十七話 渦巻く不安
ディロックは、教会に戻るとすぐに、ロミリアの姿を探した。今日の石碑翻訳が中止という旨を伝える為だ。
さすがに、あんな物が出てきて間もない状態の森に、少女一人を連れて歩こうとは思えかった。残念がるだろうとは思いながらも、無為に命を危険にさらす必要は無い。
しかし、探せど探せど少女の姿は見当たらなかった。思い返せば、最初に顔合わせをした時にも、ロミリアの姿は無かった。
外出していたにしては遅い時間であった為、少女の事を知った時不思議には思ったものの、何か事情があるのだろうと深く聞きはしなかった。
その後半刻(三十分)ほど探し続けたが、結局、共に戻ってきたモーリスの元をたずねるにした。どうにも寝室には居ないような気がしていたし、そもそも子供たちの仕事場も知らない現状、そうするしかなかったのである。
そうして彼がモーリスの居る司祭室を訪ねたところ、中にはモーリスと、そして探していたロミリアの姿があった。
「あら、ディロックさん。どうかしましたか?」
「いや、ロミリアに話があってな。手間が省けた」
自分に話がある、という言葉に、ロミリアはゆっくりとディロックの元へ歩いてきた。ロミリアの胸に、何度も縫い直された後のあるぬいぐるみが抱きしめられている。
無言で自分を見つめる少女に、彼はしゃがみこんでロミリアと視線を合わせ、少し息を吐いた。そして、決意したかのように語りかける。
「すまん。今日、石碑の翻訳は無しになった」
彼なりに、気を使おうとは考えたものの、結局は良い言葉が思い浮かばなかった。ロミリアはそれを聞き、少し残念そうな顔をしたものの、それ以上の反応もなくモーリスのそばに立っていた。
その様子に、ディロックはこみ上げてきた申し訳なさに目を伏せ、そしてもう一度視線を上げると、今度はモーリスの方に目を向けた。
「それで、森に調査隊は送るのか?」
彼の言葉に、モーリスはしばし考えてから答える。
「……おそらくは。近場の村から、冒険者を集めることになるかと」
モーリスはそれらを決定するたちばにないため、あくまでも推測でしかない。ただ、彼もほとんど同じ意見であった。あのような化け物か出た時点で、エーファ村が森に対して何の行動も起こさないとは思えなかったのてある。
しかし、エーファ村の衛士は送れないだろう。彼らが村から離れれば、今度は村の守りの方が手薄になってしまう。
こういう時こそ、冒険者の出番である。
「そうか……」
ディロックはふと呟いてから、ひょいと立ち上がり、思案する様に腕を組んだ。
「……俺も、その調査隊に参加できるか?」
「ディロックさんが、ですか? ……出来ないことは、ないと思いますが」
モーリスのやや驚いた顔を横目に、ディロックは邪魔したな、と言って司祭室を出た。
廊下を歩く彼の胸の内には、漠然とした不安があった。ただ事ではないのは襲われた時から分かっていたが、何やら胸騒ぎがしていたのだ。
あるいは、昨夜見た夢のせいかもしれない、とディロックは思った。あの夢の中、聞くことのできなかった獣の言葉が、今になって気にかかっているのだと。
あれがただの夢で、ディロックの思い違いに過ぎない可能性は十二分にある。しかし、胸中に渦巻く胸騒ぎもあり、彼の思考に引っかかっていた。
ううむ、と小さくうなりながら歩く彼は、ひとまず割損ねた薪でも割ろうと思って裏手へ回った時、そこに二人の子供を見つけた。
「そこでね、旅人さんがね、バッて私を抱えて逃げてくれたの! すごく早かった!」
「すげー! 俺も見たかった!」
それは、先程助けたばかりの少女ニコラと、ウルである。ディロックは何となく少し気が抜けながら、二人の名前を呼んだ。
「ニコラ、ウル。今はあまり外に出ない方が良い」
