からは、無数の品々が出てくる。一見するとただの鉄の棒にしか見えない魔法具や、不思議な形状のナイフ、珍しいものでは図鑑らしき分厚い本もあった。
そうして店を広げに広げた挙句、ディロックはその中いくらかの道具を選び、たたんであった背負い袋に詰め込んだ。それらは一つの例外も無く、不用意に触れては怪我をする道具の類だ。
ぐいと背負えば、ずっしりとした確かな重みが彼の肩に掛かった。少しばかり顔をしかめディロックだったが、不満を吐くような事も無く、そのまま歩き出した。
攻撃用の魔法具や予備の武器、危険なものなどいくらでも入っている。子供は何時の時代も好奇心旺盛なものであり、彼の背嚢に触らないとも限らない。子供達の安全を考えると、どうしても必要な配慮だった。
とはいっても、重量の大半を占める旅具の類は置いてある。普段背負っている背嚢のものと比べれば随分ましな重さである。
ディロックは子供達を起こさないように静かに部屋を出ると、僅かに聞こえたベッドの軋む音を背にまっすぐ外へと向かった。
まず朝起きたら、何を置いても鍛錬である。少なくとも、彼の師はそういった。こと、戦いの術と言うものは、何処へ向かおうとも要求されるものであるから、と。
盗賊、獣、幻獣、或いは妖鬼の類。旅の障害となりえる者達は何時だろうと無数に存在し、その全てが対話で納得し、帰ってくれることはない。となれば最後には、剣を取り戦うほかに道は無い。
その上、ディロックは一人旅をするのだ。長いあいだ野を渡り歩いたディロックが知ったのは、生存とは、すなわち強き者にのみ許された権利なのだと言うことであった。
一人でも負けないように、生きられるように、強くいなければならなかったのである。
黙々と教会を出てそのまま裏手に回ったディロックは、辺りに誰も居ない事を確認すると、背負い袋を適当に放った。今は必要ない品々は、教会の壁に当たって小さく音を立てた。
森林に囲まれた村ゆえの静謐な空気の中で、彼は酷く緊張していた。彼が剣を握る前は何時だってそうなる。根が臆病だからか、とディロックは自嘲の笑みを浮かべた。
彼は剣を握るのが――時と、場合にもよるが――嫌いだった。一人旅の中で、何度も戦わなければならない場面もあるとはいえ、元はといえば人を殺すための技だ。それらを覚える事に、忌避感を抱く事もあった。
剣を握り締める者の誰しもが、剣を握る事が好きなわけではない。ディロックもその一人だったのである。
ただ無心に振り続けた剣の腕は、何時の間にかそれなりのものになっていた。今こうして生きているのは、それの恩恵が大きかった。
一つ深呼吸をして、ディロックは心を落ち着かせた。そうして目を瞑り、腰に佩いた曲刀へ手を伸ばす。柄に巻かれた滑り止めの革が、彼につるりとした感覚を覚えさせる。
だが両の手で握りこめば、巻いた革が彼の手に馴染み、簡単には離れない。彼は凪いだ心でそれを感じ取っていた。
そして、ついに鞘から、勢い良く曲刀が引き抜かれた。
僅かに上った朝日をキラリと反射したそれこそ、正に刃。片刃のそれをひるがえし、ディロックは一歩踏み込んで袈裟懸けにそれを振り下ろした。
刃が風を裂いて唸る。ヒュウと鳴ったそれは、彼の思い通りの軌跡を描いており、ディロックは更に踏み込んでもう一閃放った。返す刀で振られた剣が再び空を舞い、朝方の冷たい空気を切り裂いてゆく。
おそれるべきは、剣閃の鋭さではない。動きの素早さである。今の動きをもし村人の誰かが見ていたとしても、彼がどういう風に剣を振ったのか、見て取れはしなかっただろう。それほどまでの速さだ。
剣豪のごとく残像すら、という領域に居るわけではない。だが、一山いくらの戦士では到底太刀打ちできない事は確かだ。
たった二閃で、既に辺りは彼の刃が統べる領域と化し、心は剣士のそれへと一息に変わって行く。
また一振り、大上段に剣を振るう。確かな鉄の重みが手へ、腕へ、そして肩へ伝わってゆくのを、ディロックは静かに感じた。振り下ろした剣を手の内でくるりと回して逆向きに、今度は下から上へ。
そのまま続けて、剣を振るい、刃が空を斬る。袈裟懸け、上段、逆袈裟懸けから、斜め切り上げにつなげ、勢いをそのままに体を反転させて突き。その剣筋に迷いは無く、剣は振るわれるままに空を裂いて行く。
そこに一切の余計な感情は存在しない。
自分の腕を過信せず、己が力を誇る様子もなく、ただ剣を振るい続けるディロックが立っていた。
鍛錬する事しばらく、ようやく太陽も地平のかなたより顔を見せた頃あいになった。
このぐらいでいいか、と体に浮かんだ汗を軽く拭いながら、ディロックはようやく曲刀を鞘にはめた。留め金を閉じるパチリという音に、ようやく雰囲気が平素の彼のそれへと戻って行く。剣士ではなく、旅人の彼のものへ。
「……ん?」
そこで、彼は不意に自分に向けられた視線に気が付いた。そちらに目を向けると、子供が一人、教会の角から顔だけを見せてこちらを見ていた。
ディロックが覚えている限りでは、たしかエルトランドという名前の子供だ。年長の子供達の一人で、濃い赤髪の気が強そうな少年だ。緊張した様子で挨拶していた子供の一人だったせいか、良く覚えていたのである。
目を向けられたエルトランドは、ハッとしたようにびくりと震え、そのまま顔を引っ込めた。同時に、小さく軽い足音がゆっくりと遠ざかっていく。
起こしてしまったのだろうか。ディロックは首をかしげたが、分かるはずも無い。頭を軽く振って思考を追い出すと、先ほど放り投げた背負い袋をまたひょいと担ぎ、ディロックは少年の後を追う形で教会の中へ戻った。
中では、丁度モーリスが少し眠たげにしながら、調理場から出てきたところだった。彼女はディロックに気づくと、少しばかり驚いた様子を見せてから、おはようございます、と頭を小さく下げた。
「ああ……おはよう」
ディロックも軽く会釈を返すと、入れ違う形で調理場へと向かった。そして、部屋の端においてあった水がめから水をすくい、そのまま顔に当てる。ひんやりとした感覚が、彼の中に残っていた寝起きのぼんやりとした意識を吹き飛ばして行く。
そうして一息吐くと、ディロックは踵を返して、また礼拝堂へ向かった。モーリスに聞くべき事があったのを思い出したのだ。
しかし、彼は礼拝堂に入る一歩手前で停止する。思い直したのか、踏み出そうした足を引っ込めると、そのまま近くの壁にもたれかかった。静かに耳を澄ませば、静かな、しかし神聖な、祈りの言葉が聞こえてきた。
朝の礼拝だろう。明確に聞こえるほどの音量ではなかったが、声の雰囲気から察する事は出来た。
「……邪魔するのも、申し訳ないし、な」
言い訳がましく呟くと、ディロックは目を閉じる。そうしてしばらく、モーリスの祈祷をぼんやりと聞いていた。