二十六話 物語の石
朝、少女が起きる頃には、ディロックは既に翻訳を始めていた。散々泣きはらした顔を軽く拭って、ロミリアは彼の横へと座り込む。
「気分は」
ぼそりと呟かれた言葉に、ロミリアは一瞬びくりとして、彼のほうを向いた。依然として石碑に顔を向けたまま、彼はもう一度呟いた。
「楽になったか」
「あ……はい。その、ご迷惑をおかけしました」
いい、とディロックは返す。子供の涙一つ受け入れられずに、大人など名乗れない。
翻訳作業は単調で難解、そして退屈な作業とも思える。視線は石碑と手帳を往復し、一言も話す事は無い。しかし、少女はそれを飽きることもなく眺めていた。
時折立ち上がって周囲を歩いたり、石碑に触れてみたりはするものの、結局はディロックの隣へ座り、翻訳作業を眺め始める。
しかも、その顔に飽きは見えない。それは好奇心から来るものなのか、それともその一段階上のもの――探究心によるものなのか。
最初はそれでよかったのだが、不意に気になり始めたディロックは、ふとして手を止め、そのまま少女の方へ向いた。
「……その、楽しいのか?」
「え?」
きょとん、とロミリアは首をかしげた。少しして意味が分かったのか、どこか曖昧な様子ではあったものの、小さく頷いた。
不思議な少女だ、とディロックは改めて思う。過去についてはこの際おいておくとしても、翻訳作業に興味を持つ子供はそういない。
大抵は遊びやらなにやらに関心を持つ事が多い。時に本に興味を持つ子供もいるが、それも大抵は絵本などを読んでいるものだ。
しかしながら、ロミリアは遊びでも、ましてや絵本でもなく、退屈なばかり――座っている男が居て、その手元が動くだけ――の光景が続く地味な作業を楽しんでいるらしかった。
「なぜか、聞いても良いか?」
「……ええと、その。お姉ちゃんが、似たような事をしてて……見慣れてるんです。でも、見たことのない言葉だから、気になって」
――気になって。だから、見ていて楽しいのか。だとするなら、この少女は学者の方が向いているのかもしれないな。
ディロックはそうぼんやり思いながら、そうかと呟いて、また翻訳の作業へと戻った。
なんにせよ彼は、翻訳を続けなければならなかった。調査隊が来るまで、今日を含めて後二日しかないのだ。難解な古代語の翻訳を一日中して、間に合うかどうかと言ったところである。
ロミリアという少女の先が気になるところではあったが、今はそれどころではない。今彼に出来るのは、精々、魔法学者にでもなっているロミリアを思い浮かべてほくそ笑むぐらいの事だけだった。
時は過ぎて昼頃、ディロックもひとまず手を休めることにした。見れば、ちょうど日が直上に差し掛かるほどだろうか。今日の日差しはそれなりに強く、ディロックも少し汗をかいていた。
翻訳文の進みは順調だった。今の所、約三分の二、と言ったところである。難しい文字もとくにはなく、碑文特有の遠まわしで回りくどい表現を除けば特に彼の翻訳を詰まらせるものは無い。
おそらく、これを刻んだのは王族か、そうでなくてもそれなりに貴い身分だったのだろう、と感じられる文だった。過剰に霊獣や王族を敬うような文が散見されたからだ。
それよりもディロックが驚いたのは、ロミリアの存在によって、石碑について幾つか情報が得られた事だった。
というのも、時折少女が動き回る度に、何かしら石碑や神殿について考察するのだ。ロミリアは柱にひびわれなどの傷のつき方や、そして石の材質などから、どういう原因で壊れたのかを推察していた。
石材は、おそらく近くの岩場から切り出してきたものなのだろうとロミリアは言った。著しく古いが、石の性質そのものは変わらない。推察は容易だと言った。
無論、容易であるはずも無い。ディロックは驚きの念を隠せなかった。
年を経た老人や、学者連中が様々な観察を行った結果だというなら、彼もそう驚きはしなかったであろう。だが、ロミリアは年端も行かぬ少女なのだ。
