百五十八話 牙の波
ふと、隊列の足が緩んだような気がした。
「……来る、か?」
直感がささやくまま、口に出す。遠く、
先を見つめる視線は、まだ何も捉えてはいない。雪の中で風が揺れている。何かが起ころうとしている事だけは分かった。
「マーガレット、魔法の準備を頼む」
「ふむ。どういうのが良い?」
「とにかく範囲の広い攻撃か防御。一瞬の時間がほしい」
「了解だ」
詠唱の声を耳にしながら、ディロックは近場の岩を駆け上った。雪で視界は悪いが、高所のほうがまだ見通せる。ジッと細めた目が、鋭く違和感を見つけ出していく。
隊列の勢いがそげたのは、谷のような所へ差し掛かったからだ。断崖絶壁に囲まれて道が細くなっており、一度に通れる人数が限られるのだ。そうである以上、隊列全体の歩みは遅くなり、陣形全体も縦長に伸びる。
もしディロックが狼なら。食い破るなら、ここだ。
「しばらく空を飛んでいられるか?」
「魔法を撃ちながらか。まぁ出来るとも、ご注文は以上で終わりかね?」
「ああ。勘定は翌朝に頼む」
おや、とでも言いたげの顔を置き去りにして、ディロックは跳んだ。
全力の跳躍。風が体の表面を流れていく。解放されたような漠然とした思いがあったが、体は大地にひかれて落下していく。谷の側面、突き出た岩に山猿のごとく手足をひっかけて固定。ここなら、隊の中間が良く見える。
不安げな顔をした村人たちは、前を歩くのに必死で、頭上のディロックに気づきもしなかっただろう。必然、それより上からかけ降りようとする狼たちにも。
「『魔弾』」
鋭く叫ばれた言葉が力へと変わり、空気のうねりが半透明の弾丸を作り出す。杖もなく、心得もないままに放たれた一撃は、しかし崖の一部をえぐって狼の足を縫い留めた。
大した威力はない以上、混沌に蝕まれ、強化された状態の狼を打ち倒す事は出来ない。それでいい。それ十分だ。今は非戦闘員がいるのだから。
「行け! 行け! 止まるなーッ!」
ディロックが頭上から叫び、わぁっと悲鳴混じりの声がして、隊列がにわかに動き出す。ペースを乱すのは得策ではないが、今はこの谷を抜けなければならない。縦長に伸びきった隊列が分断されれば、後は各個撃破しか道がないのだ。
「槍を持ってる奴は上に向けろ。ちょっとでも牽制するんだ! 倒せなくても、一匹動けなければ一人助かるぞ!」
「お、おう!」
「くそっ、くそぉっ! やってやる!」
村の男たちが槍を手に取り、力を籠める。もはや家族と、集落で苦楽を共にして来た仲間を守れるのは、ほかならぬ彼らなのだ。ディロックは小さく頷くと、崖の反対側へと跳躍した。
壁面を削るほどの脚力はゴウと音を伴う。凄まじい風の抵抗を感じながら、ブンと振り回した剣が狼の頭を切り裂いた。隊列へ落下しないように、その死骸を蹴り上げながら、襲い来る狼に拳の一撃を叩き込む。
だが、崖上の林を見れば、混沌の眷属たる穢れ狼は次から次へと湧いて出てきていた。
――キリがないな。
噛みつこうと跳躍した狼の腹をけり上げ、足をへし折り、襲い来る波を捌く。だが、既に何匹かは彼の守りを抜け、隊列へ向けて落下を始めていた。
だが、ディロックは振り向かない。振り向いたら何もかもがおじゃんだと、あらかじめ知っていたし、実際そうだと波を目の前にして思う。
だが、そうだとわかっていても、拳には余計な力がこもっていた。
本当に振り向かなくてもいいのだろうか。隊列を救いに行かなくてもいいのだろうか。振り向いたら、何もかも、なくなっていはしないか。白い鱗、古い神の古い記憶が、脳裏を通り過ぎてわめく。恐れ。対峙。笑顔。別れ。形見。何もかもが針のような痛みを伴ってディロックへささやきかけて来た。
こらえきれない思いの中、擦り切れるような声で呟く。
「……頼むぞ、マーガレット」
返事はない。悲鳴は聞こえてこない。悲鳴さえ上げられないうちに死んでいるのかもしれない。それでもディロックは振り返らず、その代わりに剣を、拳を、足を振り回した。今出来ることは、不安がって振りむことではないはずだ。
身を投げ出す。一撃一撃を、最低限の威力と速度で叩き込み、次へ。一つ、二つ、三つ。足を入れ替えて跳躍し、身を回して四つ。着地と同時に蹴りかかって五つ。腕へかみついた狼を、別の狼へ叩きつけて六つと七つ。
果ては見えない。終わりはまだずっと先だ。
――随分と無茶をする。遠く崖の上へ跳んでいった、それこそ獣より獣らしい男を見てマーガレットは呟いた。
彼女の位置――最後尾から見ても、狼の量は尋常ではない。小山のような量だ。それが明確に、ある程度の戦術をもって襲い掛かってくるのだから恐ろしい。ディロックが一人、身を切って相手にしている者ですら、一方面の戦力に過ぎないだろう。
何せ、既にマーガレットへ跳びかかろうとしている狼は既に三十を超えている。宙に浮き、防御の魔法を展開した彼女には届かないとはいえ、数は数である。ここからでは見えないが、多分オヴァトも襲撃に遭っているはずだ。
隊列全体へ届くように薄めたとはいえ、『障壁』の呪文はまだもつ。隊列が山を降りきるまであと少し。狼が山を離れて降りてくるかはわからないが、平地であればディロックが負ける事もないだろう。
「『炎矢』! ……やれやれ、無茶をする癖が私にも移ったかな」
崖上から跳んできた一匹へ、振り向きざまに魔法を叩き込み、マーガレットは笑った。だが、悪くない気分だと。成り行きの恩で始めた旅だ。成り行きで始めた冒険である。だが、行き着く場所は分からずとも、目的地は自分で決めるものなのだ。




