十六話 炎の霊薬
核を失うと、怪物の姿がみるみるうちに崩れ始めた。核があった腹部を中心にして、真っ黒な粘り気のある液体へとその姿を変えてゆく。
数分もして、ディロックに掛かった『強力』の効果も切れる頃には、怪物の姿は何処にもなかった。あるのはべたつく黒い水溜り、そして核の残骸だけである。
ディロックは篭手と曲刀に付着した黒い液体を払いながら、怪物であった水溜りを眺めた。それは艶の無い液体で、その部分だけ穴が開いてしまったようにも見えるほどに黒い。漆黒、と言い換えても良い。
少し独特な異臭がしていて、触りたいとは到底思えなかった。
しばらく残骸と周囲を見渡し、増援が来ないことを再三確認した上で、ディロックはようやく曲刀を鞘に収め、深呼吸した。
剣を握っていた時の気配は、息を吐き出す度に薄れて行き、最終的には元の旅人ディロックの雰囲気へと戻っていた。彼としても、そちらの方が楽だった。
すると丁度、ニコラが読んだであろう何名かの男手とモーリスが駆けて来た。男達は黒い水溜りを見て一瞬騒然となったが、その中の一人が声を上げることで比較的すぐに納まった。
「おう、そこの若いの。ニコラの嬢ちゃんが言ってた怪物ってのは、それか?」
体にいくらかの傷跡を持った男は、駆けつけた男達の中でも最も年長に見えた。おそらく、まとめ役の様な男なのだろう、とディロックは推察する。
ディロックは小さく頷くと、怪物がこうなるまでの経緯を簡単に説明した。薪割りをしていたら、森から怪物が出てきた事。そして、それと戦い、核を破壊した結果、この液体へと変貌した事を。
まとめ役の者を含め、男達がざわざわと話し合っている中、モーリスが一歩前にでてディロックに話しかけた。
「戦ったとのことでしたが、お怪我はございませんか? 多少なら治療できますし、近くに薬屋もあります」
「いや、いい。見ての通り無傷だ」
そういって軽く手を持ち上げてみせる。一撃も受けていないので、確かに無傷ではある。『強力』を使用したために、若干左腕にだるさはあったものの、痛いという程のものでもなかった為口にはしなかった。
モーリスはその様子を見て安心したのか、ほうと息を吐いて肩の力を抜いた様だった。
「しかし……森に住んでた動物、と言う訳でもなさそうだが」
黒い水たまりと化した怪物に一瞥をくれたディロックがそう呟くと、モーリスは首を横に振って答えた。
「わかりません。この村で十年は過ごしていますが、あのような物は一度も」
「そうか……」
顎に指を添え、少し俯いて考えこんだディロック。彼は少しだけ思考をめぐらせたが、すぐにやめた。
――情報が少なすぎる。いくらなんでも、この状態では何も導き出せない。
手の中にある事実は、精々、魔法生物が最近作られた、あるいは出現した物だという事。推測出来る事も、森に異変が起こっているという程度に過ぎない。深い溜息が漏れた。
「まぁ先に、話を聞かせてもらっても良いか? 調査隊を派遣するにしろ、情報が要るものでね」
「ああ、構わん」
まとめ役の男が頃合を見計らって話しかけてきたので、彼は軽く頷き、ひとまず何が起こったかの顛末を軽く語った。
とはいっても、それはほんの短い時間に過ぎなかった。何故なら、教会裏手で薪割りをしていたら、森から魔法生物が襲ってきた、と伝えるだけだからだ。他に伝える事が何も無い。
これが偶発的な怪物の出現であれば良いのだが、魔法生物に限って、そんな事はまずありえない。時折魔法人形が特殊な条件のもと出現する事はあるものの、あの怪物がその手合いには見えなかった。
「殆ど何も無いのと同じか……」
「すまん」
「いや、気にせんでくれ。元々、あるとは思ってない」
