三十九話 剣士ディロック
それは異形だった。先ほどから飛来していた無数の八面体と比べれば幾分かましではあったが、常識から逸脱した姿である事に大差は無い。
森の奥から近づいて――否、歩いてくるそれは、およそ人型をしていると言っていい。だが、その人型はやはり、八面体の集合で出来ていた。
それは大雑把な立方体である八面体の集合であるにもかかわらず、確かに人型だ。腕が二本、足が二本。それが胴体で繋がって、頭がある。
しかもただ繋げただけではない。一回り大きい部分がいくつかあり、それが筋肉のある部分を模しているのだと彼は直感的に理解した。
頭だけは赤黒い八面体が一つ載っているだけであり、それが司令塔の役割を果たしている用でもあった。でなければ、あれほど人を模した動きは出来ないだろう。
両腕の先端には二つの武器のように複雑に組み合い変形した八面体が据えられている。右腕は赤黒い沿った刃が、左腕は人の頭よりも太い、メイスのようになった八面体がある。
それは『黒曜石』が、誰を模してその姿を取ったのかを明確に示していた。
「俺と……」
「あたし、か」
二人が思わず呟く。木々の隙間にひしめいていた結晶体は、ディロックとユノーグ、そして冒険者の活躍により一つ残らずなくなっている。残っているのはもう、この人型をした八面体だけだ。
しかし、数が少ないからといって侮れるのかといえば、答えは否。
左手だけになろうと、その数を大きく減らそうと、『黒曜石』は仮にも伝説に語られる怪物なのだ。であれば、数が減った分強力になったと考えるべきである。
もう余裕は無い。先ほどまで戦っていた冒険者も、もう二人を残して全滅している。何名がまだ生きているのかも分からない。最も強兵たるユノーグもディロックも疲弊しきっていた。
「どうする? 逃げるかい?」
ユノーグがどこか挑戦的に笑いながら、彼へ問い掛けた。
正直、彼も逃げたい気分はあった。一度態勢を立て直すべきではないのか。一度、体や舞台を万全の状態に戻すべきではないのか。そんな思いが彼の中に巡って居たからだ。
だが、それが出来ない事も同時に分かっていた。目の前の怪物が逃がしてくれるとは思えないのもあったが、なによりエーファ村への道を示してしまう可能性も危惧していた。
『黒曜石』と対峙しながらしばし瞑目した後、ディロックは腰に吊るしていた兜を片手で握りながら言った。
「ここで仕留める。……援護を頼めるか」
「あいよ。まぁ、死んだら死んだで、そのときさ」
彼女は鉄槌を肩に担ぎ直すと、にかりと笑った。それを横目に、ディロックは手に取った兜を被る。それは彼にとって、覚悟の証明だった。
彼は、剣を握ることが嫌いだった。師匠より受け継いだ剣術ではあったが、そこに愛着や執着は無い。
何故なら彼にとっての剣とは、本当に大切なものだけは守れなかった力であるからに他ならない。俺の剣では守れないのではないか。そんな、一種のトラウマのようなものが、ディロックの剣の妨げになっていた。
だが、その力を振るうときは来る。長い旅の中で、何度も経験したことだった。だから、ディロックは一つ、自分に制約をかけたのだ。
――この兜を被る時だけ、旅人ディロックを捨て、剣士ディロックとなろう。
それは許しであり、呪いである。
常は、剣に迷いを持つディロックでいい。その代わり、真に剣を振るわなければならない時、迷いを捨てた剣士ディロックになることを決められているのだから。
今の彼に無駄な思考は無い。刃のように、己を研ぎ済まし、ただ剣を振るうために心を水面のように穏やかで無感動なものへと変えていく。
