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青空旅行記  作者: 秋月
五章 白き山マーダヴァ
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百五十五話 牙持つ風

「これで最後か」


 ディロックは血まみれで呟いた。壮絶な姿だが、その赤のほとんどは狼からの返り血だ。虫の甲殻から出来た鎧が多くの攻撃を防いでくれたのである。貫通した攻撃も、致命傷には至らないかすり傷だ。


「……これで最後、か」

「近くに気配はない。撃退した、と思っていいだろう」


 オヴァトが物陰からゆるりと現れ出でる。矢を番えた姿に油断はなく、周辺を見る目はまだ鋭い。こちらは、ディロックの奮戦もあって、怪我一つない様子だ。ということは、洞窟の中にいる非戦闘員やマーガレットもそうだろう。彼は小さく安堵の息をこぼした。


「何か言いたげだな。懸念でもあるのか」


 そう言われて、彼は口をつぐんだ。懸念について言うべきか、と迷ったのだ。この考えはあくまで、体感と経験則からくる想像に過ぎない。ディロックとて混沌との交戦経験はいくたびかあるが、別段専門家というわけでもないのだ。


 であるから、これがたちの悪い妄想のたぐいであればいい、と思って口を開きかけ――ふと、山の尾根を見た。こことは違う、少し低い山頂が見える。雪の白が月明りを反射して、山の尖った輪郭を朧気に光らせている。


 その頂点に、影が見えた。黒い、黒い影である。ここから別の山頂までは優に数百歩は離れているのに、そのシルエットはくっきり見えた。巨大なのだ。全長で言えば、五メートルほどはあるだろう。それは狼のように見えた。


 意識をぐっと集中させれば、"それ"の頭が彼の方を見ているのがはっきりわかった。目線など、ろくに捉えられるような距離ではないが、それでもハッキリと視線を感じたのだ。互いに互いを見ているのだという確信。


 あまりの異様さに、ディロックはにも言えず押し黙る。ただ一匹、こちらを観察するように睥睨するその姿は、まさに狼の王であるように見えた。


 それはやがて、ふと彼から視線を外すと、ゆっくりとした足取りで山を下っていく。


「懸念は、あれか」


 オヴァトが言う。緊張したように低い声だ。おそらく、視線の先を追ったのだ。猟師であるのだから目もいいだろう。あの姿を、この老人も見たのだ。ディロックはかすれた声で答えた。


「混沌の手勢は、大雑把に分けてニ種類いる。指揮する側とされる側だ」

「今来たのは、後者だろうな」

「ああ。どちらかだけがぽつんといる事はほとんどない。その場合は大抵、その場で封印されていたか、あるいは別行動をしているかだ」


 そして別行動をしていた以上、今来たのが本隊ではあるまい。今の数倍、あるいは数十倍。その位の規模であることを覚悟しておいた方がいいだろう。もし全てが襲ってきたら人を守る処の騒ぎではない。


 なにせ、あれらは基本的には山に住まう狼の体なのだ。動きは早く、登攀力は強い。どこからでも現れて襲い来るだろう。守る側としてみれば最悪の相手である。


「集落を、捨てた方がいいかもしれない」


 ディロックは苦々しく呟いた。まともにやり合って対処できる相手ではない。そして、備蓄を奪っている以上、村の位置や防備はとっくの昔にばれていると思った方がいいだろう。そうなれば村という陣地を防衛することは容易ではない。


 まして、くだんの集落には防備らしい防備がない。雪山という自然の堅城、切り立った崖や深い雪に包まれた要害の地は、彼らに防衛への意識を持たせなかったのだ。それは、賊のたぐいも多い現世において間違った選択とは言えない。だがこの状況においては、たたひたすらに不利な条件でしかなかった。


 居住地を捨てるべきだという判断に、従ってくれるかという問題もある。村は今日を生きる人々にとって最後の砦と言っても良い。自分たちで作り上げた世界なのだ。障害を排除し、年貢を納め、自分たちが生きる場所として定めたのだ。それを軽々と捨てられる村人はいない。


 また、何処に行くにしても財貨はかかる。護衛はディロックたちがしてやれるだろう。だが雪山を降りるとなれば、そう多くの家財を持ち出す事は出来ない。身につけれるもの全てを持ち出しても、寒村に住んでいる身で、一体どれだけの貯えが出来るというのか。街に降りても、街で生きていけないのでは意味がない。


 再び会議が必要になるだろう。そこで言葉を尽くすしかない。そう思いつつ、彼は傍らに降りて来たオヴァトを見た。その血色は蒼白と言っていい。雪で跳ね返って来た月明りが、今にも死にそうなその顔をぼんやりと照らしていた。


「"あれ"は普通の狼じゃあないな。混沌に落ちた命だとしても、異質だ」

「……」

「なぁオヴァト。聞いてもいいか」


 老人は激しく震える手を隠すように、弓を強く握り、そして小さく頷いた。背がいくらか縮んでしまったように見えた。


「あの狼は、あんたの"仇"か」


 しばらく、雪山に沈黙が降りる。戦闘が終わったことを察知してか、マーガレットが顔を出したが、二人の間の静寂に口をはさめなかった。オヴァトは、過去が追い付いてきたのだ、と震えた声で呟いた。


「ああ、そうだとも。あれは……山に住む長き尾にして、悪辣たる捕食者。"牙持つ風"。――カリナの命を奪った、わしの仇だ」

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