百五十七話 下山
ぞろ、ぞろ、と大蛇のように連なって、村の住民が山を下りていく。雪は降っているが、比較的弱い。朝の日も若干だが、雲の上に見えた。
いかに進退鮮やかといえど一般市民、足並み揃えての行進など出来るはずもなく、皆思い思いに足を進めているだけだ。しんがりにはディロックとマーガレットが付き、オヴァトは行進を先導している。立場的にも、能力的にも、それが最適だろうという話になったのだ。
オヴァトにはディロックやマーガレットたち程の腕前はないが、弓使いとして鍛え上げて来た体と感覚、そして山歩きの技がある。反対に、二人にはそこまで山への慣れがないが、ディロックは直感が鋭く、動きが早い。
いかに彼の慣れぬ雪上であるいえど、それは力づくで突破できる。長距離であればともかく、短距離を走る間、雪をねじ伏せる程度は支障がない。
また、マーガレットが遊撃役として動けるのも大きいだろう。魔法によって遠くから探知し、遠くへ攻撃する事ができる。そうでなくても環境を退け、宙を浮き、魔力の続く限りその長い手を伸ばす事が出来る。つまり、後方で何かが起こっても対応しやすい。
かくしてこのような陣形を組み、既に二時間。既に日は傾き始めており、じきに夜が来るだろう。もう少しすれば麓であるが、夜の雪山は恐ろしい場所だ。風はその冷酷さをまし、足元の危険さは暗闇の中で隠蔽される。
先導するオヴァトは信頼できる山歩きだが、常人では、それについて歩く事でさえ困難を極めた。下手をすれば足を踏み外し、そのまま遺体さえ残らないかもしれない。それでも、行くしかないのだが。
「狼は何時来ると思うかね?」
「……夕方だな。まだ辺りが明るいぐらいに、"第一波"が来るだろう」
「ほう。根拠は?」
「山での襲撃は、多分偵察だったんだろうと思う。そして、戦える人員として、俺とオヴァトを認識した」
「ふむ」
「マーガレットは姿を見せていないからまだ大丈夫だろうが――多分、どちらかを積極的に引き離しに来る」
陣形を組んで進む人々のほとんどは非戦闘員である。ディロックとオヴァト、どちらが離れたとしても、即座に防御ががら空きの隊列を食い荒らされるだろう。
有志を募って武器を持たせることで最低限の自衛能力は持たせているが、それもささやかなものである。波のような量の狼相手では、抑止どころか時間稼ぎにもなるかどうかだ。
「正直な所は分からん」
「おいおい……何とかなるのかね?」
「何とかする。そのために一応、準備もした。だが、俺は戦術を学んだ事なんて一度もない。そもそも、人間相手の戦術が狼に通じるかも謎だ」
「確かにな。はは」
乾いた笑い声が、しっとりと雪に沈み込んでゆく。ディロックも笑いそうになって、ふと顔を引き締めた。
「左後方の木陰に小集団。あの曲がった奴だ。……斥候だろうな。盛大に吹き飛ばせ、情報を持ち帰らせるな」
「全く、人辛いが荒いな? だがいいさ。……『爆炎』!」
鋭く叫ばれた力ある言葉が渦を巻く。魔力のうねりを感じたのか、気配が動いたが、もはや遅い。放たれた力は一点に収縮し――そして破裂した。火柱が上がる。雪が崩れる轟音。木のニ、三本に混じって、狼だったであろう肉塊が宙を舞う。
「斥候を始末しただけだ、気にするな! 急げよ、だが焦るな! 足を踏み外せば食われる前に死ぬぞ!」
小さく聞こえる驚愕の声と、急に上がったペースを見て、ディロックが声を上げる。オヴァトも静止しているが、足は想定よりも少し早まっていた。
無理もない。彼らの日常の中では、戦闘どころか、荒事さえ稀であっただろう。まして、爆音など普段聞きようもないのだから、恐怖を覚えるほうが自然なことである。ディロックも当然、それを承知の上で吹きとばせと指示したのだ。危機感を煽る目的もあった。それでも、心配は残る。
ペースを上げる以上、体力もまた目減りする。山の住民である彼らは、ディロックより山を歩きなれているだろうが、オヴァトの様にすいすいと消耗なく歩く事はできないのだ。
狼の襲撃前に山を降りられれば一番良い。だが、それが叶わなければ、迎撃しながらの下山になるだろう。急ぐべきとはいえ、力尽きれば悲惨な末路が待っている。責任はディロックにもある以上、下手な真似は出来ない。
手甲が手汗を吸って、じっとり湿っているのに、ふと気づいた。魔法のおかげで凍りはしないだろうが、それでも自分が緊張している事をなんとなく示していた。
「……大丈夫だといいが」
「なるようにしか、ならんさ」
短いやり取り。結局、どれだけ細心の注意を重ねても、敵は来るし、被害も出るだろう。いくら心配してもしたりないが、悩み続けても仕方がない。その言葉をじっと受け止めて、ディロックは大きなため息で返した。そして、大丈夫だといいが、と繰り返す。
時刻はもう昼過ぎを越して、もうじき夕暮れが来る。ディロックの予想が正しければもうじき来る。時間は残酷に過ぎ、盾に伸びた隊列は、腹立たしいとさえ思えるスピードで進んでいた。




