二十話 信用の形
気がつくと、ディロックは森の前、教会の裏手にある切り株に座っていた。
すぐさま立ち上がって周囲を見渡したが、霊獣の姿は消えていた。耳鳴りももう残っていない。
先ほどまで、確かに森に居たはずだ。見下ろしてみれば、鉄製の足甲に、いくらかの土や葉が付着していた。
幻覚や、白昼夢のたぐいを見ていた訳でもなさそうだ。しかし、時計で時間を確認してみても、足で戻ってきたには早すぎる。暗闇の中を、少なくとも五時間近く歩き詰めだったのだ。一分足らずで戻ってこられるわけは無い。
となると、転移だろうか。魔法的な手段であれば、『瞬間移動』という手段もあるものの、相当高位に位置する魔法だ。
何が何かも分からず、ディロックは再び切り株へと座り込んだ。一旦、落ち着いて考える必要がありそうだ、と考えた為である。
ディロックの話が信じてもらえるか否かは問題ではない。たとえ不確定でも情報は必要だ。
暗闇の森を歩き続けたゆえの疲労や、伝説の霊獣との対話。そして、彼の手には余る混沌の軍勢についての情報。
様々な要因で混乱していた頭が、ほんの少し息を吐くだけの時間を得て、ゆっくりとまとまっていく。
何はともあれ、どうにかしてモーリスに掛け合ってもらい、それなりの規模での行動が必要になるだろう、と緩やかに回転を始めた彼の頭は考える。
彼とて多少は強いが、混沌の手の者達を相手取るのに一人では心もとない。
そうしてしばらく、心と体を落ち着ける為に切り株に座っていたディロックであったが、沈みかけの日を見て、ふと霊獣の言葉が頭をよぎった。
――戦わねばならない時は近い、か。
おそらく、そこまで時間の猶予は無いのだろう。混沌を塞いだ霊獣の力はかなり弱まっていた。詳細にどれだけ、とはいえないが、一月も持ちそうには無い。
ありったけの戦力と、工夫と、情報を集めなければ。わずかの時間も無駄にするには惜しい。
自分の身とそれから、見捨てたく無い者達のために。
大きく溜息をつきながら、ディロックは立ち上がって踵を返すと、すぐに教会の中へと入っていった。
幸いと言うべきか、モーリスは司祭室で事務仕事をしているようだった。急なノックに驚きながらも対応してくれた彼女に、ディロックは告げる。
「モーリス。今すぐに、エーファ村の重役達に話を通す事はできないか?」
「今すぐ、ですか? ……私はそこまで顔が広くないので、今日これからは無理です」
すぐに思案顔になった彼女は、ううん、と小さく唸りながら首をかしげた。
「明日の昼ごろであれば、重役の会議がありますので集まりますが……。どうなさったのですか、突然」
ディロックは、何と言って良いか分からず、一瞬言葉に詰まった。モーリスに言ってみるべきだろうか。いや、無意味に不安にさせないほうがいいのか?
