十九話 暗闇の森にて
カンテラを持った左手を、目線と同じ高さまで掲げているのにもかかわらず、ディロックの視界は暗いままだ。先ほどよりはましになったが、それでも十歩先が見えるか見えないかという程度である。
しかしながら、カンテラのおかげで、それ以上暗くなる事は無い。明らかに真っ暗闇ではあるものの、何とか進む事が出来ていた。
日が完全に遮断されているためか、気温はかなり低く感じた。風を感じないことに感謝する程度には寒い。
もはや森であるのかすら疑問に思うほどの暗闇は、ディロックをひどく不安にさせては居たが、彼の足は止まらなかった。止まれば、もっと不安になることは分かり切っていたからだ。
地面は、あまりの暗さによくは見えないが、どうも草が生えていない様で、彼の足音は明らかに裸の地面を踏む音に変わっていた。
森林の、それも奥深くまで歩いてきた筈が、進めば進むほど草が消え、植物の気配が無くなり、本当に森にいるのかすら分からなくなる。明らかに自然的な力による物ではない。人為的な――そして、魔法的な現象であることは間違いない。
となると、この暗闇の中心に何かあるのだろうか。大規模に暗闇を生み出してまで隠したい何かが。
ディロックはふぅ、と一つため息を吐いて、背嚢を背負い直した。
何はともあれ、歩いて行くしかなかった。
引き返そうなどと、到底思えないほど歩き詰めた先で、ディロックはようやく景色の変化を感じた。
カンテラが照らす範囲の地面と、それ以外の暗闇しかなかった彼の視界には、ポツリ、と白い点のような物が見えたのである。
それを見てディロックが足を速めると、そう遠くないうちにその白い点の正体が分かってきた。
木、というにはいささか奇妙だ。柱、という方が近いだろう。暗闇の中、何の脈絡もなく出てきたように思えるその柱は、何の彫刻も無く、しかし驚くほどの純白を湛えていた。
大きさは、およそディロックの身長の二倍程度だろうか。地面にまっすぐと突き立った柱は、正六角形の形をしており、材質や色からただの石で無い事は確かだった。
暗闇をカンテラでもって退け、とうとう柱の前に立ったディロックは、そっと白い柱に手を伸ばした。
なぜか、そうしなければいけない気がしたのだ。
つ、と指先が柱に触れる。滑らかな表面を指がすべり、そっと一文字を描くように動いた。無機質さを感じさせない柱に、彼はもう一歩近づいて、手のひらで触れた。
――すると彼は、一瞬だけ、何かが横を通り過ぎたように感じた。
走り抜けた、というにはいささか遅い。横を歩き去った、と言う方が近い感覚であった。
ディロックはハッとして、自分の背後を確認した。依然として、日の光を通さない闇が広がったそこには、しかし、大きな差異があった。
獣だ。音もなく、奇怪な姿の獣がたたずんでいたのである。
馬や鹿に似た首の長い体と四本の足。そして、頭が二つ。どこか人の顔にも見える顔が二つついていた。
頭には、左右それぞれに一本ずつ立派な角が生えている。木の枝のごとく幾重にも分岐したそれは、鹿の角に酷似しているが、その獣の角は淡く黄色の光を放っていた。
動物の頭として考えるのであれば小さい、それこそ人間と同程度の大きさの頭には、金色の輝きを秘めた目が二つずつついている。
全身は青白く発光し、幾筋もの光の線が走って紋様になっていた。しかし、その光は朧気で頼りなく、暗闇に吸い込まれ今にも消えてしまいそうな物だ。
まるで電撃が走ったかのように、彼は驚き硬直した。その、今にも消えてしまいそうな幻想的といえる佇まいと、夢で見た獣の姿が、一瞬のうちに結びついたからだ。
ディロックが呆然とその獣を見上げている間、獣はただ、彼のことをじっと見ていた。獣の――否、霊獣の持つ金色の眼と、ディロックもつ小金色の目が、沈黙のうちに交差していた。
数分後にハッとして、彼は頭を左右に振って状況を整理した。こういう時こそ、落ち着くのが大事だと、大きく深呼吸する。今だけは、暗闇の圧迫感すらも無視できた。
