四十二話 魔女と旅人
パラパラ、と本を捲る音だけが静かに響いていた。
人の背より何倍も大きい本棚、そしてその大きさの棚にふさわしい量の書籍が収められたそこの名は"本の国"と謳われる王国、ルィノカンドが首都に位置した王立大図書館であった。
優に万を超える数の書籍が貯蓄されている図書館であり、知識の宝物殿ともいえる場所になる。その大量の知を求め、日々多くの学者や書生、魔法使いや、時には冒険者たちも来る。
今日もそういった者たちが本を読み、書き写したりしている中、珍しい訪問者が人目を集めていた。それは、椅子に座り、何冊かの本を机の上に雑多に積み上げたまま、古代語についての本を読んでいる男だった。
ここ大図書館に居る時点で、本を読める人物というのは驚かれない。書籍が多く存在するルィノカンドが、国民の識字率を高水準で保っているからだ。
しかしながら、その男は明らかにルィノカンド国民ではない。
ごく短く切りそろえられた銀の髪と、暗褐色の肌は、もっとずっと南部の、少数民族の出である事を示している。それに加え、金の光を宿した目は、何処に行ってもあまり見ない類のものだ。
今は武器や鎧こそ帯びていないが、鋭く鍛え上げられた体は、あきらかに戦うもののそれである。
その男――旅人ディロックは、今本を一冊読み終え、それを閉じた。そして、積み上げられた本の上にその本を置くと、ふぅとため息を一つついた。
彼が積んだ本は、全て古代語についての文献である。しかしその中に古いものはなく、ほとんどが最新版と言っても差し支えないほど新しい類のものであった。
彼はそれらの本をそのままに、何度もページを付け足した後のある手帳を取り出し、おもむろに何かしらを書き込んでいく。
するとそこに、女が一人声を掛けた。
「なあ、君」
ディロックは少したち、自分以外近くにいないことを確認して、ようやく女が自分に問い掛けたのだと気付いた。
「……? 俺か?」
手帳から顔を上げると、そこには女が一人座っていた。
不思議と不健康には見えない白さの肌をした女で、傍らには杖が置かれ、服装はほぼ全身を隠すゆったりとした黒いローブに、先端の曲がったとんがり帽子を被っている。
その格好から見て、まず間違いなく魔法使いだろう。目は少し垂れており、どこか物静かな雰囲気がある。ただそれは、対象を観察する研究者のような雰囲気のように見えた。
女は彼の問いに頷くと、彼が積んだ本の中から一冊を指差した。
「そこの本を読みたいんだが、借りてもいいかね?」
「あ、ああ、すまん。もう読み終えているから、好きにしてくれ」
頭を小さく指で掻き、ディロックは上に積んでいた本をどけると、女はひょいと手を伸ばして目的の本を手にとった。
その本は古代語ではなく、主に古代の文化について取り扱った文献であった。彼は、その中に言語の項目があったために読んだのだが、それ以外はすっとばしていた。
ディロックが本を見て、なにげなく中身を思い出していると、女が口を開いた。
「君も古代の文化に興味があるのかね? 古き時代についての本が多いようだが」
また手帳の編纂に入ろうとした彼は、しかし問い掛けに答えるべく一旦手帳を閉じた。別段急いでいるわけでもなく、苛立ちなどは特になかった。
「いいや。俺は古代語の方だ」
「ふむ。という事は、この本の第三項が目当てだったのだね、残念だ」
女は溜息をついたが、そこまで落胆した様子もなく、再びディロックの方へ向き直る。その翡翠色の目にはどことなく、興味の光がある様に見えた。
「しかし古代語学とは、またずいぶん珍しい」
そうか? とディロックが問い掛ける。女はそうとも、と大きく頷きながら答えた。そして文化学と同じほどにはな、と付け足しす。
古代文化は興味深い。ディロックもそれは思っていた。
古代語を知る中で、彼は何度も古代の文化についての知識に触れていた。言語と言うのはその国や時代の文化に深く関係しており、言語を知るという事は文化を知るという事に他ならない。
たとえば獣と共存していた古グディラ王期には、自然信仰に近い霊獣への尊敬があった。
それを背景に、古代にグディラ王国を統べていた王は、霊獣一体一体をそれぞれ自らと同じ王として扱っていたという。人と獣が、まさに同じ立場にいたのである。
しかし、面白かろうとそうでなかろうと、一般人には縁遠い文学でもある。結論へと同時に行き着いたのか、彼は女と全く同じタイミングで溜息をついた。話が合うものが少ないというのは、いささか悲しい話であった。
同じ時、同じ結論にいたって溜息をついた二人は、互いに見詰め合うと、ふとした拍子に笑った。
「……私はマーガレットという。なあ御仁、名は何と言うのだね」
「俺はディロック。旅人だ」
よろしく、とどちらともなく言う。二人は握手しあって、その後少し、互いに学んだこと、知ったことについて話した。結局、深く関係のある文化学と語学による話題は、日が傾くまで尽きなかった。
「おや、もうこんな時間かね」
しばらく話し込んでいた二人だったが、ふとマーガレットが窓の方を見た。比較的大きな濁りガラスの向こう側には、茜色に染め上げられた空が移っていた。
夕焼けがぼんやりと差し込んで、大図書館内を照らす。時間が時間なため、気付くともう、ディロックとマーガレット以外には、ほとんど人はいなかった。
ずいぶん話し込んでしまった。これほど楽しい会話は久しく無く、彼も彼女も、どこか満足した顔で微笑んでいた。
「ふむ。まぁ、ここいらで一区切りつけた方が良さそうであるし、今日はここらで。明日も来る予定かね?」
ディロックは少し考え込んだ。図書館に来たのは、古代語の最新文献を読むためだが、この国に来た理由がそれ以外には特に無い。もとより目指すもののない旅であるし、気楽なものである。
明日も特に用事は無い。しいて言うなら路銀の問題がいくらかある程度だが、日雇いで多少は稼げる。幸い、ルィノカンドはそれなりに富んだ国であり、仕事も多い。
であれば、それほど急ぐ理由も用件もない。
「ああ、来る。まだいくらか読んでいない資料もあるからな」
「そうかね、そうかね」
彼女は嬉しげに何度か頷くと、おもむろに席を立った。杖は何時の間にかその手の内にあり、本はひとりでに浮かんだかと思うと、自ら本来あるべき場所へと戻っていった。
「では、私は先に失礼する。また明日だな、ディロック」
少し驚きながら、ディロックもまた立ち上がると、自分の本を戻しに歩き出した。閉館時間はそろそろだろう。迷惑をかけるのは本意ではなく、彼は少し急いで本を片付ける。
本を全てもとある場所へと戻り、荷物を取りに戻る頃には、マーガレットはもういなくなっていた。だが、あの言い草であれば、明日ほどにまた会う事になるだろう。
いい話し相手が出来た。ディロックは無意識に微笑みながら、大図書館を後にする。すると真後ろで、扉に鍵をかける音が聞こえた。
本当に閉館間近だったらしい。彼の微笑みはそっと苦笑いへとかわった。さて、これからどうしようか。ディロックは口だけを動かしてそう呟く。
しばらくは骨休めの期間にしてもいいかもしれない。なにせ、ここ一週間と五日ほど、ずっと歩いてこの国へときたのだ。もとより急ぐ旅でもない。少しゆっくりとしていこう。
ぐい、と彼は背を伸ばした。なんにせよ、明日からだ。夕日から風が吹いて、暖かな空気が彼の体を撫でて行った。




