二十五話 悲しみという病
火種も与えていない木が、指でなぞっただけで燃える。不可思議な現象にひとしきり感動した後、ロミリアはディロックの方へと向き直った。
「い、今のは? 魔法ですか!?」
「魔法の一種だが、極弱いものだ。一般的には、"まじない"とよばれる」
魔法が使えるものであれば大抵が使える、魔法の一つだ。まじないは、魔法よりも無数の種類が存在するが、そのどれもが魔法に及ばない弱い力しか持たない。
ディロックが今しがた発動したまじないも例に漏れず、ただ火が付きやすくなるだけのものだ。水分の枯れた枝に掛けたからこそ指の摩擦だけで簡単に燃え上がったのである。
「一握りの灰を媒体として、呪文を唱える。形さえ在っていれば、それはまじないになる」
言ってしまえば劣化した魔法だが、これが案外侮れない、少なくとも、ディロックは何度もまじないに救われてきた。
超常の力たる魔法、その末端に連なるに過ぎないとはいえ、魔法は魔法。本来人では成せないことも成せるのだ。
それに、魔力を消耗しないというのも利点の一つだった。媒体を使い捨て、呪文を唱える事で媒体に周囲の魔力を集め、それを用いてまじないは発動する。
その関係上、どれだけの回数であろうと、媒体さえ尽きなければいくらでも発動できる。そしてその媒体も、あまり貴重なものを使う事がないというのが、ディロックがまじないを愛用する一つの理由でもあった。
「運がよければ、ロミリアも使える。やってみるか?」
「え? い、良いんですかっ?!」
ああ、とディロックは頷く。なにせまじないに使う媒体はそう高価なものではない。実際、先ほど使ったまじない、『火の誘い』の媒体は、ただの灰を一握り分。たったそれだけなのだ。
竜骨の灰を使えば、爆発に等しい引火を発生させられるらしいが、無論そんな高価なものをディロックが持っているはずも無い。焚き火の残骸を使いまわしているだけだ。
魔法と言うには手軽であり、そして比例するように効果も低い。それは言い換えれば、魔法の素人であっても扱いやすく、また失敗による事故も無いという事である。
ディロックもそういった、ある種の信頼があったからこそ、少女にまじないを教える事を決めたのだ。
これから何日か泊り込んでの翻訳が終われば、ロミリアはしばらくの間此処へ来れないだろう。興味が完全に魔法に移る事は無いだろうが、それでも他のことに目を向けられるだけで大分違うはずだ。
少なくとも彼はそう考えていた。
彼は先ほど同様、灰袋の中へと手を突っ込むと、一握り分の灰を少女の手へと移した。
どこかぼんやりとしたロミリアに向かって、ディロックはその手を取って教える。
燃やすのは、先ほど回収した枯れ枝のうちの一本だ。幸い、二人で集めた為、かなりの量がまだ残っていた。
「いいか。灰を枝に振りかけたら、できるだけしっかりと発音しろ。ゆっくりでいい、一言一言丁寧に唱えるんだ」
パラパラ、と灰が枝に向かって落ちる。ゆっくりと枝へ降りかかったそれは、もうまじないの媒体となる準備が整っていた。
小さく頷く事で彼は少女を促す。その合図を見たロミリアもまた小さく頷いて、ひどく集中した様子で、呪文をゆっくりと唱えた。
「『一握の灰の中に、火の導きを見る』」
――瞬間、火の粉が飛び散った。咄嗟にロミリアを庇ったディロックは、それと同時に枝を握って火を消し止めていた。
危なかった、と彼は思った。もしディロックが受け損なえば、ロミリアは確実に火傷していただろう。いや、下手をすれば。
枝を握り締めた手のひらは、たしかに火傷の痛みが苛んでいた。大人であり、仮にも戦士の一端たるディロックの肌はちょっとやそっとで傷を負ったりはしない。
言葉にはせずとも、先ほどの炎の強さは文字通り身にしみていた。
「ディロックさん!? だ、大丈夫ですかっ?」
