百四十五話 吹雪と旅人たち
ビュウウゥ――。
風が吹いている。ひどく強い風だ。山頂から吹き下ろしてくる風が木枠の窓をビリビリと揺らし、雪の冷たさを家の中まで送り込もうと画策している。
しかし、石材を基盤に、上質な木材をふんだんに使用して作られた小屋は、どれだけの風と雪に煽られても、その家主に雪の一つ、寒さのひとかけさえ届けはしなかった。
「明日は、雪かきから始めねばな」
独り言がむなしく響く。肯定も否定もされなかった。そこには、一人の老人しかいなかったからだ。
オヴァト・ロカチェフ。今年で齢七十一にもなる大長老で、弓と山登りの名手である。白いひげをぼうぼうに蓄えた鷲鼻の男で、帽子に半ば隠れた目が、何もかもを恨んでいるかのようにつり上がっている。
パチパチ、と薪の爆ぜる音。ちまちまとため続けた薪は、今この瞬間に燃え盛り、オレンジ色の光を部屋中に広げ、熱を放ち続けている。
誰も来ない家の中で、老人は安楽椅子に座りながら、暖炉の火をぼうっと見つめた。
どれほどそうしていただろうか。吹雪に囚われたこの小屋では、時間の経過というものがほとんど感じられないのだ。外を確かめようにも、地は雪に覆われ、空は雲で閉ざされている。
だからこそ、ここには誰も来ないのだ。それでいいと彼は思っていた。しかし――。
ザクリ。
ハッとして、老人は弓と山刀を手に取った。この猛吹雪の中、何かの音が聞こえたのだ。
ザクリ、ザクリ、ザクリ、ザクリ。雪を踏みしめ、一歩一歩進んでいる音。規則的な足音は旅慣れを感じさせるが、人数は少ない。一人か二人だ。
こんな吹雪のさなか歩くのは、大方山賊か、この小屋が目的か、あるいは大馬鹿者ぐらいである。弓に弦を張り、鋭い目で矢筒を引き寄せながら、雪の嵐に耳を澄ませる。
かすかに聞こえる金属の音は武器だろうか。意味は聞き取れないが、何かを言い争っている。いや、どちらかといえば、激励や罵倒に似た大声を、片方が発しているらしい。渋いが高い女の声である。
「――! ――!?」
「――……」
それに対して、今にも消えそうな返答がかえっていく。もう片方は男であるようだ。女はそれを気にせずに、男を引きずるようにして、ずんずんと小屋の方に近づいて来た。
激しいノックの音が連続して響く。扉にも拳にも配慮しない、荒い打撃。すわゴロツキかと弓を引いた老人は、しかし次の一言でぽかんとした。
「すまない、誰かいるかね!? 一人寒さで死にかけている馬鹿がいる! 謝礼は払うから、どうか一晩頼む!」
――どうやら、大馬鹿者が来たようだぞ。
老人はため息とともにそう思ってから、弓を弾き絞る腕をゆるめ、入れと告げた。
「いやはや、すまないなご隠居。こちらの馬鹿が世話になりっぱなしだ」
「……気にせんでいい」
肌の白い、魔女装束の女が言う。ローブと同じように真っ黒なとんがり帽子は、学院出の証し。誉れ高い正統な魔術師であることを示している。名はマーガレット。
そしてもう一人の来訪者は、暖炉の前で毛布にくるまっている褐色肌の男、ディロック。独特のつやを持った黒い鎧を着こんでおり、腰には使い込まれた様子の曲刀がある。歴戦といった風情であるが、しかしガチガチ歯を鳴らして震えている様子からはそうした様子を感じられなかった。
馬鹿と言われて黙っているのは、口を開くことさえ億劫だからだろう。彼はこの大陸から、海を越えて南、雪もほとんど降らないほど温暖な地域の出だ。それゆえ寒さには弱い。今日は予想外の吹雪だったので、動けなくなってしまったのだった。
「……準備不足だった……」
「ああ、吹雪そのものもそうだが、君の寒がりを甘く見ていたな」
処置無し、と言いたげに首を振るマーガレットを、睨みつけるディロックだったが、二、三の呻き声を上げる以上のことはしなかった。それしかできなかった、とも言える。
確かに油断はあったのだ。ここ最近、寒い場所に行くことが多かったこともあり、多少は慣れただろうと考えていたのだ。浅い考えであった。彼の寒さへの弱さは、もはや個人差うんぬんではなく、生まれ持った特性としてものなのだ。種族としての弱点と言い換えてもいい。
防寒具も着込んでいたとはいえ、猛吹雪のさなかだ。彼の寒がり対策としては、大した役には立たなかった。まして、風や雪を遮るものが少ない、登山の中であるから、余計にだ。
もしここで老人の小屋を見つけていなかったら、ディロックは凍え死んでいたかもしれない。そうでなくとも、しばらく身動きを取る事はできなかっただろう。
「それにしても、ひどい雪だな」
「この時期だけは、一度だけ、ひどい猛吹雪が降る。日ごとに軽くなったり、重くなったりだ。そのあとはさっぱり晴れて、ひと月は降らん」
老人は途方に暮れた二人を見て、ため息交じりの声を漏らした。泊っていけと。晴れたら出て行けばいいと。
「……いいのかね? 私たちが良からぬ者の可能性もあるだろうに」
「良からぬ者は、この吹雪の中、老人一人が住む家に乗り込んできたりはせんよ。もうちと頭を働かせる」
「はは、それは違いないな」
「……面目ない」




