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青空旅行記  作者: 秋月
五章 白き山マーダヴァ
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百六十一話 老人の決着

 ディロックにとって、白は苦手な色だった。


 南方の離れ島、雪が積もるどころか、ろくに降りもしない故郷において、それは異質な色であったからだ。目立ちすぎるがゆえに、自然の世界にも滅多になく、精々花の一種や二種がその色を宿している程度だった。


 だから、彼は視界一面を覆う白に、一瞬呆然としたような思いだった。自分が雪崩の中へ飲み込まれたことを忘れてしまうほどには。


 マーガレットがかけた防寒の魔法が、かすかに彼の前の雪を退けていたので、どうにか空気が吸えるだけの空間はあった。全身にのしかかる雪は重いが、振り払えないほどではない。ほとんど泳ぐようにして、雪をかき分け、ディロックは静止した雪崩の上へ抜け出した。


 白。山の木々も岩肌も、全てを薙ぎ払った白い濁流の痕跡だけがそこにあった。


 命の気配はない。穢れ狼の多くはつぶれたか、あるいは息が出来ずに死んでいったのだろう。どのくらいの時間が経ったのかは分からないが、少なくともディロック以外、雪から抜け出した痕跡はなかった。


 しんと静まり返る山の中、雪崩の上に座り込んで、ディロックは大きく息を吐いた。そこでようやく、身体のすべてから力が抜け、自身の疲労について思い出すこととなったのだ。


 関節のあちこちから、ぎしぎしと軋むような痛みがする。あれだけの質量の直撃を受けたのだから、ディロックとてただでは済まない。一歩間違えれば重症であったし、耐寒の魔法が雪を退けていなければ、窒息死の危険もあった。


 生き延びたのはひとえに幸運だった。死なないだけの努力はしたが、どれだけ対策しようと、自然は大いなる死神の一体なのだから。


「……マーガレット」


 雪の静寂の向こうに目掛けて、彼は小さく呼びかけた。かすれた、小さい声である。


 一体どれだけの時間が経ったのか。一日二日は立っていないと思うが、彼女は無事だろうか。空は飛んでいたはずだが、雪崩の嵩はどのくらいだったろう。場合によっては、彼女とて無事では済まない。


 背筋を雪よりも冷たく襲う想像に、ディロックは思わず叫んだ。


「マーガレット!」

「――ここだよ、ディロック」


 果たして、マーガレットはいた。雪崩に薙ぎ払われ、飲み込まれた木々の枝に、ひっそりと座っていたのだ。ゆっくりと白の大地へ降り立つ彼女の方へ、彼は走った。


「無事だったか!」

「いや、それは私のセリフなのだがね。ああも無防備に雪崩にのみ込まれるとは……」

「……よかった。本当に……」


 マーガレットの肩に手を置いて、大きな息を吐く姿に、彼女は"おや"とでも言いたげな顔をする。だが、ディロックに取り繕えるだけの余裕もなかった。


 不安だったのだ。彼はようやくそれを知った。自分には何もないと思っていたのに、そうではなかった。懐には新しい物が入っていて、それを失いたくないと、本気で思ったのだ。心地よい旅路を。頼れる友を。そう思えるだけの自分を。


「ま、私はごらんの通り、五体満足さ。それよりディー、こっちに来てくれ」

「なんだ? まだ何かあるのか?」

「そんなところさ。さ、急ごう」


 そういう割に、彼女は随分、ゆったりと歩きだした。


 ディロックが困惑しながらも追いかけると、段々と山を降りる形になる。マーガレットは楽し気だ。何処へ行くのか、さっぱり分からなかったが、彼はなんとなく聞かなかった。聴くまでもない気がした。


 進めば進むほど、雪崩の勢いが止まっていった様子がうかがえる。木々や岩々をなぎ倒し、しかしそれらにせき止められ、次第に雪の嵩が減っていた。自然と自然がぶつかり合ったのだ。そして最後には雪ではなく山々が勝利した。


 人為的に雪崩を発生させたことに、少し罪悪感はあったが、自然に謝る暇もなくマーガレットが進むので、彼も進んだ。


 じきに、道が平坦になった。山のふもと、平地が近いのだろう。坂は段々となだらかになり、ちらほらと穢れ狼の死体も見えた。雪崩で吹き飛ばされたのか、潰れたような死体も一部あったが、ほとんどは矢傷によるものである。


 そして――その先に、オヴァトがいた。


 木にもたれかかるようにして倒れた姿は、一見死んでいるかのようだったが、よく見れば胸が上下している。この枯れた大木のような老人は、まだ生きている。


 そしてその前には、ひときわ大きい、穢れ狼がいた。今にも飛び掛かりそうな前傾の姿勢から、しかし毛ほども動く気配がない。額には、なんと矢羽根が埋もれかける程に深く、一本の矢が突き刺さっていた。命の音が感じられないのだ。穢れ狼の王――"牙持つ風"は死んでいたのである。


 近くで見ると、それは恐ろしい怪物である。六つの目を持つ黒い狼。その全身を混沌に侵されている以上、これは生き物と言うより、混沌そのものと言っていい。ディロックとマーガレットの二人であれど、本気でやり合わねばならない相手だったろう。


 老人は自分の物語に決着をつけたのだ。ディロックはぼんやりとそう思い、オヴァトの方へ近づこうとした。


 その瞬間、狼がかすかに動いた。

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