百四十七話 雪山
「ははぁ、狼か。そんなに厄介なものかね?」
「まぁな。経験はないのか?」
「ない。知識はあるが、本の国近辺はそも、野生動物のほうが少なかったのでな」
そうか、と言ってディロックは後ろ頭を掻く。どう説明したものか、と言葉を練ったが、適当な所で切り上げて口を開いた。マーガレットなら多少適当でもわかるだろうと思い至ったからだ。信頼というには少々雑だった。
「まず、狼は実際、そこまで強くはない」
これは事実だ。戦闘の技能を持たない人間には脅威であるが、ある程度育って見習いからの脱出を果たした人間にとっては、片手間で始末できる相手である。
火を噴かないし、毒をもたないし、爪は鋼を切り裂けず、翼がないから空も飛べない。おまけに魔法の言葉も唱えないとくれば、ある一定の強さを超えたものなら、雑魚として分類できる類の生き物だ。しかし、それでいながら決して油断して良いと言う訳ではない。
「狼は群れを作る。その群れの中で頭目が生まれてくる訳だが……時折、この頭目にとてつもなく頭が良いのがいる」
「頭が?」
「例えば、人間の罠を逆に利用したり、人間の心理を突いてきたりな。まるで人間と戦う為にうまれてきたような奴が、稀にうまれる」
自然の猛威というのは恐ろしいもので、そうした突然変異を生み出すことがある。まるで自然そのものが人類を嫌っているかのように。
単に偶然なのかもしれない。万に一つ、億に一つ、雷が自分に振ってくるようなものなのかもしれない。だが、それを楽観視することは、彼にはできなかった。その偶然に救われてきたからだ。次、その奇跡とも呼べる低確率が、自分を救ってくれる保証はない。
そこまで語って、金色の目がやや伏せがちになる。ディロックはどこかで、老人と自分を重ねていた。彼は雷が落ちたディロックなのかもしれない。そんな彼を見て、マーガレットは偽ではないと判断したのか、ゆったりとうなずいた。
「分かった。なら、警戒しておこう。獣避けのまじないは使えるのだろう?」
「ああ。賢い獣には看破されるから、どこまで通じるかはわからんが」
呟くように言う彼。女は大丈夫さ、とからから笑った。大丈夫でなかったときは死ぬだけだと。
果たして昼頃になり、ディロック、マーガレット、そしてオヴァトの三人で山小屋を出る事になった。救難の知らせたる狼煙が見えたという。今も酷く雪が降ってはいるものの、雪山に慣れた老人は行けると踏んだらしく、手伝いを頼まれた。
「山道の整備もついでに行う。積雪次第では経路を変更せねばならんからな」
「分かった。指示してくれ、雪山の動きには慣れがない」
「ディー、砂塵除けの布を巻いておくといい。雪も多少は防げるだろう。ついでにコレだ……」
そういってマーガレットが何事かをもごもごと紡ぎ、黒壇の杖を掲げた。
するとその途端、魔法の息吹が粉の雪をわずかにはね飛ばし、三人の体を包み込む。鎧というよりは、泡のように淡く脆いそれは、たしかにディロックの寒気を払うことに成功していた。
「これは?」
「『天候防御』だ。暑さ、寒さを遮断する。魔法の熱や冷気は弾けないがね」
「……昨日これをしてくれればよかったんじゃないか?」
「道も分からない猛吹雪の中でか? 途中で魔力が切れて共倒れになっていただろうさ。納得してくれよ、寒がり君」
「……分かった」
ぶすっとした返事に、マーガレットはまた笑う。オヴァトがどこか、眩しそうな目でそれを見ていた。
「行くぞ。狼煙の色を見るに緊急事態ではないだろうが、それでも急ぎたい」
老人が歩き出す。年は旅人たちの数倍あるはずだが、確固たる足取りだ。片足が義足だということをかけらも感じさせず、両手にもった針のような杖を刺し、雪山を我が庭とばかりに歩いていく。
慌てて追いかけた二人も登山用の杖やらを取り出すが、彼ほどに上手くは扱えなかった。一歩進むたび、雪が足を包み込む。一粒一粒は羽毛のような軽さであるはずなのに、深く踏み込んだ雪の地面はずっしりと足にのしかかってくる。
足が前に蹴りだせないのだ。これはディロックも驚くほどの重さで、足を動かそうとするたびに山全体がのしかかってくるかのような重圧を感じていた。
そんな状態では到底普段のようには歩けず、一歩を踏み出そうとするたびに、足を地面とは水平に動かして、つま先を雪のじゅうたんからひっこぬく必要があった。
しかも雪はひどく積み重なっており、一々深くまで踏み込んで自分の体を固定してから、また一々足を全部引っこ抜くというなんともまどろっこしい動作を繰り返さざるを得ない。
マーガレットもそのようにして二、三歩歩いた後、諦めたように杖を振るう。すると、彼女の体がまたたくまに浮かび上がる。そして雪の僅か数センチ上に浮かぶと、虚空を蹴って歩き出したのである。ディロックは恨みがましい目でそれを見た。
――『浮遊』だな。魔力がどうとか言っていたくせに。
だが口で言っても彼女は鼻で笑うだろう。彼は結局何も言わず、どうにか慣れようと努める事しかできなかった。
思い思いに雪山を克服しようと二人が足掻く中、老人は一人、もくもくと歩を進めていた。身体能力に優れるディロックにも、魔法を用いたマーガレットにも、劣るどころか数段早い。彼はいったい、何年の間を雪山で過ごしてきたのだろうか。そんな年月を思わせるへだたりだ。
彼が見上げてみても、この雪山には何もないように思える。ずっと青白い白の世界だけが広がっていて、時折無機質で暴力的な岩肌だけが見える。ここにはなにもない。雪を踏みしめるたび、その思いだけが強くなる。
老人をここに縫い留めているものは――ディロックは先ほどの遠吠えの事を思った。