まとめ役の男――彼はモーリスから聞いたが、グラムという名前だ――は、何度か小さく頷くと、モーリス、ディロックと並んで怪物の残骸を見つめた。
「にしても、こりゃなんなんだ? ただの水には見えん」
黒い液体は光を吸い込んでいるかのように艶がなく、刺激臭というほどではないが、独特の臭いを撒き散らしている。なるほど確かに、ただの水ではないだろう。
そして、彼の記憶にはその黒い液体の記憶が朧気だが存在していた。その答えを求めるように、ディロックは黒い水たまりの前にしゃがみ込む。そして、適当な量の黒い液体を取って瓶に詰めておいた。
独特の臭い、艶の無さ、そして魔法生物の素材となる液体。今分かっている条件を組み合わせると、選択肢はそう多くない。そうなれば後は総当たりだ。
それからディロックは、いくらかの薬品を取り出して、順々に黒い水溜りに一滴ずつ垂らしていった。細長い瓶にはそれぞれラベルが貼ってあるが、恐らく薬師並みの知識が無ければ名前を見ても分からないであろう。
何度かそれを繰り返すと、黒い液体からじゅう、と煙が上がる薬品があった。眉をしかめ、彼は薬品をしまうと、今度は火口箱(火付けの為の道具一式が入った箱)を取り出した。
そしてその中から、小ぶりな火打石と、握りやすい形をした鉄鋼片――火打金を手に取ると、水溜りの近くに居た男たちに向かって呼びかけた。
「水溜りから離れろ。後、できれば水を持ってきてくれ」
ディロックの呼びかけに、男達は皆、同じように首を傾げたが、まとめ役の男に突かれて水を汲んできた。
彼はそれを横目に、何度か火打石と火打金をたたき合わせた。カチン、カチン、と音が鳴り、その度に火花が散る。それを何度か繰り返すと、黒い液体は小さく音を立てながら燃え上がった。
「うおっ!?」
「あち、あっちぃ!」
すぐさま飛びのいたディロック以外の、不用意に近づいていた男達の何名かが火に驚いて声を上げた。火はあっという間に炎となり、音も無いままに黒い液体を包み込んで燃えた。
水の上に燃える不思議な炎に、彼を除いた全員が固唾を呑んでその様子を見守っていた。
しばらくすると、炎はひゅうと風に吹かれて消えた。先ほどまで地面を黒く塗りたくったかのように広がっていた黒い水溜りは、もう何処にもありはしない。燃え尽きてしまったのだ。
「……炎の霊薬、か」
ディロックはぽつりと呟くと、横で呆然としていたグラムに向かって、"所持違法薬品、触るな"と書いたラベルを貼った瓶詰めの黒い液体を手渡した。一言、火気厳禁だ、と付け足して。
炎の霊薬。それは霊薬とは名ばかりの、ある生物の体液から作られる一種の禁忌の品である。尋常ならざる中毒性があり、もし人が服用すると、多幸感に包まれ、そして知性を失い廃人になる。
独特の臭いがするほか、高い引火性を持ち、基本的に火を近づけると燃える。油とは似て非なるものであるが、水に浮く性質も持っている。
それらは特殊な魔法人形の素材にもなるが、そもそも材料となる体液が封印指定の品であるため、一般には流通しておらず、街中で見ることはまずないとされる。
では、炎の霊薬の材料たる体液とは何か。
それはかつて様々な要因によって呼び起こされ、そのつど、幾度と無く文明を滅ぼしてきた悪夢の軍団。人に似て人ならざる、混沌に属し、深淵に住まう者。
俗に、混沌の指先と呼ばれる者たちの中に通う血が、炎の霊薬の材料の一つだ。
数多の命と引き換えに、混沌に属する者達は全て深淵へと送り返されたという。時折混沌に心を奪われた魔術師が召還することはあれど、この世界の何処にも生存しては居ない。
それで出来た魔法生物ならなおさらだ。
いよいよきな臭くなってきたとは思いながらも、ディロックはモーリスと共に教会へと戻っていった。