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青空旅行記  作者: 秋月
四章 見捨てられた国ウルツ
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百四十三話 邪竜の最期

 ――あと一つだけ、手があります。虚仮威しにしかなりませんが。


 石畳を削り、矢の如く駆け出したディロックの脳裏に、ロイエルの言葉が浮かぶ。


 手があるという。手練手管と知識によって、竜さえ封じてみせた青年が。であれば信じるほかはない。


 ――目くらましなら、まだできるさ。とはいえ、それで今度こそ品切れだがね。


 光の糸となって襲い来る炎に肌を焼かれながら、魔女の言葉を思い出す。


 まだ出来ると言ったのだ。雷で持って鱗を溶かし、竜の炎さえ退けた女が。ならば疑う余地もなし。


 後は剣を振るうものの仕事だ。


 駆ける、駆ける、駆ける。一歩ごとに体が燃えるような感覚。肌が溶けているのだ。瘴気は体をことごとく焼けただれさせ、目を溶かし、臓腑を腐らせる。


 いかに布を巻いたところで、完全に遮断できるわけではない。だが、砂に覆われた国で積み上げられた砂塵よけの技術は、それでも確かにディロックの目を守り、鼻を守り、口から臓腑へと流れ込んで行こうとする瘴気を食い止めてくれた。


 息は細く、視線は刃よりもなお鋭く。切り札は尽きた。頼れる仲間も疲労困憊、あとは一芸を残すのみ。


 だから、命を尽くす。


『早いな、強き者よ! だがいつまでそうしていられる? この瘴気の中で、息を荒らげずにいられる?!』


 竜が笑い、羽ばたく。それだけで瘴気は一点に集まってより濃い霧となって飛来し、彼の鎧を少しずつ腐らせた。


 あと二十歩。砂塵よけの布はまだ持つ。たが、とどめの一撃を叩き込むまでに崩れないかは未知数だった。


 だから、仲間がいる。


「行きます! ディロックさん、耳をふさいで!」


 無茶を抜かすなと叫びたくなったが、口を開くのはそれだけでリスクだ。ディロックは体のひねりと手首のスナップだけで剣を竜めがけて投げつけると、空中で転がるように身を丸めて耳をふさぐ。


 瞬間――爆音。炸裂。


 見れば、竜の放った瘴気が、僅かな爆発とともに燃え落ちていた。辺りへ撒き散らされた薬液は、色を失いながらも瘴気の世界を侵食し、無尽蔵に広がっていたそれを燃やし、爆ぜさせ、わずかに押し返した。


 竜の瘴気は、かつてこの国を滅ぼした。だが人は生きていた。つまるところそれは、竜の瘴気に対して対応策を編み出したということにほかならない。


 それの生産方法は現代まで残らなかった。もはやいくらも数はなく、いくらかの名家が試験管一瓶分持っている量で終わり。


 カバンの下、二重底の中へしまい込まれていた貴重なそれ。竜の瘴気が何するものぞと作られた、人間たちの悪あがき。ロイエルはそれをここぞとばかりに放り投げたのだ。


 竜の目が一瞬、鮮やかな小爆発へと奪われる。すぐに戻した視界には、さらに近づきつつある戦士の姿。先ほど投げたはずの剣は、いつの間にか、その手に握られていた。


 あと十歩。


『こしゃくな――ぐぁ!?』


 ディロックめがけて振り下ろさんとした爪は、しかし驚愕と衝撃に止められる。


 そこには、極小の太陽が生まれていた。いや、正確には違う。マーガレットの封じ込めた竜の息吹だ。


 異次元に封じ込められていたそれを、今一度現世へと解き放ったのだ。進む力を失った炎は、もはや敵を穿つことなど出来はしない。だが、ただ暗闇を切り裂いた眩い閃光は、わずか一瞬、たしかに竜のまぶたを塞いでいた。


 光を背に走るディロックは、逆光の中で竜の姿を見る。最も理外にちかしき怪物の姿。振りかぶる刃。


 あと――。


「――か、はっ……」


 気がつけば、喉を血が通り、ディロックは膝をついていた。


 何が起こったのか、そのいっしゅん、誰も把握できなかった。だが、誰よりも早く理解に至ったのは、竜であった。


『――瘴気を吸い込んだか! 動きすぎたな、人間!』


 竜の首が迫ってくる。開かれた(あぎと)の中に、ギラリと光る短剣のような牙が並ぶ。


 臓腑に焼きごてでも突きつけられたかのような、喉をほとばしる痛みと熱。もはやこれまでか、そう思って迫りくる最後を睨みつける。


 そして、その首に、鱗の欠損を見つけて。


「立て、ディロック!!」

「が、ああァァァアアア!!!」


 マーガレットの叫び声を背に、ディロックは吸い込む息の苦しさを無視して、あらん限り息を吸い込むと、跳んだ。ガチンと閉じた牙をすり抜けて、その首に至り。


 その刃を振り抜いた。


 自分でも驚くほどの脱力のままに振り抜いた刃は、それこそ空振りかと思うほどに手応えが軽く。


 受け身も取れずに転がり、見上げた砂の天井には、彼が振り抜いた刃の形に()()()()()


「あ?」


 体中を石畳に打ち付けた痛みも気にならず、呆然と声を漏らす。耳元で笑い声が聞こえた。ここにいないはずの誰かの。もういないはずの誰かの。


 ――大丈夫。君は頑張ってるよ。


 幻聴か。彼はすぐに思った。あるいは走馬灯かも知れない、と。けれど、彼の体はまだ鈍い痛みと鋭い痛みを交互に受けており、少なくともまだ、金眼の虎の導きを受けたわけではなさそうだ。


 なら、今のは。


  漂う血の匂いと、それから僅かな静寂。瘴気はもう溢れ出さず、光を失った竜の目が虚空を睨んでいる。ただそれだけが、今の所のディロックに分かる、単純な事実であった。


 物思いへ耽る彼に、駆け出したマーガレットとロイエルがたどり着くまで、あと数秒。

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