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青空旅行記  作者: 秋月
五章 白き山マーダヴァ
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百五十九話 死線

 ――とうとう、結末が迫って来たのだろうな、とオヴァトは思った。


 崖の上から降る血が見える。後方で響く爆音が聞こえる。村人たちを守る、薄くも心強い結界が見える。旅人二人は戦っているのだろう。山の範囲から非戦闘員たちが抜け出すまでもう少し。


 だが、先頭を務めて来た老人の前には――ただ一匹の獣が、立っていた。


 黒い、黒い狼である。身の丈は老人を軽く超え、頭だけでもオヴァトの上半身ぐらいはあるだろう。噛み切る牙は鋭く、つばに濡れてじっとりと湿っている。


 何より異質なのは、その目が六つあることだ。赤、黒、そして青。宝石のような光を宿した目が、今は憎悪と殺戮に染まり、ギラギラとした殺意の意思を移している。


 牙持つ風。それは、長い時を生きた、魔なるものである。オヴァトが生まれる前からいたというのだから驚きである。ともすれば、その頃から混沌の眷属であったのだろうか。何にしてもこの獣は、今日この日まで生きて、多くの命を食らってきた。それはオヴァトも同じだ。


「お前も、決着がつけたいのか」


 老人は静かに呟いた。彼の後方では、山を降りて街道に入っていく村人たちがいる。ここを過ぎて少し行けば、近場の街までたどり着ける。顔なじみもいるから、通れないということはないだろう。


 だからこそ、オヴァトがここで引くことはできないのだ。


 狼の目の内一つは潰れている。矢によるものだ。これはオヴァトがかつて、必死の逃走のさなか放ち、唯一"牙持つ風"へと与えた手傷である。これを与えたからこそ、オヴァトは生き残り、カリナは死んだのだ。


 それからずっと、決着もつけぬまま、何十年も生きた。お互いに。そう思うと、ぎしりと失った足が痛む。古傷が唸るような熱を持っていた。もしかすると、この狼もそうなのだろうか。


 仇を打ちたいと思う気持が、なかったといえば嘘になる。続いていたはずの冒険の報いを与えなければと、願う憎しみは確かに胸の内に宿る。だが、それを誰が望むだろう、という考えもあった。カリナも、そしてオヴァト自身でさえも望まない事だ。そうしたところで、何も帰っては来ないのだから。


 狼はそれとは正反対の憎悪をむき出しにしている。失った目を取り戻したのか。それとも、たかが人間に傷つけられた恨みを返したいのか。どちらにせよ、戦いは避けられない。


 だから、結末が迫って来たのだと、オヴァトは思ったのだ。因縁を終わらせる時が来たと。


「……終わらせよう」


 長い因縁だった。ぎりりと弓を引き絞る音が雪原に響く。牙持つ風は頭を下げるような姿勢で後ろ脚に力を込めた。


「……終わらせようじゃあないか、何もかも!」

「グルゥ!」




 ディロックは血みどろのまま、ぼんやりと雪原に立っていた。辺りの白は血で赤く染まり、穢れ狼たちも彼を遠巻きに見ているほどだ。


 既に村人たちの姿はない。避難が終わったのだろうか。血で滑る手で、剣を握り直しながら、思う。既に全滅した可能性など、考えたくはなかった。


「無事だよ。皆無事だ、ディロック」


 空から声がした。マーガレットだ。見れば、魔法の障壁は剥がれかかっていたが、彼女自身は未だ無傷であった。


 ディロックにも深手はないが、体力の消耗は重くのしかかっている。足先は熱く痺れており、剣を握る指とて緩んでいる。やはり雪が重いのだ。もう大立ち回りは出来ないと思った方がいいだろう。だが、休んでいる暇もない。


 二人の前には、狼の波があった。


 一筋の黒が走った、白い波。牙の間から吹きこぼれていく泡は、そこに命としてあるべき理性を示さない。混沌とは、かくも命を歪めてしまうものなのだ。遠巻きに二人を監視するように、それらは壁を作っており、そしてじわじわとその包囲網を狭めつつあった。


「オヴァトは」

「様子をうかがう隙も無かったよ。だが、狼は全部、こちらに来たらしいな?」

「ああ。……楽でいいな」


 ディロックは思わずと言った様子で、そうつぶやいた。


 もう見えない所に獣はいない。目の前にいてくれるなら、打ち倒せばそれいいのだから。それを聞いて、彼女もにやりと笑って返した。


「全くだ。だが、この数は楽ではないな」

「そうだな。……マーガレット、俺が合図したら、()()


 雪山の上の方を指さし、彼は言う。その目に迷いはなく、だからこそマーガレットも、落ち着き払って答えた。


「正気かね?」

「正気さ」

「君、空は飛べないだろう」

「まぁな。だが一匹だって逃せない。ここで全部、仕留める」

「……分かった。死ぬなよ」


 ああ、と小さく頷く。死ぬ気などない。そうだ、死ぬ気などなかった。


 死んでしまいたい、と思うことは何度もあったが、ディロックは一度も死んだことはない。これからも多分、そうだ。それは背負う罪であり、それは掲げる誇りであり、彼にとって歩むべき道となった。


 故に、彼は剣を構えた。足元の雪が、少しだけ軽くなった気がした。


「やるか、ディー」

「やろう、マギー」


 軽々しく言い合い、二人は笑った。

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