ひとまず、この獣に自分を襲う意思はないのだろう。襲う気があったのであれば、今しがた完全に気が抜けていた時に襲わなかったのは不可解だ。
であれば、ディロックを見つめているのには何かの理由があるはずだ。ちらり、と獣の方を見れば、獣は依然として彼を四つの目に収めたままだった。
――あの夢では、どうだっただろうか。
ふとそう考えると、そういえばあの獣は、何か伝えようとしてこなかったか。急に耳鳴りがして、何も聞こえなかったが、確かに何かを言おうとしていたはずだ。
なら、この獣もまた、何かを伝えたいのか。
少し考えた後、ディロックは何歩か前へと進み、ゆっくりと獣へ手を伸ばした。彼に心を読むようなの持ち合わせはなかったが、触れることが出来れば、何かわかる様な気がしたのである。
魔法であれば『念話』という手段もあるものの、あいにく彼は、それを使う手段を持ち合わせていなかった。
なにせ、それらの道具は高いのだ。高度な魔法になればなるほど、掛かる代金も加速度的に増えて行く。一介の旅人に過ぎないディロックに、それらを購入する術は無い。
光を纏った獣は、ゆっくりと伸ばされた手に向かって、少しだけ頭を下げた。自ら触れさせようとしているかのようである。
避ける様子すら見せなかったそれに対して、ディロックの指が触れた。馬のように艶やかで短い毛があるのを彼が指先で感じていると、一瞬だけ、獣の纏っていた光が増した。
『混沌が近づいている……』
「む」
これはこの獣の声か、とディロックが顔を上げる。すると丁度、彼の方を見ていた獣の目と見つめあう形となった。
『混沌が……封印を破ろうとしている』
声は、再びディロックの頭の中で静かに響いた。
混沌。それは恐らく、古グディラ王期を滅ぼしたときの軍勢の事だろう。文明は幾たびも混沌の軍勢に襲われてきたが、ここいら一帯では一番新しいのはそれだ。
とするのなら、この獣は――そして、あの白い柱は、古グディラ王期にまつわるものなのか。
無駄に深く考えこもうとする頭を押さえつけ、ディロックは口を開いた。
「……すまない。名を、教えてくれないか」
ひとまず、受け答えが出来るのであれば、多少なり互いのことを知るべきだ。彼はそのまま自分の名を告げ、獣の返答を待った。
彼を見つめながら、獣は黙り込んでいた。彼がそのまま、名を教えてくれるのを待っていると、しばらくして獣が嘶いた。弱っているような、か細い声であった。
『我が名は……気高き獣』
どこか格好付ける様に、獣は首を高く上げた。
『深淵塞ぎし、楔の獣なり』
ディロックには、誇り高く告げられたその名に聞き覚えがあった。なにせ、数時間も前に、子供達から聞いた名前と同じであったからだ。
改めて、獣を仰ぎ見る。
頭が二つと異形でこそあるものの、体躯も馬や鹿に似ている。淡く光る体を見れば、容易に"災いを払う光をまとう"という伝承にも思い至る。
しかし、その光が本当に災いを払う力を持つのであれば、あまりにも小さなものだ。少なくとも彼には、伝承にかかわれる程の力を持ち合わせているようには全く見えなかった。
だがだからこそ、獣の話も受け入れやすかった。この獣が、伝説の時代に、自らを楔へと変えて混沌を封じたという霊獣だとすれば、見て分かるほどに力が弱まっていれば、到底混沌の軍勢など抑え切れそうにも無かった。
『我が力に、もはや欠片ほどの余裕も無し。あと何日、封じる事が出来るか、わからぬ……』
獣の声が遠く聞こえ、ディロックが首を傾げた瞬間、凄まじい耳鳴りが彼へと襲い掛かった。
同時に、頭が割れんばかりの痛みも走り、ディロックは思わず耳を抱えるようにして身を丸めた。しかし、呻き声こそ上げながらも、何とか意識だけは失わなかった。
――今度こそ、聞かなければならない。夢で聞けなかった事を。
でなければ、自分は後悔する気がした。脳裏には、かすかに過去の記憶がちらついている。
獣はそんなディロックの様子を見ながら、ぼそりと吐き捨てる様に呟いた。
『……戦わねばならぬ時は、近い』