そんな少女が、一部の知識人しかしないし出来ないようなことをやってのけたのは、本当に驚きだった。将来、どんな功績を挙げるのか、彼には想像も付かない。
「ロミリアは……賢いな」
「そう、ですか? ……その、ありがとう、ございます」
適当に食事を取りながらのディロックの褒め言葉に、照れくさそうに笑った少女は、年相応の顔をしている様に見えた。
やはり、そういう顔をしているのが一番良い。ディロックもまた、笑った。子供の顔は、悲しんでいるより、笑っているほうがずっといい。
「気になったら調べてもいい。ただ、あまり遠くへ行かないようにな」
彼がそういうと、少女は一瞬きょとんとしてから、大きく頷いた。
昼食を取り終わり、再び翻訳を再開するか少しなやんで、ディロックはロミリアについて神殿とその周りを見ることにした。
翻訳をしなければならないのはそうだが、単純作業と化してしまうと、ミスも多くなる。息抜きが必要なタイミングだと考えたのだ。それに加えて、純粋に遺跡が気になっているのもあった。
はじめに此処に来たのは偶然だった。見えない何かに誘われて、当てもなく森を歩いた結果、この遺跡へとたどり着いたのだから。
彼はそれが、とても偶然の仕業だとは思えなかった。声だけの存在と長く付き合ってきたディロックは、"彼ら"が何の意味も無い事をしないのを知っていた。
であれば、ここに連れてきたのは何か理由があるはずだ。
廃神殿は確かに荘厳だ。大きさや、神殿という場所の神聖さが合わさり、ただそこにあるだけで見るものを圧倒させる。
しかも、見る者を圧倒するのはそれだけではない。古グディラ王期の建築物や装飾品の特徴と同じように、この廃神殿のいたるところには、精巧に描かれた獣の姿があったのだ。
勇壮なる虎や獅子、優雅な仕草の鹿、自由に跳ね回る兎の壁画。無数の獣が描かれた床は、一つの自然と言うものが詰め込まれているかのようだった。
気付かなかったのは、植物や土、埃が表面を覆っていた為だ。ロミリアが偶然に見つけなければ、おそらくディロックが気付くことは無かっただろう。
これほどまでに大規模な彫刻画は珍しい。古グディラ王期においては、言葉が強い意味を持たず、その代わりとして絵が良く代用された。その為、遺跡の所々に彫刻画は散見されるのだが、それもあくまで小規模なものだ。
この廃神殿――否、遺跡は、おそらくグディラ王の時代を生きた者達にとってかなり大きな意味をもつものであったのだろう。
遠い、遠い過去の産物ゆえに、ディロックには推測しか出来ない。だが、少なくとも、始めに推察したとおりただの建物では無い様だった。それどころか、神殿かすらも怪しくなってきた頃合である。
彼は小さく息を吐くと、手に握ったままの草紙を広げた。何気なしに、ロミリアがそれを覗きこむ。
今の所解読できた文章から、あの石碑は記念碑か、そうでなければ慰霊碑だろうとディロックは考えている。何せ、一人と一匹の事について延々と語っている文章なのだ。
それは、一種小説などの物語にも似た形式のものだ。伝記、と言ったほうが分かりやすいかもしれない。
一人の人間と、一匹の霊獣が、どのようにして道を交え、共に歩み――そして、混沌の炎へと抗って消えていったのかを示しているらしかった。
ただ、全てが解読できたわけではない。また、ディロックの翻訳が完璧という保障も無い。おおよそこんな話だろうという予想だ。
この遺跡について触れた部分はまだ無い。だが、この遺跡にも何か秘密があるのだろう。でなければ、この様な荘厳かつ特別な建築に石碑を建てる必要も無かった筈だ。
――今考えても、まだ分からんか。
ディロックはぐいと腰を伸ばして、息抜きは終わりにするか、と呟いた。彼は横で少女が頷くのを感じながら、また石碑へと向かい合い。文字はまだ続いており、まだ時間がかかりそうだった。




