百四十九話 疑惑
「錠が? ……疑いたくはないが、それは人の仕業ではないのか?」
「その心配はないよ、オヴァト。これを見てくれ」
ごとり。重苦しい音とともに、机の上に投げ出されたそれは、およそ鉄くずと呼ぶのがふさわしい形をしていた。
手のひらほどの大きさの、歪んだ塊である。ほとんど半分に引きちぎられたそれは、しかし中に垣間見えるデコボコとした機構や、辛うじて残った縦長の穴から、それがかつて"錠前"であったことを想起できる。
「このざまだ。旅人らしい旅人はここ最近来ていなかったし、人間にはこんなこと、できないよ。多分、雪山猿の類だと思うんだが……」
ため息の音が低く低く投げ出されて、ディロックはその錠前を手に取った。見た目よりは重いが、ディロックとてそれなりに力を入れれば、歪めるぐらいのことは出来そうだ。おそらく青銅か何かでできているのだろう。
とはいえ、金属は金属だ。仮に彼が全力を込めたとしても、破壊することは出来るだろうが、千切るとまではいけないだろう。その前に彼の筋か骨がどうにかなってしまう。
「どうした。何か気になることでもあったのかね?」
「……歪みの跡を見ろ。雪山猿の力なら確かにやれるだろうが、奴らの指はもっと太い」
ふむ、とマーガレットが錠前の痕跡に注目する。歪み、引っ張られたような痕跡はあるが、確か指でつかんで引きちぎったにしては、形状が妙だ。むしろ、もっと細くて細かい――たとえば牙や歯で噛み千切ったような形状に見える。
雪山猿はその高い握力と膂力で有名な怪物だ。山の岩肌が荒い崖、そこの穴などに住み着く。無論、彼らの顎も人間と比べれば強いだろうが、少なくとも金属の錠前を食い千切れるほどではない。
ディロックはちぎれた後に残る汁に触れた。粘性が濃い。嗅いでみると、生臭いが、かすかに乾いた肉と塩の匂いがする。
「……取られた食料というのは、干し肉の類だけか」
「え? あ、ぁあ、はい」
「もしかして、以前にも量が減っている事がなかったか?」
「なぜそれを? ……いえ、その通りです。これまで共有財産でしたから、錠はかけておらんかったのです。しかし、最近量がやたらと減っていて、用心のためにと付けた矢先のことでした」
ふむ、と彼はぐるりと目を回して、マーガレットの方を見た。彼女も何事か思案していたが、すぐに彼と目を合わせると、小さくうなずいた。
「……村長。どうもこれは、雪山猿の仕業じゃあないぞ」
「え」
「やつらが人のいる領域まで下りてくる事はほとんどないし、そもそも肉を食わん」
一番の問題はそこだった。雪山猿の生態と、今回の事件との関連性が薄いのだ。あれらは主に草食の生き物であり、洞窟に生えたキノコなども好んで食すが、肉は食わない。縄張り意識が強く、そこに踏み込んできた獣や人に攻撃を加えることもあるため誤解されがちだが、基本的に防衛的な生き物なのだ。
加えて、内向的な習性という点もある。雪山猿は怪物の中では比較的温厚――積極的に襲ってこないという意味で――であり、縄張りさえ侵犯しなければ、あちらから襲ってくることは起こりえない。
しかも、既に複数回に及んで盗んでいるとなると、明らかに保管場所を把握したうえでの犯行だ。
そういう性質を鑑みると、それ以外の犯人像も浮かび上がってくる。人間ではなく、肉食で、賢いうえ、柔らかいとはいえ金属の錠をかみ砕くほど強い顎を持っている存在。
「近くで、肉食獣の類を見たことは。特に、人に手を出してこなかった類は」
「ここいらでは、朝待ち鳥ぐらいしか、肉食の怪物は……あとは、狼ぐらいですし」
――狼。
ディロックはその単語を聞いて、思わずオヴァトの方に目をやっていた。老人は目を伏せて、何の反応も示さない様子であったが、膝の上で握ったこぶしだけが震えていた。
ハッキリ言ってこの話題は避けたい。居候としては、家主の顔色ぐらいうかがいたいものだ。だが可能性を否定はできない。彼は目線をオヴァトから外すと、次にマーガレットの方を見た。紫紺の目と金の目がわずかに交差する。
好奇の光がある目だ。ここでなぁなぁで済ますような事態は許してくれないだろう。吐き出しかけたため息は、どうにか胃の中に落とし込む。
「朝待ち鳥は夜行性の鳥だ。確かに肉食だが、あれらが狙うのは小動物だし、そもそも錠を食いちぎれるような口はしてない」
「だろうな……と、なると」
ディロックはくるりと目を向けて、ついに村長の方へ視点を戻すこととなった。
「狼の巣は分かるか?」
「ええ。一応、数日に一回は様子を見に行ってますから」
「案内してくれ。もしかすると……悪性の変異を起こしているかもしれん」
「変異……ですか?」
ディロックがうまい言葉を探し出すより前に、魔法使いは粛々と告げた。
「混沌の手勢がかかわっているかもしれん、ということだ。真偽はともかく、手早く確認したほうが良いだろうさ」




