二十七話 精霊
非常に遅れてしまい、申し訳ございません。
言い訳に鳴りますが、若干スランプに陥っておりました……。
何事もなく時間が過ぎ、日は滔々と暮れていった。
日が落ち、暗くなると、ディロックも作業の手を止めた。多少闇が見通せるとはいえ、昼が主な活動帯である人間な事に代わりは無い。いくらなんでも、真っ暗闇の中、石碑を見て翻訳を続けるのは無理があった。
そういうわけで、ディロックは火の番をするべく、焚き火の前へと座り込んだ。昨日の夜つけたばかりの火は、枯れた枝を餌に燃えていた。
パチリ、パチリと何度か火が爆ぜる。その度、暗闇の中で光が大きくなり、そしてまた縮む。それを何度か繰り返しながら、火はそこに佇んでいた。
ディロックはぼんやりとその様相を見ながら、時折乾いた枝を放り込む。パチリ、とまた音がして、炎の中で枝が折れて落ちた。ふと見れば、ロミリアもまた、火が燃えるのを見ていた。
「どうした。……眠れないか?」
「いえ、その……魔法で点けた火、なんですよね? 点いた後は、普通の火と変わりないのかな、なんて……」
目を火から背けないままに返事したロミリアに、ディロックは近づきすぎるなよ、と一言だけ呟いて横になった。
眠る気はさらさら無かったが、明日はそれなりに忙しくなる。翻訳作業が終わり次第、教会へと戻る。ほとんど歩き詰めになる事は明らかであり、少しでも体力を回復させて起きたかったのであった。
目もつぶらず、ただぼんやりと夜空を眺めた。
空には無数の星々がきらめいている。焚き火のすぐ横である為に少し明るいが、森の奥と言うこともあってか、壮大さは失われていない。
とても手の届かない位置にある星を見ていると、たまに形を見る。それは、動物だったり、物だったり、あるいは人だったりする。
星座、という程のものではない。強く光っている星と星を繋げると、時折そうした形が浮かんでくるのだ。
あれは蜘蛛だろうか、なんて考えるのは、意外につまらなくはない。こうして時間を潰しているだけで、朝はすぐにでも来そうだった。
そんなディロックの傍で、とん、軽い音がした。
どうもこちらを見ているらしい、と思い当たった彼は、小さく嘆息し、それから口を開いた。
「どうした?」
びくり、と隣で動く気配がした。
空を見上げている為、彼には少女が見えない。見えないが、すぐとなりに居る相手の動きぐらいは読める。師匠に、そういう風に鍛えられたのだ。
しばらく、風だけが音を立てていた。ザザザ、と森の木の葉がざわめいているのが聞こえる。ディロックはじっと待った。何も無いなら何も無いで、別に良かった。
パキリ。また、火が爆ぜた。
「……その……変なことを、聞いてもいいですか?」
二分ほどたってから、もごもごと口ごもりながら、少女はようやく口を開いた。彼が小さく頷いて続きを促すと、ロミリアはためらいがちではあったが、ぼそぼそと話し始める。
「私……時々、誰かに、話しかけられるんです。えと……見えない、誰かに」
"見えない誰か"? ディロックは無言のまま、頭の中でその言葉を復唱した。なにやら抽象的な言葉ではあるが、彼もまた、その事象に覚えがあった。
何も言わない彼へ、ロミリアは話を続けた。
少女いわく、それは、体を清めている時。それは、何かを食べている時。それは、本を読んでいる時。場所も、時間も、状況も関係なく、それは聞こえてくるのだという。
「本には、その、載ってなかったんです。ディロックさん、物知りですし……何か、分からないかな、って」
「……ふむ」
何気なく顎を指でなぞりながら、ディロックはひょいと起き上がった。火が爆ぜるのを見て、重ねて置いた枯れ木をもう一つ放り込む。火に飲み込まれた枝の影が、火の揺らぎとともに左右に揺れた。
「いくつか考えられるな。一つ、妖精のいたずら」
広く世界中へ分布している種たる妖精は、人族種のように多くの種族がおり、魔法の力を扱う。
彼らの中には、種族的にそういった"いたずら"が好きで、その為にまじないや魔法を使う者達も居る。