「ああ、ああ、大丈夫。俺は大丈夫だ……怪我が無くてよかった」
心配げにディロックの方を見たロミリアに、彼は優しげに笑いかけた。手の痛みも大した物ではなく、逆に言えば、これだけで済んだという事だ。
それに、もう一つ分かった事がある。自分の火傷をおいても、喜ぶべきことだった。
「それと、おめでとうというべきだな、ロミリア。君には、魔法の才があるらしい」
少しばかり呆然とした少女は、ディロックの言った言葉を理解するのにしばらく掛かった様だった。
言ってしまえば、簡単な話だ。"まじない"も、魔法の一種なのである。となれば、全くの素人より、魔法使いの方が扱いに長けているのは当たり前といえる。
どういう風にまじないを発動したのか彼には分からなかったが、先ほどの爆発は、恐らく周囲の魔力と一緒に、自分の持っている魔力も注ぎ込んだが故の結果であろう。
それは、ロミリアに魔力を――すなわち魔法を扱う能力があるという事に他ならない。つまり、魔法使いの素質があるのだ。
「私に……魔法の、才?」
「ああ。確かなところで学べば、少なくとも幾つかの呪文を扱える事だろう」
ディロックが思うに、目の前の少女が持っている才は、かなり大きなものだ。初めて使ったまじないで、無意識にとはいえ、自分の魔力を操って注ぎこんだのだ。
まじないは既に完成された魔法だ。周囲の魔力を得て魔法を発動する性質上、人が手を加えるのは難しい。
あるいは、大きく名を馳せる魔法使いにもなれるかもしれない。無論、彼の見立てには過ぎないが、それだけの素質を感じる爆発だったという事だ。
「……ディロック、さん。その、ありがとうございました。まじないを、教えてくれて」
少女は、彼に向かって大きく頭を下げた。気にしなくてもいい、とディロックが告げても、彼女は頭を下げたまま続けた。
「私でも、何かになれると、教えてくれて」
そこまで言ってあげた顔は、笑顔の形にに歪んでいた。それは歓喜の涙によって歪んだ笑みだった。その笑顔は、僅かにモーリスのものと似ているように感じられた。
少し驚いたものの、ディロックはその頭に手を伸ばして、くしゃくしゃと撫でた。少女は、その手を払いのけるような事も無く、その手の中で静かに泣いていた。
「何があったかは分からんが、まぁ、好きなだけ泣け。落ち着いたら、また話そう」
彼が少女の頭を不器用に撫でながら語りかけると、ロミリアはより一層泣き出した。
何があったのかは分からない。ディロックはロミリアではないからだ。心を読む術も無い。
だが、モーリスから聞いた話、そして言動などから、多少推測する事は出来る。少なくとも、心の中に深い悲しさを抱えて来たであろう事ぐらいは彼にも分かっていた。
ディロックもまた同じ、心に闇を背負った人間であるからこそ、その気持ちは痛いほど良く分かる。
自分に苛まれ、悲しみは加速し、時には自らの命さえも奪ってしまう深い病。それがどれだけ辛く重いのかを。
――今は、泣きたいだけ泣くといいだろう。ディロックはロミリアの隣に座って、そっと頭を撫でながら、そう考えていた。
聞きかじった話だが、涙は流せば流すほど、心が落ち着くのだという。激しい怒りや悲しみを沈静化し、心を凪いだ状態へ戻す手段であると。
ディロックは少し、目をつむった。
元気な子と評価された少女が、おとなしく消極的な子になる。外で遊ばなくなり、他の子と話す事も無くなり、静かになる。幼少のものとはいえ、それはとてつもなく大きな変化だ。
こんな子供が悲しみを負う必要はない。まして、性格を変えてしまうような闇などもってのほかだ。
しっかりしなくてはな、と溜息を漏らす。そしてゆっくりと寝息をたてはじめた少女を天幕の中へと寝かせると、ディロックは道具の整備を始める。
その傍らに置かれた剣は、自らが使われるのを静かに待っていた。