そこにいるのはもう、流浪の旅人などではなかった。敵を倒すと決め、覚悟を持って剣を振るう、ただ一人の剣士だけである。
「……行くぞ、ユノーグ。遅れるなよ」
「あんたこそ、しっかりやりなよ」
火花が舞い散る。
甲高い金属音と共に、怪物の刃とディロックの剣がぶつかり合う。一合、二合、三合、四合。段々とその速度を上げながら、何度も何度も打ち合わせていく。
こと此処にいたって、新たに芽生えたであろう『黒曜石』の能力は厄介だ。学習し強くなる。その性質により、剣を打ち合わせるたび、段々と刃が早くなっていくのが彼には分かった。
一撃、一撃、また一撃。更に早くなる斬撃にあわせ、彼もまた曲刀を早く振るうが、このままでは負けると直感が囁いていた。
このまま剣が早くなり続けるだけでは、いずれディロックの方に限界が来る。ただの一度でも剣戟に失敗すれば、一瞬のうちに八つ裂きにされることは目に見えている。
だからこそディロックは、怪物の刃を一撃受け流すと、一歩大きく退いた。瞬間、怪物の左腕による追撃が放たれた。
ゴウと音を立てて迫る打撃は、その速度と重量をもって、ディロックを殺すに余りある一撃だ。しかし、それが彼へと届く事は無かった。
その必殺の打撃の前に、鋼の鎚がたたきつけられる。凄まじい轟音と共に二つの打撃はせめぎあい、最終的に鉄槌の方が打ち勝った。怪物の左腕が大きく弾かれる。
無論、ユノーグによるものである。一歩大きく退いた彼の背中を遮蔽にするように、身を低くして迫っていたのだ。
その隙を逃がさず、一瞬のうちに再び駆け出したディロックがまず一撃、すれ違い様に怪物の脳天に斬撃を叩き込む。銀色の刃が、確かにその頭部を打ち据えたが、しかし両断には至らなかった。
「浅いか」
「咄嗟に避けやがった!」
ユノーグが愚痴をもらしながら、大上段から更に一撃を叩き込む。しかし今度は、左腕の鎚がそれを防ぎ、右手の刃がそのはらわたを抉らんと振りぬかれる。
だが、それもユノーグには命中しない。今度はディロックが、その刃の前に飛び出して、剣をもってその軌道を逸らしたからだ。
刃が逸らされ、地面に突き刺さった一瞬をかいくぐり、ユノーグがもう一度大きく鉄槌を振りかぶる。
凄まじい膂力を持ってぶんと振り切られた鎚は、守ろうと掲げられた槌の左手を押し切り、頭部に確かな打撃を与える。ビシビシと明確な皹が入った『黒曜石』だが、しかしまだその頭部は砕けない。
一瞬できた空白に、怪物が動く。槌と刃が、正面に捉えたユノーグ挟み込むように迫ると、彼女は素早く身を引いた。頭部へと命中しそこなった攻撃は、わずかにユノーグの頬を裂くだけにとどまった。
――再生などはしないようだ。
次に狙われだしたディロックは、攻撃を一撃一撃丁寧にいなしがならそう思考した。頭部に入った二撃は確かな打撃であり、ダメージとしてまだ残っており、頭部を構成する八面体が直っていく様子は無い。
となればそこを突くほか無いのだが、次の一撃をそう易々と入れさせてくれるとは思えない。先の即席連携も、もう学習され、対策はされるだろう。それほどに、『黒曜石』の学習速度はすさまじいものがあった。
彼はちらりとユノーグに目配せをする。すでに魔法薬を飲み干し、体中の怪我を癒した彼女は、薬瓶を投げ捨てながら小さく頷いた。やるしかない。
機会は一度きり、運任せといえば運任せ。今まで学習された全ての攻撃を上回る一撃を繰り出す。失敗すれば全ては水泡に帰し、調査団は全滅、エーファ村もそう遠くないうちに地図から消えることになる。
やるなら、悔いの無いように。ディロックは集中を始めた。兜の奥、金色の目が見開かれる。




