百六十四話 港と旅人たち
ザアン、ザアン、と遠くから波の音がする。浜に押し寄せているのだろうか。桟橋の足、その隙間を潜り抜けているのだろうか。分からないが、不思議と心地のいい音だ。喧噪の方へと降りて行きながら、ディロックはそんなことを思った。
「おはよう、ディー」
「ああ、おはようマギー。……ところで、その野菜の塊はいったい」
「これか? 全身が魚になってしまわないうちに買っておいた。お前も好きにかじってくれていいぞ」
「そうか……ああ店主、せっかくだからこの野菜で料理を頼めるか?」
宿の料理は魚尽くしだ。新鮮なだけあって、煮ても焼いても茹でても美味い。が、後数日もすれば飽きるだろう。今に体が魚になるとおどけて言うマーガレットだが、洒落にならない話だ。特に旅人をよく泊める類の宿や飯屋は"名物"として魚料理を出す事も多い。
特に、この町――恐らく、目的地前、最後の宿泊地になるであろう"船出の街"は美食の街としても知られている。名産である魚が出ない店を探す方が難しいのだ。可能な時に可能な限り野菜を取っておきたくはあった。
さてそんな二人の目的だが、街に到着して初日から、既に二の足を踏むこととなっていた。
「……最果て行きの船が見つからない事ぐらいは想定済みだったが……」
「出航禁止命令とはね。命知らずの馬鹿者を探す事さえもままらなんとは思わなかったよ、私も」
――船出の街、出港禁止令。
それはまるで、自分の手で自分の首を切り落とすようなやり方であったが、町長としても苦肉の策であったろう。
野菜料理を持ってきた店主が愚痴るように言う。曰く、遠洋に怪物が出るのだと。
「とんでもなくデカい、島みたいなサイズの何からしいぜ? 身じろぎで波を起こし、泳ぐだけで嵐を呼ぶとか。そんであぶねぇから出航禁止ってわけだ」
「討伐隊は出なかったのかね?」
「出たさ。だが駄目だった。近づくと嵐がひどくなって、船がまともに近づけねえんだと。討伐艦隊十隻のうち、怪物にたどり着けたのは三隻、帰ったのは二隻だけだ」
ため息交じりの言葉は荒唐無稽で、マーガレットは思わず天を仰いだが、ディロックは渋い顔のままだった。急ぐ旅と言うわけでもないが、討伐の見込みがないのは問題だ。
それだけ大きな生物となると、致命に至るまでの出血量は膨大なものとなるだろう。しかも人間が戦いに出るには準備が要る上、船がどうあがいても気候に左右される以上、毎日出港することも出来ない。その間に傷を癒やされて振り出しに戻るのが関の山である。
もそもそと野菜料理を頬張りながら、二人はどちらともなく唸った。
「さぁて……どうするかね」
「どうするもこうするもない。倒すか、倒せるようにするしか無いだろう」
そう言いながらも、ディロックの思考からはため息以外のものが漏れていくことはなかった。地上ならいくらでもやりようはあるが、海上となると専門外だ。
加えてそれほどの規模になると、もはやディロック一人でどうこうできる話ではない。だがそれならそれで、やりようがない、と言うわけでもないのだ。やるべき事が明解なことに越したことはないのだから。
「とりあえず、やるべきことを整理しようか。まずは敵――そうだな店主殿、その怪物に名はあるのかね?」
「名か。そういや、特に決められたって話は聞いてねえなぁ」
「そうかね。や、どうも、調理に戻ってくれていいよ。……ふむ、君の夢を塞ぐのだから、さしずめ夢食らいと言ったところか。こいつの情報が必要だ」
「ああ。幸い、交戦自体はしているんだから、戦って生き残ったやつもいるだろう」
「うむ。話を聞くことから始めるべきだな」
英気を養うべく野菜をほおばり、空中に絵を描くようにフォークを動かすマーガレット。ディロックは魚を切り分けながら、それに続いた。
「あとは船だ。嵐とやらに耐えて突っ込めるだけの、頑丈で特別な船がいる」
「それと、それを出航させる許可も。あるいは、禁止令を無視して突っ込んでくれる大イカレ野郎を探す、というのも手だがね」
遠くまで船を出させないようにしているのは、町長による判断だ。浅瀬での漁業では利益も低いだろうが、それを踏まえてもなお余りある損害を"夢食らい"によって受けているのだろう。その判断を覆すのは難しいかもしれない。
一方で、大イカレ野郎を探すのも一苦労だ。造船事業、とくに大型のものになればなるほど、それは行政の影響を大きく受けることになる。規模の大きさ。町長の禁止令を無視できる者たちは、必然的に少なくなる。
さっそく暗礁に乗り上げつつある計画だが、なんにしても止まるという選択肢はないのだ。ここまで来たのだから、最後まで歩き通したい。どんなに無謀なことだとしても。
「はてさて。まずは……冒険者でも探すかね。こういう時、行政は兵を出し渋るから、どうせ戦ったのは奴らだろう」
「まぁ、そうだろうな。勝てるかどうか分からない相手にぶつけるのは、より死んでもいい方だ」
「世知辛いものだ、まったく」
彼女がからからと笑いながら立ち上がったので、彼もそれに続くべく、ジョッキの薄いエールを飲み干しきった。苦味のある水、と言うべき味だったが、気付けにはちょうどいい酒精だった。




