百六十二話 老人の形見
苦しそうなうめき声を上げながら、狼が顎を開いた。ディロックが一番驚いたのは、その声が人間のもののようであった事である。低く、洞窟の底を擦るような声。石臼の音が人の言葉に聞こえたような、ひどい違和感のある声だった。
それは狼の声にはあるまじきものだ。混沌によって歪んだ結果であろうか。一説によれば、混沌とは淀んだ死の成れの果てであるという。命が正しく死ねず、生きるも死ぬもできぬまま冥界をさ迷った結果、異界へとたどり着き、そして混沌の輩へとなり果てるのだと。
そう考えるのであれば――"これ"は、命と言えるのだろうか。歪み、狂い、命としてまっとうな形を失ってしまった"これ"は。
狼はしばらく唸り、意味もなく雪の地面をガリガリと削っていたが、力尽きたのかやがて止まった。そして、何かをけぽりと吐き出した。
よく見ると、それは目玉である。それは狼のものとは違う、人の眼球だった。一つ、二つ、三つ、四つ。どろどろに溶けてしまったものもある。十人か、二十人か、あるいはそれ以上分に匹敵するだろうか。
すべて、この穢れ狼"牙持つ風"に食われたものだったのだろう。目に限らず、混沌は人の身体を取り込んで力に変えるものだ。
オヴァトはその中の一つを、じっと見つめていた。青い目だ。夜明けの空のような、藍色に近い青。もしかするとそれは、記憶の中にある目の色と似ていたのかもしれない。
狼が最後に吐き出したのは、目ではなく、一つの鏃だった。
「……カリナ。そこに……いたのか」
老人は迷いもためらいもせず、それを手に取った。艶のない金属の鏃。光を受けるとかすかに金の光をやどすそれは、精緻な装飾が施されており、おそらくは儀礼用のものだろうと思えた。
ディロックには何も読み取れない。その鏃が何を示しているものなのか。オヴァトとカリナがどんな関係にあったのか。口を閉ざす限り、旅人の事情は、旅人自身の胸の中にしか残らないのだ。だから、二人はじっとオヴァトが漏らす嗚咽の声を、少し遠めから聞いていた。
仇だったのだろう。決着だったのだろう。終わったところで、命も、時間も、無念も、何一つ戻っては来ない。けれど、終わらせなければいけないものだった。それが今終わったのだ。
ぶわり、と風が吹いて、かすかに粉の雪が舞う。ディロックが咄嗟に首元――砂塵避けの布を握ると、たちまち魔法の力が起動して、顔周りの雪をどかしていく。マーガレットも何かしらで対策しているようだ。だから、二人には見えた。
雪の中に誰かいる。オヴァトではない。村人でもない。
年若い女だ。黒く長い髪が、白い雪の中で影のように目立って見えた。気が強そうな青い目に、雪よりも命の温かみある白い肌。柔らかにほほ笑んだ口元は母性にあふれ、優し気な視線はオヴァトへと注がれていた。
「ずっと、そこに……」
老人は気づいているのかいないのか、鏃を握って泣き続けた。強く握りすぎたのか、指からは血が流れていたが、それでもずっと泣いていた。
ディロックは妬ましかった。
老人の物語は終わりを迎えることができたのだ。仇も取れた。涙を流す正統な権利がある。亡きかつての人に祝福され、前を向けるだけの働きをした。
ディロックにはできなかった。仇は他人の手で死に、悔悟の涙を流すことさえ、誰よりも自分自身が許さない。自分の旅が終われるのかも不明瞭で、歩く足さえおぼつかないのに。
――あいつは、何処にいるんだろう。彼は理不尽極まる妬ましさを抑えながら、ぼんやりとそんなことを思った。どこにもいないだろう、とも思う。彼女は死んだ。死んで、祖先の元にいる。ここにはいない。
寂しいと思わなくなったのは、慣れたからだろうか。あるいは、友を得たからだろうか。
雪を巻き上げた風が、もうひとたび強く吹くと、一瞬吹雪のように視界が閉ざされる。そして、視界が開けた時には女は消え、オヴァトは立ち上がっていた。
「大丈夫か?」
「……傷は、少しいたむが、な。すっきりとした気分だ。何十年かぶりに」
「そうだろうな。多くの事が終わった」
よかったよ、と彼は言う。老人はゆったりと、躊躇いがちに頷いた。
「そうそう、君が寝てる間に見てきたがね。村人たちは麓で待機しているよ、デイロック」
「麓に?」
「雪崩の音で思わず立ち止まって、そこから上手く動けなかったということだ。おおよそ無事だよ。けが人はいるがね」
それもいいことだ。騒動に巻き込まれ、村を一度放棄はしたが、おそらく穢れ狼も村を荒らすような事はしていないだろう。一人も死んでいないのだから、葬儀も必要ない。少し休んで、また山を登れば、元通りの生活をすることができる。
災害の解決に成功したのだ。つまり、可能な限り良い形での決着に導けた、ということである。三人は大きく息を吸い込み、吐いた。
「なんとか、なったな」
「死ぬかと思ったがね、君が。というかなぜ君は死んでいないんだ? 雪崩だぞ?」
「雪崩の方向に合わせて思いっきり跳んだんだ。勢いを殺せば、ゆっくり押してくるデカい壁みたいなものだからな。残ってた『障壁』の護符も砕け散ったが……」
「馬鹿げた事をする奴だと常々思っていたが、君はまったく、本当の馬鹿だ。その馬鹿をやり遂げてしまうから腹が立ってくる」
「……怒ってるのか?」
「ああ怒っているともさ、人がどれだけ心配したか知らないような顔でいられるのは真に腹が立つ事なのだよ」
杖で突きにかかるマーガレットと、どうにか避けようと暴れるディロック。オヴァトはそれを、どこか懐かしそうに見ていた。