いたずら妖精で代表的なものといえば、手のひらほどの大きさしかない人型をして、トンボのような羽がついたピクシーなどだ。
ただ、これは無いだろうとディロックは思っていた。彼らはいたずら好きだが、自分がやったという証拠を何かしら残す。燐粉に似た何かであったり、印であったりと様々だが、必ずそれらを残すのだ。
ロミリアほどのさとい少女が、それを見逃すとは思えなかったのである。
「二つ、岩の亀裂なんかに風が通った時の音が、偶然声に聞こえた」
自然とは時折驚く様な形相を人に見せる。天を突き破らんばかりに伸びた山があったかと思えば、反対に、地の底まで貫いたような大穴が開いていることもある。
それと同じように、岩の亀裂、崖に出来た自然な洞穴、そういったものに風が通った時、音が鳴るものが存在する。
場所や穴の形によって音は様々なのだが、その音を、竜種の鳴き声だと勘違いした旅人の笑い話なんかがあるぐらいに一般的といえるものだ。これをロミリアが聞き間違えたとする説である。
だが、これも無いだろうとは思っていた。そもそもこれは、岩場などがある事が大前提であり、パッと見ただけだが、教会の近くでは岩場は確認できなかった。
それに加えて、そもそもこれは、誰にでも聞こえる現象だ。離れている岩場から聞こえるほど大きな音であれば、そもそも誰もが聞こえているはずである。
「それと、もう一つ」
そこまで言い切ってから、ディロックはふと黙った。
何か聞こえた様な気がしたのだ。目だけでそちらを注意していると、少ししてからロミリアもまた、弾かれたようにそちらを見た。
「……今、何か……?」
「ロミリアも聞こえたか?」
ディロックが目を少女の方に戻すと、ロミリアも、ためらいがちに彼の方へ振り返った。
「それで、いいそびれたな。三つ目の可能性は……」
――いや、可能性という必要も無いだろう。
先ほどの少女の反応によって、彼の中では、"見えない声"の主とやらの正体は、ほぼ確定していた。
「いや、正体は……おそらくだが精霊だな」
パキリ、とまた火の中の枝が爆ぜる。見もせずに枝を放り込みながら、ディロックは風がひょうと吹いたのを見逃さなかった。
「……精霊、ですか?」
「ああ。実を言うと俺も、ロミリアと同じような声を幼い頃から聞いてきた。色んな文献も調べた。多分だが、間違いないだろう」
彼はそういうと、背嚢から一枚の紙を取り出した。手帳から乱雑に引き裂いたようなそれには、薄れた文字でかすかに"幻獣大典より引用"と書いてある。
メモ書きには、精霊のことが細やかに――とは言っても、あくまで伝承の類であり、おとぎ話に近いが――書いてあった。
「俺が経験してきた事象と照らし合わせても、ほぼ間違いないだろう」
返されたメモ書きを背嚢の中へ放り返し、ディロックはまたごろりと寝転んだ。星々はまだ、夜の帳を切り裂くように輝いていた。
「ディロックさんも……聞こえるの、ですか?」
「ああ、聞こえる。ロミリアと同じぐらいの頃からずっと聞いてきたし、付き合ってきた」
その声について行くたび、様々な事が起こる、とディロックは言った。そうして彼は、時間の許す限り、美しい風景とであったり、巨大な蜂の縄張りに放り込まれた事を語っていた。
じきに少女があくびをして、彼も自然と話をやめた。あまり夜更かしさせるのも良くない、と思ったのだ。眠気を我慢させるのも。
もう寝るように伝えると、少女は言われたとおり毛布を被りながら、こんな事を言った。
「じゃあ、私達が出会ったのも……精霊さんのおかげ、かもしれませんね」
しばらくすると、小さな寝息が聞こえてきた。何かを考えるように目を閉じていたディロックだったが、少女が眠って少ししてから、ふと口を開いた。
――そうかもな。
何もかも、偶然とは思えない。森へと誘われたロミリアとディロックが出会ったときの不自然な風もそうだ。
それに、彼は生まれてこの方長い事旅を続けてきたが、精霊の声を聞ける人間を自分以外に見たことが無かった。あるいは本当に、何かしらの理由で精霊が出会いを促したのかも知れなかった。




