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青空旅行記  作者: 秋月
一章 埋骨の森
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二十八話 急変

 何時もどおり朝早くに目覚めたディロックは、ひとまず何も盗まれてなどいないかを確認する。今、この物騒な状況の森で盗みが働けるようなものなど居ないとは思ったが、一種の習慣だ。幸い、何も盗まれては居なかった。


 ロミリアはまだ寝ていたが、ディロックは構うことなく石碑の翻訳を始めた。残念がるかも知れないが、少女がおきるのを待って帰る時間が遅れれば、また怪物が出てこないとも限らない。


 そもそも、この遺跡に炎の霊薬で出来た魔法生物が襲ってこないだけで既に奇跡に近いのだ。遅くなってから――つまり、怪物たちの跋扈(ばっこ)する時間になってからの行動は避けたい。


 となると、日が落ちる前に戻るか、あるいは日を明かすしかない。そして、今日中に帰らねばならない身の二人としては、後者の選択肢は無い。翻訳文は日が暮れても、戻ってからであれば確認できる。


 朝の日差しが神殿に差し込んでくると、石の床に刻まれた自然が生き生きとするようにも感じられた。


 それが彫刻家の技量を物語っているのか、それとも単に雰囲気に飲まれているだけなのか、ディロックには判断がつかなかった。


 どこかから、チチチチ、と鳥の鳴く声が聞こえる。自然な風に合わせて、森が見た目よりもずっとしずかに揺れた。穏やかに見えても、封印されし混沌をを内包しているのだから、森とは末恐ろしいものである。


 石碑の翻訳は随分進んだ。残りは三行ほどだ。その内容もさほど難しくも無く、おそらく昼前には終わるだろうと思える程度のものである。


 今までの文の内容を整理するならば、やはり伝記と言うよりは物語に近い。脚色とも取れる部分が多いものの、おおよそ本人が書いたというよりは、それを見ていた他人が書いたような、迂遠な表現も多く見られたからだ。


 であれば、誰それがこういう事をした、と言うのを淡々と彫ってあるのか? それは否である。少なくともディロックの目には、石碑に刻まれた文字の中に、鬼気迫るといっても過言ではない感情の露出が見えていた。


 尋常な刻み込みとは思えなかったのだ。ただの一言も残し損ねてなるものかと言わんばかりの、執念を感じる力強い彫り方であった。それが文面から感じる教養や高貴さからは想像もつかないようなものであったことに違いは無い。


 何があったのだろうか。無意識にでも意識的にでも、高貴さを感じさせ、かつ教養高い文章を書く人間が、恐ろしいほど強い筆跡で石碑を彫るのだ。よほどの事があったのは想像に(かた)くない。


 ――まぁ、解読が終われば、わかるか?


 ディロックは、頭をがしがしと掻いて難しい疑問を追い払うと、古グディラ語の碑文と辞書をいくとどなく交互に確認して、翻訳して行った。


 彼が最後の文を終えるぐらいになって、ロミリアもようやく起きて来た。時間はもう大分過ぎていて、昼前といえる時間になっていた。随分遅かったが、昨日はそれなりに遅くまで起きていたので、それが原因なのだろう。


 それに、ロミリアはまだ子供だ。遅くに寝て起きるのは良くない事とはいえ、自分の責任もある。一日ぐらいかまわないだろうとディロックは考えていた。


「おはよう。よく眠れたか?」

「……おはようございます」


 少し眠気の残った声で、少女が返事した。隣まで歩いてくる気配がしたので、ディロックが隣に座るよう促すと、特に抵抗もなく横にしゃがみこんだ。


 しかし、どことなく不機嫌にも見える顔をしていたので、ペンを走らせながら、彼はどうした、と問いかけた。すると、少女はぶるりと寒気がしたかのように震えてから、ディロックに言った。


「変な……変な、夢を見たんです」

「夢?」


 不思議な夢をつい先日見たばかりのディロックは、ひょいと頭を上げてロミリアの方を見た。まさか、関係があるものだろうか、と少女の顔を覗き込むと、ロミリアは青い顔をして震えていた。