いくらかの考えが彼の頭をよぎった。
だが、エーファ村の重役に、話が通すのは彼よりもモーリスの方が適任である。この場で彼女に黙っているよりも、伝えておく方が良いかもしれない。
数瞬迷った後、彼は周りに聞こえないよう少し声を絞り、答えた。
「……森のずっと奥で、混沌の者が出てくるという情報が手に入った。確かな情報じゃあないが、そう遠くない」
「こ!……混沌の者ですか?」
一瞬、彼女は大きな声で反応しかけてから、思い直したように声を潜めて問い掛けた。ディロックもまた、小さく頷いた。
「信じてもらえるかは分からないが……」
それから彼は、森の奥に魔法的な暗闇が広がっていたことや、奥には封印があり、どうもそれの力が弱まっているらしいという旨を話した。
霊獣と対話した、という事は伏せた。森の暗闇の時点で、かなり常識からかけ離れている。より荒唐無稽に聞こえてしまう霊獣との対話は、かえって信用を損ねてしまいかねないと判断したのである。
モーリスは彼の話を聞き、何度か小さく頷くと、すぐさまいくらかの質問を投じてきた。全面的に信じている訳ではなさそうだが、それでも大半を信じてくれている様である。
それに何度か応答しつつ、ディロックもまた質問を投げかける。森に異常はあったかだとか、誰か入っていく様な様子はなかったかだとか、そもそもああいう暗闇は定期的に起きたりするのかなど、そんなものだ。
ディロックはこの村に来て日は浅いが、あれほどに深い魔法の暗闇が、一日やそこらで生み出せるはずはないとわかっていた。
どうやっても何度も重ねて掛ける必要があり、一度にあの暗闇を生み出せるような技量を持っているのであれば、そもそも混沌の軍勢を呼ぶ必要など無いはずである。
目撃情報はないですが、と前置きして、モーリスは続ける。最近、近くの村などで不審な人物を見かけたという情報があると言った。
「明確な証拠はないのですが、この森の近辺の村では一通り目撃されているようです」
「……あからさま過ぎる気もするが、確かに怪しいな」
しかし、何故複数個所で目撃されているのか。森に暗闇を展開するだけなら、場所を変える必要は無いはずだ。同じ場所から何度も森に赴けば良い。だがそうしないという事は、何か理由があるのだろう。
目を閉じて、ディロックは少し考え込んだ。
一斉に入ってきた情報を生かすには、いささかディロックの信用が足りない。モーリスに向けられた信頼も、伝説が関わるような途方もない話を信じてもらうには心許ないだろう。
ほら話と聞き流されてもおかしくない話であるのだから、彼女が耳を傾けてくれているだけ御の字なのである。
「……分かりました。その話は、今すぐにでも村長たちに通しておきます」
しばしの問答の後、モーリスは慎重な様子でそう言った。彼は少し目を細め、すまないと呟いた。
「明日はディロックさんも会議に出席していただけますか? 私は直に見たわけではないので、ディロックさんから話してほしいのです」
「ああ、構わない。ただ……」
彼が途中で口を閉ざすと、モーリスはわずかに首を傾げた。とくに急かすこともなく、ディロックの言葉を待っているようだった。
「話した俺が言うのは、なんだが……変な話だろう? 何故、信じる?」
「……そうですね。確かに、変な話」
くすり、と彼女の口から小さく笑いが漏れた。常に柔らかな微笑みを浮かべていたモーリスの顔に、僅かに子供のような無邪気な表情が見えた。
一瞬呆然とした彼に、いえ、と彼女は続けた。
「まぁ、私としても、信じがたいことではあるのですけれど」
それはそうだ。語っている本人たるディロックでさえ、疑わしく思ってしまうような話である。
雲を掴むような、という言葉が良く似合う話なのだ。鼻で笑い飛ばされることを覚悟で話したというのに、こうもあっさり受け入れられてしまい、正直に言えば彼は困惑していたのである。
「ただ、ディロックさんには子供達がなついているでしょう? 子供って、時々大人も感じられないことを感じる事だってあるんです。直感的に嫌だと思った人には近寄りたがらないんですよ」
言われてみれば、確かに。エルトランドを除いて、ニコラやウル、ロミリアも彼を嫌っている様子はない。どちらかと懐かれているほうなのは彼も自覚していた。
他の子供達も、特に彼を嫌っている素振りはない。彼が語る旅話を興味津々に聞くし、ディロックが近づいたからと逃げる事もない。
「子供が信用できる人なら、私も信用できます。それに、ディロックさんは……」
にこり、とモーリスが微笑んだ。それは花が咲く様な、無邪気で、裏表のない笑顔だった。
「私達に良い変化を与えてくださっていますから」
そう言って笑いかける彼女の首元に、風来神の聖印たる風を模した首飾りが、沈みかけの日を浴びてきらりと光った。




