百四十八話 猛威
歩みを進めるたび、雪山が何もかもを拒絶するかのように、吹雪は強さを増していった。
白の猛威。吹きつける風、たたきつけられる冷酷な粒。魔法の力がなければ、ディロックはすでにぶっ倒れていただろう。
しかし、体温の問題がないディロックは、それでも足を中々進められずにいた。
――前が、見えん。
踏み出す足と手だけが、白の世界の異色なのだ。吐く息すら白く、全てが雪に沈んでいくようにさえ思えた。目の前にいるはずのマーガレットがいない。真っ黒なローブさえ見えないのだ。ロープで互いを結んでいなければ、とっくに道に迷っていただろう。
――何も聞こえん。
自分の息以外聞こえない。降りしきる全てが、彼以外を雪山から取り去ってしまったかのようだ。雪を蹴る自分の足音さえ不確かで、ロープを引く誰かが、あるいは"何か"にすり替わってはいないか。不安が募る中、握る杖の感覚だけを確かに感じながら、どうにか歩いた。
気づけば、ディロックは自分が足を止めている事に気づいた。
ハッとしてあたりを見渡す。いつの間にか、目的の村についていたのだ。小さな集落。木製の素朴な家。どこでも見るような当たり前の光景が、どうしようもなく救いのように感じられて、ディロックは呆けたように座り込んだ。
自分がいつ、軒先までたどり着いたのかさえ、もはや気にしようとも思えなかった。気が付けば全身にけだるさがあって、杖を握っていた手が、疲労で固まっている。
歩いてきた記憶がない。たどり着いた瞬間の事も覚えていない。時間だけがすっとんで、その分の疲労が彼にのしかかっていた。
「……大丈夫かね、ディロック?」
困惑の最中、暖かな湯気を上げるコップを、マーガレットが持ってきた。どうやら、到着して随分な時間が経っているようで、オヴァトはもう集落の者に話を聞きに行ったという。
音が聞こえる。そのことを思い出して、ディロックはマーガレットの渡したコップを見る。甘そうな臭いがする。湯かスープかと思ったが、どうにもそうではない。口に含んでみると、温かくもさらりとした口ざわりの中に、鼻をくすぐるような香しい甘さがあった。
「ああ、雪山にだけ咲く花の蜜を、水に混ぜて煎じた物らしい。滋養にいいとのことでね。まぁゆっくり飲みたまえ。動ける気になったら、向こうの家に来てくれ」
マーガレットはそう言って去っていった。
ディロックはといえば、少し情けない気分になった。ハッキリ言えば、自信を無くしたのである。身体能力には自信があったのだ。これまで生き抜けてきたという、苛烈な戦場に裏打ちされた自信。
しかし、彼は動けなかった。自分よりもずっとか弱そうな老人よりも、先に体力が尽き、亡者のように呆然と足を進めていただけなのだ。それが悔しかった。ふと、悔しいなどと考えた事はずいぶん久しぶりだったようにも思った。
雪山という場所の過酷さをなめていたかといえば、そうだと言えるだろう。そもそも、ディロックは南から来た遍歴の人であり、どうしても冒険も南寄りの地方になった。北の国にまるでいった事が無いわけではないが、これほどの猛吹雪に見舞われるのは初めてのことである。
積雪の中を歩いた経験が薄いのもまずかったのだろう。彼の歩みを支えるものは正に経験であり、それがないという事は、剣もなく靴も履かずに夜道を出歩くようなものだった。
だが、今後もそうはいっていられない、とディロックは思う。最果てに向かう道中には、幾たびか船旅も挟まるのだ。ゆりかご諸島から本土にたどり着くまで、多少の船旅はあったが、それで"慣れた"とは到底いいがたい。
慣れていない、経験がない、そんな言い訳で通じるだろうか。悔しさから思い至ったのは、そんな想像であった。
だが、いつまでもこうしてグダグダしていると、身体にもよくない。彼女の魔法がいつまで続くかもわからない。ディロックは気づけば鉛の鎧よりもずっしりと重い身体を、どうにか引きずって、言われていた家屋に入った。
ぎしり、ときしんだ木の床。その音で、中の人間がこちらに目を向けた。その内の二人は見覚えがある顔で、当然オヴァトとマーガレット。もう一人の男は、オヴァトとは違う老い方の老人であった。
骨と皮ばかり、というほどではないにしろ、今までの人生において発生した苦渋と苦労が感じ取れる、皺の深い顔だった。まだらな灰色に染まった髪は元気なくだらりと垂れ、今にも倒れてしまいそうな雰囲気がある。
ディロックが小さく会釈をすれば、その老人も慌てて頭を下げた。
「あ、この方が……?」
「言っていた二人目の助っ人だ」
「ちと雪山に慣れていないから、グロッキーだが、気にするな。どうせもう少し休んだら復活するさ、雑草のように」
「おい」
文句たらたらな様子の彼だったが、からから笑う彼女の顔にげんなりして、勧められるままに椅子に座った。
「……それで、話の続きだが……食糧庫に損害があったというと」
「鍵が砕かれてて、中のものを食われたようです。……まともな備蓄がもう、半分もないんですわ」
げんなりした声が木の中に響いて、かなしげな反響を彼の耳にもたらす。おだやかでない話題だ。とうに分かり切っていたことを、ディロックはぼんやり思った。