「鹿のような動物が……黒いものに蝕まれて、苦しんでいたんです。振り払おうとして、でも、黒いものの中に飲み込まれて――」


 がたがたと、段々強く震え出したロミリアの肩をディロックが掴む。ハッとしたように、少女がいつの間にかうつむいていた顔を上げると、震えもまた消えて行った。


「……わかった。翻訳もそろそろ終わる、それまで待て。終わったら、すぐに帰ろう」


 ロミリアはまだ青い顔ではあったが、その言葉に小さく頷いた。よし、と小さな声で呟いたディロックは、少女に隣に居るように言ってから、先ほどよりもずっと急いで手を動かした。


 不安げな少女をおもんぱかって、といったが、どちらかといえばディロック自身の不安もあった。何せ、その不思議な夢というものに、覚えがあったからだ。鹿のような動物も、あの森の奥にいた霊獣のことだろうと辺りはついていた。


 となると、混沌の軍勢の復活が近いのではないか? と思ったのである。あるいは、なんらかの要因で霊獣の力が弱り始めている可能性もある。どれも捨てきれるものではない。


 それに加えて、夢を見た二人は、ともに精霊の声が聞こえる者である。真偽の程は定かではないものの、精霊を知る者の逸話は夢が共通点となっている。偶然とは思えない。


 だからこそ、その夢がとても重要な意味を秘めているのではないかと、ディロックは考えたのである。


 急いで翻訳を終えたディロックは、翻訳文を書き記した羊皮紙の最後の一枚を背嚢の中へと叩き込み、素早く旅具をしまって、村の方へと歩き出した。ロミリアも文句一つつけることなく、それについて歩き始める。


 やや早足ながら、ディロックの足がロミリアも充分付いて行ける速度なのは、無論ロミリアのことを思いやってのことである。それでも少し早めではあったが、いざという時は自分が背負って走ればいいと考えていた。


 森はざわめき一つ無い。もう昼頃だというの、どんよりとした雲が空を覆い始めて、ゆったりとした薄暗さが漂い始めていた。


 それを見たディロックもまた、筆舌に尽くしがたい不安に襲われている気がして、寒気を振り払う様に力強く歩く。正直に言えば走り出したい気分ではあったが、そこは少女のことを考えて止めていた。


 怪物たちもまだ森に居る。増えていないとも限らない。もしくは、それ以外の脅威に当たる可能性もある。少女一人をほっぽって森を歩かせるわけには行かなかった。


「ディ、ディロックさん……」


 自分を呼ぶ声がして、歩きをとめないままディロックは背を振り返った。


 すると、不安げにでも歩いていた少女は、しかしディロックの後ろ四歩ほどの位置で止まっていた。


「どうした?」

「あ……あれ……」


 彼の問いかけに、ロミリアは震える指をゆっくりと動かして空を指差した。ディロックの目がそれを追いかけると、少女が見せたかったであろう物は簡単に分かった。


「……少なくとも、いいものではなさそうだな」


 空には、ぼんやりとした薄暗さに代わり、明確に具現化された闇の霧が、森の奥からディロックたちの方へ向けて広がり始めていた。


 ディロックは許可もなくロミリアの体を抱えると、一も二も無く走り出した。少女の悲鳴こそ聞こえたが、そんなことを気にしている余裕も無い。


 矢の様に駆け出したディロックは、来た道と方角を思い出しながら、枝を蹴り、幹を蹴り、道など知ったことかといわんばかりに森を走破した。


 暗闇を突き放せこそできないものの、一定の距離を保ちながら村までの道程を走りぬけたディロックとロミリア。しかし、そこにもまた、驚く光景が広がっていた。


 少女は呆然とした様子で、悲鳴のような声を漏らした


「村が……!?」


 まっくろで、しかし妙なぬめり気のある液体。炎の霊薬。


 それで出来た魔法人形の大群が、明らかな意思を持って、村を取り囲んでいるのが見えたのである。ディロックはただならぬその事態に、一瞬足を止めた。

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