十八話 森の奥へ
教会裏手に面した森、その中に新しく出来たいくらか草や茂みが踏み倒され、叩き折られた枝が散見される道を、ディロックは黙々と進んでいた。
その道とは、無論のこと、怪物が森から出てきた時に作られたであろう道だ。あまりにも無遠慮に突き進んだ形跡は、まるで巨大な岩でも通ったかのようにも見える。
彼の顔には、最初森に来た時のような雰囲気はまるで無い。時々背後も振り返って警戒し、音や空気の動きにさえも気を払っていた。
真正面から戦えば熊とでさえまともに戦える自信のあるディロックだが、それはあくまでも真正面からである。背後から音もなく襲われれば、彼とてひとたまりも無い。
それに加え、あの怪物がこうして散々に暴れた痕があるのだ。つい先ほど削り取られた様子の木の幹を撫でつつ、ディロックは考える。野生動物の気が立っていても不思議ではない。
一歩一歩を踏みしめるようにしながら、破壊の痕をたどると、段々不思議な事が分かってきた。
それは、エーファ村から遠ざかれば遠ざかるほど、破壊の痕が一直線になっていることである。村近辺は、何かを探し回るように不規則な線を描いていたのが、遠くなると一直線になる。
エーファ村を目指して走り、近づいてから何かを探していた、という事が考えられる。魔法生物にそれほどの知能があるとは思えないため、それは明らかに人為的な行動である。
やはり自然に生まれたという事はなさそうだ、とディロックは溜息を吐いた。誰かしら、術者か、命令者が居るという事になる。
狂った魔術師が魔法生物を暴走させたのか、あるいは死霊術師が死体を得る為に行ったのか、もしくはそのどれとも違う何かなのか。
そのどれにせよ、一筋縄では行かないだろう。単独で解決は難しそうだった。
そう嘆息しながら、しかしディロックの足は止まらなかった。一先ず、あの怪物が何処から発生したのかは確認しておかなければならない。
中空から現れたのでなければ、何か情報が残っているはずだ。足跡、傷痕、道具や魔法の使用痕跡。どれほどの技量をもってしても、全てを隠蔽しきる事は難しい。
それらを見つけられれば、とディロックは目を細めた。
日はまだ高いはずだが、森は進めば進むほど仄暗くなって行く。普段の森も薄暗くはあったが、これはまた別の暗さだ。森が自然と心落ち着く暗さであるのなら人を不安にさせる暗さ、というのか。
それに、先ほどから獣の足音がない。風一つ吹き抜ける事もない。明らかに自然とはかけ離れた状況と気配に、鋭く視線を配りながら、彼はその身を前へと進ませていった。
そうして二時間ほど経っただろうか。
不意に彼は、自分以外の足音を感知した。曲刀に手を掛けながら、そっとそちらの方へ目をやる。
彼が振り向いた先には、ディロック一人なら隠れ切れる程度の少し大きめな茂みがあり、物音はそこから聞こえた様だった。
まだ姿は無い。茂みに隠れているようだが、出てくる気が無いのならそれで構わない。一歩、また一歩、と茂みから離れる。戦う必要が無ければ、剣を抜く気も無かった。
「……待て」
すると、茂みの中から、ぼそりとした声が響いた。少年的な、少し高い声だった。
ディロックが首をかしげると、茂みががさがさと揺れて、中から一人の濃い赤毛をした少年が現れた。孤児院の子供達の一人、エルトランドであった。
腰には短剣が下げられており、森の中で行動する為か、服装も少し丈夫なものになっている。物々しい、と言ってもいい雰囲気で、彼を睨みつける様にしてみていた。
「エルトランド、だったか? 何故此処に」
彼が曲刀から手を離すと、対照的にエルトランドは短剣に手をおき――そして、抜き放った。
短剣は僅かな木漏れ日を鈍く反射して、その無骨な鉛色の刃をさらしていた。その様子に、ディロックは目を細める。しかし、刀に再び手を掛けようとはしなかった。
「……なんのつもりだ?」
「俺の台詞だ。何しに森に来た」
短剣の切っ先を向けながら、エルトランドは険しい顔でディロックを問いただした。
この少年は本気か。彼は見定めるべく、それとなく少年の全身に目を配る。少なくとも、手や声が震えている様子はない。かといって、慣れているようでもない。
しかし、決意はあるらしい。少年の目に宿った何かを、彼はそう評した。
「答え如何によっては、殺す気だぞ。……答えろ!」
しんと静まり返った生き物の気配が無い森の中、凛とした少年の声が響く。良く透き通った声は四歩分ほど離れたディロックの耳にも直撃し、わずかに耳鳴りを起こした。
「……調査だ。あんな物に襲われたからには、無関係面してはいられん」
軽く片耳をおさえながら、ディロックは溜息を吐きながら応えた。態々口ごもるようなことでもない。
もっとも、彼が一人で調査に来る必要は無いのだが、彼にとっては些細な事だった。巻き込まれたから、最大限手を尽くす。そういう言い訳で、ただ後悔するのが嫌なだけである。
「調査だと? あんた一人でか?」
「そうだが、悪いか」
納得していない表情のまま、少年がギリ、と短剣を握りこむ。切っ先は、いまだ彼に向けられたままである。
「そんな事、信じられるか」
はぁ、とディロックは溜息を吐く。なるほど確かに、来て数日も経っていないし、信用など無くても仕方ない。
だが、と思う。だが、何も喋ろうとしない者に、どう信用されれば言いと言うのか。少しだけ不機嫌になった彼は、少し細められた目で、エルトランドを見つめた。
信用"できない"なら分かる。まだ互いの事を何も知らない状態であれば、その対応も間違っていない。用心深いのは悪いことではない。
だが、少年が言っているのは、間違いなく信用"しない"の方である。初めから信じるということを考えていないのだ。話すのも不毛なだけである。
「なら信じなくて良い。俺は行く」
「待て!」
踵を返して森の奥へと向かうディロックに、少年は叫んだ。だが、彼は耳を貸さず、無言のまま早足に進んでいった。
ディロックの物と比べれば小さい足音は、しばらくの間彼を追いかける様にして続いていたが、そのうちに諦めたのか、消えていった。
不機嫌に歩く彼は、気付けば真っ暗な森の中に居た。彼の猫目が僅かな光を得て、暗闇の中を見せるが、それでも五、六歩先を見るのが精々である。
時計を取り出したが、時針はまだ十四時ほどを指している。まだ昼間といえる時間帯であり、いくら木の葉が光を遮ろうと、ここまで暗い筈が無い。何かの力が働いているのは明らかであった。
一歩進めば進むほど、ディロックの視界はどんどんと暗さを増して行く。闇を多少ナリとも見ることの出来る彼の目も、光を捉えられる限界が近づいているようだった。
獣や妖鬼の類に見つかりやすくなるのを嫌い、随分暗くなっても火を点けていなかったが、ここまで暗いと諦める他無い。どちらが良いか、と一瞬悩んだが、ディロックは結局カンテラの方を選んだ。
暗闇の中で立ち止まり、背嚢から火口箱と蝋燭を取り出し、すぐさま火をつけた。頼りない明かりではあったが、暗闇の中にあってはこれに縋る他無い。
火口箱を戻し、腰に吊るしてあったカンテラの蓋を開け、風が火を消してしまう前に素早く中に入れる。ぼんやりとした明かりが、真っ暗な森の中を僅かばかり照らす。ディロックにはそれだけで、随分先まで見ることが出来た。
左手にカンテラを掲げ、意を決して、ディロックは更なる暗闇の中へと歩き始めた。