「あ、旅人さん」
「旅人のおじさん!」
二人の子供はそれぞれに返事をして、彼の元へ駆け寄ってきた。それを見た彼は、適当にしゃがむと、二人が来るのを待った。
「おじさん、怪物やっつけたんでしょ? 強かった?」
ウルは興味津々といった様子で、目を輝かせながらディロックに対して問いかけた。彼ぐらいの年なら、やはり冒険譚などにあこがれる物なのだろう。
そして、旅もそうである様に、冒険には戦いがつき物だ。ウルは剣に憧れると同時に――多くの少年達がそうであるように――冒険、そして戦いに憧れているのだ。
ディロックはふむ、と一瞬考えた。そして苦笑を顔に浮かべると、いいや、と言葉を続けた。
「大して強くなかったと思うぞ。一撃だったからな」
少年はぱぁ、と無邪気な笑みと憧れを顔に浮かべると、その後もディロックに質問を重ねた。どんな怪物であっただとか、どんな戦いをしたのだとか、そんな類だ。ディロックはそれに、適宜応答しながら、別の事を考えていた。
「ところで、森に出てくる獣の話を知らないか? 光る……そう、鹿みたいな……動物の事を」
そう、それはあの夢の事だ。あの獣が何者であったのか、そして何を伝えようとしたのか、彼には分からない。だが、何かしら獣のことさえ知ることが出来たなら、言いたかったことも分かるかもしれない。
無論、子供が持っている情報が、そう大きな物ではないことは、ディロックも重々承知していた。分かった上で、彼らに聞いたのだ。
なにせ現状は、まともに情報といえるような物がない。今は、どんな些細な情報でも、かき集めておきたかった。
何も分からなくても、あがく事に何か意味はある。少なくともディロックはそう思っている。
それに、自分も巻き込まれている以上、無関係でいることはできない。それに、子ども達を、ひいてはモーリスを見捨てるほど、彼は冷酷にはなれなかった。
彼の問いかけが終わると、ウルとニコラは顔を見合わせ、首を傾げた。何か心当たりがあるらしい、とディロックは二人の様子に耳を傾けて待った。
「ねぇウル。旅人さんが言ったのって……」
「うん、前に姉ちゃんがしてくれた話に出てきたのにそっくりだ」
そう言って二人は頷きあうと、その心当たりについて教えてくれた。それは、ディロックも聞きかじった事のあった、埋骨の森の伝説。その中の一節であった。
モーリスが語ってくれたのだというその伝説の一説に、ディロックが今しがた語った内容に良く似た獣が居るのだと、ニコラが話す。
名をエミンブルスと言い、鹿に良く似た霊獣で、常に災いを払う力を持った光を纏っているのだという。確かに、特徴を捉えるのなら、ディロックが夢で見た獣と類似する点はいくらかあるようだった。
だが――今、生きている筈も無い。聞きかじった伝説の、想像が生んだ夢だったのだろうか。彼はふむ、と呟いて、すこし目を伏せた。
霊獣の寿命は、長耳並か、あるいはもっと長いものとされる。何百年と昔の伝説ではあるが、霊獣エミンブルスが生きている可能性はある。
しかし彼には、霊獣が自らの夢に出る理由が分からなかった。
彼自身、特別な使命を持って旅をしている、という訳ではない。混沌と因縁があるでもなく、また特殊な力を操れる訳でもない。
太古に死んだとされたエミンブルスが、なんら特別ではないディロックに態々語りかける意味が見出せなかった。
――今は、ひとまずいいか。
ディロックはそう考えて目を上げると、心配そうに見ていた二人の子供に、再び外に居ると危ない旨を伝えて教会の中へ促した。
ウルとニコラは、少し心配そうにしながらも、しかし彼の言葉に従って並んで教会へ入っていった。
それを見届けてから、彼はしばしの間、森を睨むようにしてたたずんでいた。